2010年3月29日月曜日

Day60 カリブ海の真珠

僕の旅行ですが、残すところあと20日になりました。
今日はこれからカリブ海の真珠、キューバに行ってきます。
4泊5日間のキューバ滞在です。

キューバはご存知の通り社会主義政権です。
スーパーマーケットに行っても商品が陳列されていないそうです。
資本主義社会の基本である供給過多的な商品の陳列はキューバでは有り得ないみたいです。
ネットが使えるかどうかもわかりません。ブログの更新は出来ないかもしれません。

でも、40年代のクラシックカーが走っていたり、マクドナルドやコカコーラの看板のない街並みがあったり、キューバ、楽しみでなりません。
日本人宿で知り合った人も口々に「キューバはいい。」と言います。
とりたてて何がいいわけではないのだけど、とにかく「キューバはいい。」そうです。

きっと僕達日本人や資本主義社会の国々の人が体験したことのない空気が流れているんだと思います。

でも僕はベーシックインカム構想には断固反対です。
やっぱり人間は一生懸命働かなければいけないと思います。とニートの僕が言えた口ではありませんが…。笑

それでは、また。

Day59 チチェン・イツァ

カンクンからバスに揺られること3時間、マヤ文明の遺跡、チチェン・イツァに行って来ました。
マヤ文明にもその他のメソアメリカ文明にあるようにピラミッドが存在しています。


写真のピラミッドはククルカン(ケツァルコアルトルのマヤ語表記)のピラミッド、通称カスティーヨです。
カスティーヨは天文学の技術を駆使して建造されたピラミッドで、カレンダーや時計の機能を持っています。またその精巧さはスイス時計の機械仕掛けにも引けをとらないほどのものだそうです。
有名な話では、このピラミッドの北側にある階段の地上に面している段に蛇の頭(ククルカンの化身)のモチーフがあしらわれているのですが、毎年2回、春分の日と秋分の日にだけ真西から照らされた太陽光によって影が出来、この蛇の頭に胴体が現れるように計算されているのです。影の出現は一分の狂いもなく精密に計算されていて、毎年、春分の日と秋分の日だけしか、この現象を見ることができないそうです。

残念ながら今年の春分の日は1週間前でした。


上の写真は戦士の神殿と呼ばれるところで、ここは生贄信仰の舞台になったところです。
現代のサッカーのような球技をし、勝ったチーム(あるいは負けたチームとも言われている)のキャプテンが生贄にささげられていたそうです。生贄の方法は非常に残酷(だと現代的感覚では思う)で生贄の両手両足を押さえつけ、執刀係の神官が黒曜石のナイフを持って、生贄の左あばら骨の隙間を切り開きます。もちろん生きたままです。開き口から手を入れて心臓を鷲づかみにして、ちぎり出し、写真の中央にある、横たわった人(名前は忘れましたが何かの神)のお腹の上にある皿に載せ、神々に奉げていたそうです。後期マヤ文明では(アステカでも)このような生贄が毎日のように行われ、生贄を確保するために、戦争を行うこともあったそうです。
伝承に残っているなかで最も大規模な生贄の儀式では数百という生贄が一度に奉げられ、ピラミッドが流れ落ちた人間の血で真っ赤になったこともあったそうです。
それもこれも2012年12月23日に消滅してしまうと言い伝えられてる第5の太陽の寿命を延ばすための神頼みだったそうです。

僕は現代の日本に生まれて、本当に良かったなと思いました。

マヤ文明を始めとするメソアメリカ文明の興味深いところは、文明の後退が見られる点です。
現代科学にも引けを取らないほどの高度な天文学を有していた文明が謎の消滅を遂げ、再び復活するということがいくつかあるのですが、復活後の文明はあきらかに前の文明が有していたほどの科学技術を持たず、未開の生活を営んでいたり、前述した血の生贄の儀に取り憑かれてしまっていたりします。

中央アメリカには不思議な歴史が残っています。
もう一度、中学生からやり直せるなら、考古学者になってみたいようなみたくないような、不思議な気持ちにさせられました。

2010年3月28日日曜日

Day58 CASA吉田



今、カンクンでいわゆる日本人宿と呼ばれる宿泊施設に泊まっています。
日本人宿と呼ばれているところにはどうやら2種類あるらしく、①いつのまにか日本人ばかりが宿泊するようになった結果的日本人宿と②最初から日本人しか宿泊できませんよとしている本質的日本人宿があるそうです。
今、僕が宿泊してるCASA吉田という日本人宿は後者で、日本人しか宿泊することができないところです。

今までずっと、Hostelbookers.comというユースホステルやホステル、安宿専門の宿泊予約サイトを利用して宿泊先を決めていたのですが、ここに来て、日本人宿に泊まってみようと思い立ちました。

理由はとりわけビーチリゾートにおける西洋人のはちゃめちゃなノリにちょっと付いていかれないと思ったからです。

ここカンクンの日本人宿でもいろいろな人に出会いました。
みんなそろいもそろって兵揃いで呆れてしまうほどです。

まず、アヤミさんという女性がいました。僕より2つ年下の女性なのですが、彼女は10代の時にイタリアに渡って3年間イタリア料理のレストランで働いていたそうです。その後、一度帰国して、ワーキングホリデーをしながら今は2年半程、一人で旅をしているそうです。僕より2つ年下ですが、かなりたくましい女性です。

同室にはヨーヘイ君と僕と同じ歳の男がいて、彼は今6週間くらい旅をしていて、これから南米に行くそうです。帰国はあと5ヵ月後くらいを予定しているけど、場合によっては帰国を先に延ばすかもしれないと言っていました。イタリア人の女の子とアルゼンチン人の女の子とどこかで知り合ったみたいで、一緒にビーチに行くと言って、ニヤニヤしながら毎朝出かけていきます。そんな男は死ねばいいのにって思います。彼は6週間旅行をしているだけで、かなりスペイン語が話せるようになっていて、ガイドブックの後ろの方に付いている簡単旅行会話集に載っているフレーズ程度なら、だいたいわかるそうです。実際にテストをしたのですが、ほとんど理解していました。しかも、この旅に来るまでスペイン語を勉強したことは一度もないそうです。おそるべし語学能力です。きっと旅を終えて日本に帰ってくるころにはスペイン語とポルトガル語がぺらぺらになってるんだと思います。

もう一人同室に坂元君という、これまた僕と同じ歳の男がいます。彼はちょっとした有名人です。彼は「世界の国からコンニチワ」というブログを書いているのですが、彼のこのブログは旅行ブログ村というサイトの世界一周部門で第3位になっているそうです。1日に5000アクセスくらいあるそうです。5000アクセスがどれくらいすごいかというのは、僕のブログについているアクセスカウンターを見てもらえればすぐにわかります。僕のブログのアクセスカウンターの数は一日分でなく累計分です。彼も僕と同じニート(でも僕は次の仕事があって未来は明るいけど、彼のは暗い)で、大学を卒業して、新卒採用で社会人になり3年で会社を辞め、旅に出るという典型的なダメ人間です。今まで8ヶ月旅行をしていて、これから南米を旅行して8月頃に帰国するそうです。
彼とはなかなか気が合って、明日一緒にチツェンイツァに小旅行に行くことになりました。

他にも夫婦で長い期間旅行をしている人や、女性一人で南米を3ヶ月旅行する人など、兵揃いです。なんだか日本人は何をするにも凝り性でストイックなんだなぁって思いました。

今まで泊まっていたユースホステルみたいなところで知り合った外国人にも長く旅行をしている人(イギリス人のマルコスとか)もいましたが、数週間程度の旅行者がほとんどでした。比べて日本人宿で出会った日本人旅行者は平均して、長期間の旅行をストイックにこなしている人が多いです。長く旅行をすればすごいっていう単純なものでもないとも思いますが、やはり長く旅行をするのは大変なことで、すごいことだと思います。
日本人は鮮魚の保存技術にしてもお茶やコーヒーの淹れ方にしても、どの国の人よりもこだわり、なんでもかんでも所謂○○道というレベルにまで持ち上げようとするように感じます。きっと歯の磨き方にしても日本人の磨き方はものすごいんじゃないかって思います。やっぱり日本は国民総ヲタク国家なんです。


ところで、「旅」と言うと、ちょっとストイックな感じがします。「旅行」と言うのとは少し違った印象を持つ言葉です。
これは「ハム人間」と「ハムの人」という言葉が持つ印象や意味が違うのと似ている気がします。「ハム人間」というのは悪魔の実の一つ「ハムハムの実」を食べた超能力人間で、触れた物をなんでもハムに変えてしまうという特殊能力を持っている人のことを言います。一方「ハムの人」というのはお歳暮に決まってハムも届けてくれる人、別所哲也のことを言います。「ハム人間」の方が「ハムの人」より凄まじく強そうです。
同じように「タビ」の方が「リョコウ」より凄まじく強そうな印象があります。辞書上は同じ意味を持つ言葉なのに、意味世界が大きく違うというのは不思議なもんだと思いますが、きっと映画や小説などを通じてそれぞれの言葉が持つ意味世界の住み分けが自然と出来上がったんでしょう。

カンクンの日本人宿で知り合った人々の話を聞いて、僕の旅行はやっぱり「旅行」だなと改めて思いました。いつか、「旅」に出掛けることができたらいいなぁと思います。まぁ同じくらい煩わしくも思うのですが…。

2010年3月27日土曜日

Day57 Joven Mundosの人々

メキシコシティーで滞在しているJoven Mundosというユースホステルは今まで滞在した世界中のユースホステルのなかで飛び抜けて良いホステルです。

まず宿泊費がドミトリーで1泊なんと12USD(約1050円)です。
しかも、2食付なのです!夕食もついて1泊12USDって、安すぎます。
朝食にはパンとシリアルだけでなく、スクランブルエッグやイタリアでいうところのブルスケッタのような温かい料理も出してくれるし、夕食は量こそ少なめですが、トルティーヤだとか、そういったメキシコ料理を出してくれます。
立地はソカロという歴史地区のど真ん中にある広場に面していて、部屋も、バスルームも、共有スペースも綺麗に掃除されています。セキュリティーもしっかりしていて、オートロックのカードキーが部屋と玄関に設置されていて、二重ロックになっているし、部屋の中にも一人一つずつの大きなロッカーがあります。ベッドもマットレスもかなりしっかりしていて快眠できました。シャワーも24時間、お湯がバッチリ出るし、水圧も充分でした。屋上にソカロを見渡せるテラスがあって、朝食と夕食はここで食べれます。日中、ぼーと本を読むのに最高の場所でした。
スタッフもみんな感じがよく、親切で、当初3泊の予定でいたのが、メキシコシティーが想像以上に面白かったのと、ホステルの居心地が良かったのとで結局6泊してしまいました。

そして、このホステルでいろいろな人と出会いました。
(全員分書いたので、かなり長くなります。)

まず、イギリス人のマルコス。
彼は40歳のイギリス人で、初日だけ僕は彼と同じ2段ベッドの上の段で寝たのですが、次の朝、僕が朝食を食べていると、ものすごい勢いで話しかけてきて「昨日は寝れたかい?眠りを邪魔しちゃったなんて事はないかな?」と言ってくるので、「大丈夫ですよ。こちらこそ上で動いちゃってうるさかったら申し訳ないなって思ってたんです。」と言うと「大丈夫、大丈夫。ところで隣のベッドの下の段が空いたから、そっちに移ってもらえない?ホテルの人には僕が言っておくから。」と言って、僕に違うベッドに移ってもらいたいみたいでした。僕も下の段の方が良かったので「良いですよ。」と言って、隣のベッドに移ることにしました。イギリス人にしてはかなりハイテンションで話しかけてくる人で、最初はちょっと苦手なタイプかもって思いました。
一日、観光して、夜、部屋に戻ると、マルコスがギターを弾きながら熱唱していました。同部屋の韓国人のヨンがそれを聞いて、拍手なんかしていたのですが、僕はちょっとだけ、やれやれって思いました。ギターは週に2、3回練習しているそうです。それでも歌唱力とギターの腕はかなりのものでした。自分で作った曲もあると言って、Traveling gameというタイトルの曲を聞かせてくれました。なかなかいい曲でした。彼が言うには、ずっと放浪しながら暮らしているそうで、イギリスにはあまり戻らず、旅先で仕事を見つけたり、時には路上でギターを弾いて、お金を稼いだりしていると言っていました。今はメキシコシティで英会話の先生をしていて、2ヶ月ほどこのホステルに滞在していると言っていました。メキシコ人の恋人もいるそうです。この後はもう5ヶ月ほどラテンアメリカの国々に滞在して、その後一旦帰国し、また旅行に出るそうです。イギリス人には珍しいタイプの人です。
一度、ホステルの屋上テラスで彼と一緒に夕食を食べ、コロナビールを飲んだのですが「いかに日本人とイギリス人は礼儀正しいか」ということについて話し合いました。彼はいままで各地で会った日本人のほとんどが礼儀正しいことに驚いているということ、僕はイギリスに留学した際に、イギリスでは間接話法と言われるフォーマルな表現(例えば道を尋ねる際に、How can I get to the cetre of London?と聞くのではなく、Could you tell me...とかWould you mind if I ask you...といった感じ)をするように教えられたことなどを話し合いました。いろんな国での体験やそこで会った人々のことなど、彼の話はなかなか面白いものでした。このころには最初の印象と違い、彼は他人のことを非常に気遣う、(ラテン化しているけれども)イギリス紳士だなという印象に変わっていました。
ある朝、彼が目を覚まして、先に起きてベッドの上でネットをしていた僕に話しかけてきたのですが「メキシコシティを離れなくちゃいけない。次に行かなくちゃいけない」と言い出しました。「なんで?」と尋ねると「それがなんでかはわからないんだ。でも行かなくちゃいけない。何かがそう僕に言うんだ。Something tells me I have to move.」と言い出しました。「恋人は?」と聞くと「そうなんだよ。彼女にはそのことは言い辛い。でも言わなくちゃ。」と言います。恋人と別れたくなったんじゃないかとも思ったのですが、そんな感じでもなく(それに別れたいなら別れたいって正直に言うだろう)不思議な人でした。ホステルの女の子達とも仲が良く(まぁ2ヶ月も滞在しているので)マルコスは格好良いとみんな言ってました。きっとこの人はどこの国に行っても、それなりにやってけるんだろうな、すごいなと思いました。最後にメールアドレスを交換したので、いつか日本で会うかも?です。

続いて、韓国人のヨン。
韓国人とはどこの国でも比較的仲良くなり易いです。やはり同じアジア人だということが一番の理由なのですが、他にも韓国人は(日本人もそうですが)あまり直接的な表現をせず、なにかと譲り合う習慣があるので(たとえ心の奥では反日であったとしても)気を使ってくれて仲良くなりやすいんだと思います。ちなみに日本人同士はなぜか仲良くなりにくいです。旅行先に来てまで日本人と話したくないと思っているのか、それとも単にシャイなのか。あとは日本語とそれが作り出す文化体系が仲良くなりにくい原因を作っているように思います。僕自身、英語で話している時の方が日本語で話している時よりもフレンドリーに振る舞い易く感じています。一度、マルコスと夕食を食べていたときに、日本人の女の子1人と香港人の女の子1人、メキシコ人の男の子1人と女の子1人のグループ(彼女はアメリカの大学に留学していて、そこでみんなと知り合ったらしい)が僕らの近くの席に座ったのですが、マルコスが「日本人?」と話しかけて、そこからその子達と少し話したのですが、日本人の彼女は僕が日本語で話しかけても、英語で話し返してきます。途中からは完全に日本語になったのですが、日本語のときはやけにぎこちなく、英語のときの方が、笑顔で感じが良い印象を受けました。
マルコスが「今、日本人が礼儀正しい(polite)だということについて話してたんだけど、君もそう思うでしょ?」とその子に聞くと「No.」と言いました。「なんで?みんな礼儀正しいじゃん?」と言うと、「日本人の男はジェントル(gentle)じゃない。アメリカ人はみんな優しい。」と言い出しました。おいおいちょっと待てよ!と思いましたが、僕はマルコスに「日本人の男だってもちろん女の子には優しいけど、表現の方法が違うんだ。いわゆるジェントルマンってのは日本的じゃないんだよ。でも最近は映画とかの影響で、西洋風なジェントルマンが人気なんだよ。」と日本人の男として一応の弁明をしておきました。そしてその女の子に「でも日本人の顔した男が日本国内でアメリカ人みたいに思いっきりジェントルに君の事を扱ったらどう?」と聞くと、「それはちょっと嫌かも。」と言っていました。女の子って難しいもんです。
話を戻して、ヨンはアメリカにある大学でマスターコースに通っているそうで、春休みでメキシコに遊びに来たそうです。僕より一足先にカンクンに行ってしまい、一足先にキューバに行くそうです。彼ともメールアドレスを交換したのですが、すでに韓国にはカン・キョンミンという親友(と向こうは言う)がいるので、ヨンとはそれほど仲良くなることはないと思います。国ごとに友人の定員数があるというのはおかしな話ですが、すでに友人がいる国の人とは(よほど意気投合しないかぎり)仲良くなりにくい気がします。だって韓国に3人も4人も友達がいたら、韓国に行く度にみんなに会わないといけないし、そのたびにスーツケース一杯の韓国海苔をお土産に持たされるわけですから。同様にイタリア人の友人も今後、よほどのことがない限り作らないような気がします。おかしな話ですが…。

次はアメリカ人のマカンジー。彼はバスでメキシコに入国し、バスでアメリカに帰るそうです。彼もギター弾きで、ギターを持って旅行することの良さを教えてくれました。ドミトリーの部屋とか、街中でギターを弾けば、いろんな人と仲良くなれると言っていました。確かに音楽に国境はありません。アメリカ人のゆとり世代なのかどうかはわかりませんが、(僕の勝手な)アメリカ人のイメージと違って、控えめで、日本人並みのコミュニケーション能力の男でした。どうやらスコットランド系の移民だそうで、彼の控えめな態度はかなり好印象でした。

もう一人、アメリカ人のおじさんがいたのですが、名前は忘れました。この人は60歳で、ひとりで旅行をしているそうです。すごく感じのいいおじさんで、「南部にあるプエルト・エスコンディートという漁村で釣りをしてきたんだ。船に乗って、ロッドも餌も全部込みで1日たったの60ドルで釣りが出来るんだよ。マグロを3匹釣って、カジキもヒットしたんだけど、バラしちゃったよ。」と嬉しそうに教えてくれました。僕に今後の予定を聞くので「カンクンに行って、キューバに行きます。」と言ったら「キューバ、お前さん、あんな危険な国に行くのか?」と言っていました。アメリカ人にとってキューバはやはり敵国なようです。

あと、バスク(ってフランス?スペイン?)のおっさんもいましたが名前は忘れました。この人はスペイン語しか話せないのですが、なんとかイタリア語とスペイン語で話をしていたら「俺はスペイン人じゃない!バスク人だ。」と言われました。きっとバスク地方の人達はブルターニュ地方の人達のように、民族意識がめちゃめちゃ強いんだなと感じさせられました。

あとアルゼンチン人のパブロ。
彼は僕がメキシコシティーを離れる前日の夜に来たので、あまり話はしなかったのですが、僕がキューバに行くと言うと、ちょうどキューバから来たところだから、キューバでお世話になったキューバ人の家を紹介してあげるよと言って、そこの住所と電話番号を教えてくれました。民泊的なことをやっているそうです。流石はラテンアメリカ人だけあって、彼は誰とでもすぐに仲良くなる上に、相手の肩や背中をやたらぽんぽん叩きながら話をします。ああいう人間が部屋に一人いると、みんなすぐに打ち解けられるんだなといった感じでした。将来日本に行くときのために、メールアドレスと電話番号を教えてくれと言うので、お互いに連絡先を交換しました。Facebookもやっているそうで、そっちでもコンタクトするよ。と言っていました。親切で良い人でした。

最後はフランス人のジュリアン。
この人もと同じタイミングでホテルに来たのですが、僕がチェックアウトする日の朝食を一緒に食べました。彼はパリに住んでいて、コンピューターのエンジニアをしていたのだけど、会社をクビになって時間が出来たので、旅行に来たと言っていました。「僕も、まぁクビになったわけじゃないけど、仕事を≪自ら≫辞めて、旅行に来てるんだ」と言っておきました。僕は大のパリとフランス料理好きなので、パリトークで盛り上がりました。彼もまた日本に大変興味があるみたいで、桜の季節に日本に行きたいと言っていました。フランスでは日本を特集するドキュメンタリー番組が人気で、多くのフランス人が日本文化(伝統文化からオタク文化まで)に興味を持っているそうです。「もしまたパリに来ることがあったら連絡してくれたら、It's my pleasureだ。」と言ってました。僕も日本に来たら花見に連れてってあげるよ。と言って連絡先を交換しました。

あとユースホステルで働いてる女の子達もみんな親切で良い人たちばかりでした。

メキシコにはどうやら気さくな空気が流れていて、みんな簡単に友達になれるみたいです。
ヨーロッパのホステルではもう少し人々はけん制しあっていたように思います。
いろいろな国の人と出会えるのって、やっぱり楽しいです。
日本にいるとき、僕は人見知りでひきこもり、低社会適応能力者だけど、外国でたまには羽を伸ばすのって面白いです。

さすがはメキシコ!ラテンの国!

Day56 ティオティワカン

 
ティオティワカンは紀元前2世紀ごろから紀元8世紀ごろまで、現在のメキシコシティーから北部へ50Kmほど離れたところで栄えていた古代文明です。
最盛期の5世紀から6世紀ごろにかけては人口20万人を超える世界一の大都市でもありました。

これほどの都市・文明がなぜこの中央アメリカにあったのか、彼らがどこからやってきて、なぜ突然、消滅してしまったのかといったことに関しては、いまだに多くの謎が残されていて、地球上にいくつかある太古のロマンの一つになっています。


その昔、ティオティワカンにはケツァルコアトルと呼ばれる蛇に象徴される神がいました。
また、ケツァルコアルトルは白い顔に長 いあご髭を蓄えた男性であったという伝承も多く残されています。
ティオティワカンのあまりにも壮大な街と圧倒的なピラミッド建造物を前に、このケツァルコアルトルと呼ばれる白人男性がはるか昔にあった(例えばアトランティスのような)超古代文明の出身者で、海を越えてこの地へやってきて、ティオティワカンの原住民達に文明を与え、文化を育んだのではないか、という説を唱える人もいるようです。

例えば、エジプトやメソポタミアに伝わる神話と、当時まったく交流が無かったはずの中南米に伝わる神話があらゆる点で酷似しているなど、超古代文明出身の第三者がこれらの地に別々に赴いて、それぞれに文明を与えたという説を肯定できる要素がいくつもあるそうです。
まぁ神話研究というものに対しては、こういった第三者説の他に、普遍的無意識によって神話の構造やシンボルは似通ったものになるという有力なユングの神話研究などもあるのですが。

今日はそんな古代ロマン溢れる、ティオティワカンに行ってきました。

でも、ティオティワカンに溢れていたのは古代ロマンではなく、地元メキシカン小学生の修学旅行生達でした。


面白いことに、メキシコ人の修学旅行生達はそろいもそろって弓矢(のおもちゃ)を買っていました。日本の修学旅行生が京都で木刀を買うのとまったく同じ行動です。
このことを考えると、やはり普遍的無意識を提唱しているユングの神話研究に歩があるのでしょうか。


そんな子供達にカメラを向けると、みんな笑顔で撮影に応じてくれました。
さらに、僕を取り囲むように集まってきて「どこから来たの?何人?」と聞いてきます。「日本人だよ。」と言うと「東京?東京?」と聞いてきて「東京じゃないんだ。」と言っても「東京でしょ?東京でしょ?」としつこく言ってくるので最後には「うん東京だよ」と言ってしまいました。東京だと言うと、なぜかみんな満足そうに「あぁ、この人は東京の人だ。東京の人だ。」と言い合っていました。メキシコの小学生は日本と言っても東京しか知らないみたいでした。

メキシコの小学生達はすれているところがなくて、みんな良い子ばかりでした。日本でたまに見かけるクソガキみたいな子はメキシコには一人もいませんでした。

今日はティオティワカンの歴史とメキシコの未来を感じた一日でした。

2010年3月26日金曜日

Day55 メキシカンアート



メキシコ国立美術館に行ってきました。
メキシコの芸術には、メキシコ革命以前と以後とで大きな違いが見られます。
革命以前の作品はヨーロッパ的な宗教画や風景画が多く、宗教界がにはスペイン絵画の特徴が、風景画にはフランス写実主義やオランダ黄金期などの特徴がよく見られます。ヨーロッパの美術館でみる絵画と大して変わらないなというのが印象でした。

一方、革命以降の作品(1920年頃以降)はメキシコ独自のアイデンティティを絵画の中に見出そうとする姿勢がよく見られました。
描写のタッチこそ西洋の手法を用いているのですが、書かれているモチーフや色使いが中米的な印象を与えています。やはり西洋絵画をベースにしている作品がほとんどを占めている様子で、ゴーギャン的なタッチの作品やキュビズムを取り入れた作品、僕が敬愛しているシャガール先生(この人はぶっ飛んでいます)の作風を思わせるような作品が展示されていました。
※ここに思いっきり作品の写真を載せるのは気が引けるので、興味がある人はウェブアルバム「MexicoCity2010」を見てみてください。

革命以降のメキシコの画家として有名なのは、フリーダ・カーロディエゴ・リベラ、シケイロス、ルフィーノ・タマヨなどです。ちなみにフリーダ・カーロとディエゴ・リベラは夫婦だったそうです。ウェブアルバムにある画面手前に朽ちた舟が描かれている作品の空の描き方がすごくいいなと思いました。ディエゴ・リベラの作品です。骸骨人間がキュビズムのタッチで描かれている作品はルフィーノ・タマヨの作品です。ちなみにタマヨはタマヨでも男です。

また、これらの革命時代のメキシコの画家達はメキシコ壁画運動の画家としても有名です。1920年代から30年代にかけてメキシコではメキシコ人のアイデンティティについて考える文化運動のようなものが起こりました。当時はまだまだ識字率が低かったため、字の読めない庶民でもメキシコの歴史を理解できるよう、また一部の特権階級だけでなく、誰もが目にすることができるように、公共建造物の壁が画家達に解放されました。

メキシコには古代からこの地に住み着いていたメソアメリカのインディアンと、侵略者のスペイン人、そしてスペイン人が連れてきた黒人奴隷の血が混ざり合って今のメキシコ人と呼ばれてる人達が形成されているので、彼らのアイデンティティはなんなのか、どこにアイデンティティを見出すべきなのか、ということが非常に難しい問題となっています。ティオティワカンやマヤ、アステカなどのインディアン文化を大切にするべきか、スペインによって持ち込まれたヨーロッパ的な文化を大切にするべきか、黒人奴隷と一緒に入ってきたアフリカの文化を大切にするべきか、大きな葛藤があったようです。侵略者のスペインを否定しようとしても、すでに自分の体の中にもスペインのDNAが混ざっているし、かといってインディアンの文化を捨てることもできず、当時のメキシコ人達はきっと苦しんだんじゃないかと思います。でも現代のメキシコ人は歴史は歴史として受け入れているらしく、スペインのことを毛嫌いしているわけでもなく、インディアンの誇りを失うわけでもなく、みんな穏やかに暮らしているような印象を持ちました。

ディエゴ・リベラはこのメキシコ壁画運動でもっとも成功した画家で、ニューヨークでも個展を開いたり、デトロイト美術館に壁画を提供したりと海外でも注目を集めた画家でした。メキシコシティ市内にはディエゴ・リベラ壁画館があり、ここに展示されている「アラメダ公園の日曜の午後の夢」という作品は非常に見ごたえのある作品でした。壁画の前にピアノが置かれていて(演奏はありませんでしたが)、壁画を一望できる場所にソファが設置されていて、座りながらのんびりこの巨大な壁画を鑑賞することができます。ここはオススメです。


ソカロと呼ばれる旧市街の中心地にある王宮の中の壁面にも巨大な壁画が描かれていて、メキシコの歴史や文化について説明しています。

メキシコのアートには単にお金持ちの道楽だとか、新しいアートの探求といった理由だけでなく、メキシコ人の民族アイデンティティの探求と復興を目的としたものが多く、そういう側面を意識しながら眺めると非常に奥深いものでした。

メキシコ、思ってた以上にかなり面白いです。

Day54 メソアメリカ文明

マヤ、インカ、アステカ文明などの中米から南米にかけての古代文明を総称してメソアメリカ文明と呼びます。

メソアメリカ文明で最も有名なのはマヤ文明、インカ文明、アステカ文明の3つの文明ですが、そのほかにもティオティワカン文明、オルメカ文明、トルテカ文明といった、いくつかの文明も含まれます。
これらの文明についてはいまだに不明な部分が多く、例えば紀元前2世紀頃から起源8世紀頃まで存在したティオティワカン文明は最盛期の5、6世紀ごろには20万人が住む世界最大の都市(ヨーロッパでは当時2万人を越える都市はコンスタンティノーブルだけ)であったのに、8世紀頃にはなぜか消滅してしまい、しかもティオティワカンの人達はどこからやってきて、どこに行ってしまったのか、未だによくわかっていないそうです。その後アステカ人達がその地にやってきて、ティオティワカン時代に建造されたピラミッドや神話を引き継いで、その地に住み、アステカ文明を作ったそうです。

メソアメリカ文明はいくつかの大小様々な文明の総称のため、簡単にはまとめられないのですが、特徴を列挙すると、例えば

農耕民文化
ピラミッド信仰
生け贄信仰
多神教
高度な天文学・数学技術

などがあります。
当時のメソアメリカ文明の人々は高度な天文学や数学の技術を用いて、正確な暦を作り、暦に則って農業を営み、また巨大なピラミッド建造物を造り、生け贄を奉げながら神々を崇めたそうです。
また、ヨーロッパ、アジア、アフリカから完全に隔離された地で発展した文明のため、きわめて独自の文化が形成されているそうです。
その独自で高度な(また不可解な)文明のため、宇宙人がやってきて、この地に文明を残していった説が未だにささやかれています。

今日はそんなメソアメリカ文明研究がまとめられているメキシコ国立人類学博物館に行ってきました。
でも日本語の音声ガイドの貸し出しが無かったので、良くわかりませんでした。結局あとでwikipediaでいろいろ調べる羽目になってしまいました。

なので、メキシコ国立人類学博物館に展示されている展示品の中で有名なもの、特徴的なものを紹介して終わりたいと思います。

まずは、アステカ文明の雨の神チャルチウィトリクエの像。


これはティオティワカン遺跡にある月のピラミッドの前に置かれていたものを、国立人類学博物館に運び、保存しているそうです。これはレプリカではなく、本物だそうです。
チャルチウィトリクエは現在の前の時代(っていつだ?)を大洪水で滅ぼし、当時の人間達を全て魚に変えてしまったが、この洪水の結果、大地が潤い、肥沃になって新しい時代の命をはぐくんだそうです。

つづいて、ティオティワカンにあるケツァルコアトル神殿のレプリカです。


ケツァルコアトルはティオティワカンやアステカの神々の一つで一般に羽毛の生えた蛇をかたどり、水と農耕の神として崇められていました。また時には白い顔の人として地上に現れたとも考えられており、1519年にスペインのエルナン・コルテスの軍が攻め込んできたとき、アステカの人々は当初、スペイン人達をケツァルコアトルの化身がやってきたと勘違いしてしまい、対応を遅らせてしまったともいわれているそうです。1519年は奇しくもアステカカレンダーで1世紀にあたる52年の最後の年、一の葦の年だったそうです。

最後はアステカンカレンダーです。


当時、高い天文学の知識と数学の知識を持っていたアステカの人々は1年を365日に分ける太陽の暦と1年を260日に分ける月の暦を使い分け、農耕を営んだり、生け贄を伴う祭事を行っていたそうです。このカレンダーには5つの太陽伝説が刻まれているそうです。すでに4番目までの太陽は消滅していて、現代は5番目(最期)の太陽の時代だそうです。最近テレビなどで取り上げられている、2012年世界消滅説も、この5番目の太陽の寿命が西洋暦の2012年で終わることになっているから、だそうです。
でも、メキシコ人は誰もそんなこと信じていなさそうでした。

中南米には当時のメソアメリカ文明を感じさせる、独特の文化がいまだに残っているようです。
僕は別段、考古学マニアではないのですが、なんだか胸がわくわくするような心躍る感覚を覚えました。
明日か明後日はティオティワカン遺跡に行ってこようと思います。


おまけ:ジョジョの石仮面?by 荒木先生?

2010年3月23日火曜日

Day53 日曜日のメキシコシティ

今日は日曜日でした。
メキシコ人にとっても日曜日は家族サービスをする日だそうで、街には大勢の人が溢れ、ストリートパフォーマーやアステカンダンサー、露天商などがいたるところにいました。

まず驚かされたことは親が子を、まるで犬の散歩でもするかのように腰に紐を縛って連れ歩いてることです。つい笑ってしまいました。


今日はチェプルテペック公園というところに行って、そんなメキシコ人達の様子をぼーと眺めていたり、持ってきた本を読んだり、ネットで調べたメキシコの歴史や文化についての記事を読んだりして、ただただだらだら過ごしていました。

ずーっと旅行をしている僕にとって、曜日なんて関係ない(毎日が日曜日です)のですが、今日は日曜日だということで、一応僕も日曜日らしく、だらだらすることにしたのです。

日曜日のメキシコシティはすごく活気があって、面白く、人々を眺めているだけでも飽きることが無く、あっという間に日が暮れてしまいました。
だらだらしていただけなので、取り立てて書くこともなく、困っています。

 こんなアステカンダンサーや

こんな感じの露天商を冷やかしたりしていました。

あと、国立人類学博物館にも行ったのですが、日本語のオーディオガイドが無かったので、また勉強できていません。ちゃんと調べて、次の日記で書きたいと思います。

Day52 Incredible Mexico!!

朝5時にホテルを出発し、ニューヨークJFK国際空港に7時に到着し、9時の飛行機に乗って、、メキシコシティーに12時半に到着しました。ニューヨークとメキシコの時差は-2時間です。朝から大変でした。

余談ですが、ジョン・F・ケネディー国際空港という名前の響きは世界に数ある空港の中でも屈指の格好良さだと思います。パリのシャルル・ド・ゴール国際空港、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ(フィウミチーノ)国際空港なんかと肩を並べる響きです。日本の成田国際空港、関西国際空港、中部国際空港(セントレア)とは比較にもなりません。あと僕の地元静岡県が誇る富士山静岡空港はなかなか格好良い名前だと思います。まぁ名と実があまりにもかけ離れていて、かわいそうに思える空港ですが…。

話を元に戻して、前の会社にメキシコから帰ってきた同僚がいて、今回は彼のメキシコの友人(日本人)の方にいろいろお世話になります。
夜、食事やバーに連れて行ってもらったり、メキシコ&キューバ滞在中の計画のアドバイスをもらおうと思っています。

メキシコ到着前に、到着便とホテルをその元同僚から友人の方に伝えてもらっていたのですが、なんと!大変親切なことに空港まで迎えにきてくれました。ありがとうございます。
空港で無事に合流し、タクシーに乗って、一度ホテルまで行き、チェックインをして、簡単に昼食を食べた後、市内を少し案内してくださり、その後もう一人別の友人も合流して、3人でビルの屋上にある洒落たカフェでお茶をしました。

メキシコシティーの中心部(特に歴史地区と呼ばれるエリア)を案内してもらったのですが、メキシコって僕が持っていた印象と少し違いました。メキシコシティーの人口は700万人程度なのですが、700万という数字を思うと、大都会のような感じがするのですが、あまり高いビルも無く(歴史地区だからかもしれませんが)そんなに大きな街のような感じがしませんでした。というよりも都会的ではないと言った感じです。
人々も、もっとラテン系で情熱的でアグレッシブ(攻撃的というか積極的というか…)な感じなのかと思っていたのですが、どちらかというと大人しく、控えめで素朴で親切な感じがしました。
心配していた治安も(夜遅く人通りが少ない道は別ですが)そんなに恐いなという印象ではありません。地下鉄に乗っても目つきの悪そうな人達ってあまり見ませんでした。
そして何よりメキシコ人は思っていたよりも背が小さく、どことなくアジア人とも顔つきが似ているので、親近感が沸きました。笑 なかなか楽しそうな街です。

夕方からコーヒーを飲み始めたのですが、あたりが暗くなってきた時、事件が起きました!!
西の空に不自然な動きをする光の物体が現れたのです。ご存知の通り、メキシコはUFOの目撃が世界でも一、ニに多いところです。まさか来て初日に未知との遭遇をするなんて、僕はラッキーなのか?不幸なのか?(とりあえず今夜はホテルに迎えは来ませんでした。)

ばっちり映像を撮りましたので、(僕の驚きと興奮を隠せない声と一緒に)お楽しみください。



最後に燃えるようにして落ちていくのは、やはりあれがUFOだという証拠だと思います。映像の中では「これ、燃えてるよ?あ、じゃあUFOじゃなかったのかな?」なんてとぼけたことを言ってしまいましたが、あれは、スターウォーズで言うところのミレニアムファルコン号がハイパードライブモードにして超高速航行をするときに発生する光の衝撃派が大気に引火して機体自体が燃えたように見えるだけなのです。あのUFOは僕が呑気にも、UFOじゃないのかもしれないという疑問を浮かべている間に、はるか何万光年先の宇宙空間へと超高速移動をしていたのでした。

でも、興奮する僕達3人をよそに、周りでコーヒーを飲んでいた、現地メキシコ人や白人観光客は、一切動じず、会話を続けていました。それだけメキシコではUFOが日常的に出現するのか、それとも明らかにUFOではなかったのか…

UFOなんて信じない、神様も僕と関係ない。だけど目には見えない物を僕ら抱きしめる~♪と歌っていた桜井さんだって、これを自分の目で見たら興奮するに違いないと思います。

宇宙人は確実に地球にやってきています。
もしかすると2012年、本当に何かが起こるかもしれません。

2010年3月22日月曜日

Day51 海外で活躍する日本人



ニューヨークでは多くの日本人が活躍しています。
10th street周辺、2nd Avから東側のエリアはちょっとした日本人街になっていて、日本食レストラン、日本人経営の美容室、日本語学校などが目に付きます。

今日は、ニューヨークにいながら、日本人の方々に大変お世話になった一日でした。

まず、昼食を食べた後、ニューヨーク事情通の友人が教えてくれたCHIKALICIOUSというパティスリーでデザートを食べました。一人で。笑


その友人曰く「ここは予約が全然とれないらしい。」とのことでしたが、とりあえずお店の前にだけでも行ってみようと思って、14時に行くと、まだ閉まっていました。開店は15:00~22:30だそうです。お店の向かいに、CHIKALICIOUSのデザートの持ち帰りができる姉妹店が出ていたので、15:00の開店で入れなかったら、そっちで何か買って帰ろうと思って、一度その場を離れ、15時にもう一度、戻ってきました。
15時に戻ると、8人くらいの人達が並んでいて、ちょうどお店の中に入っていくところでした。
「予約してない上に一人なんだけど、席ありますか?」と聞くと、ウエイターの方が笑顔で「大丈夫ですよ。」と言ってくれ、中に通してくれました。15、6人程度しか入れない小さな店なのですが、僕が入店した後、すぐに満席になっていました。
僕は古風な男なので「九州男児が一人で甘味処に行くとはどーゆーこったい。断固反対するばい。」と普段は思うところなのですが、今はニューヨークにいるので「パリのカルチェラタンのカフェで一人物思いにふけりながらデザートを食べる白人男性」のイメージを持って、思い切って入店してみました。
世の中には男一人では行きづらいところが結構多くあるもんなんです。

このお店は名前の通りチカさんという女性がパティシエールをしているのですが、「あぁここの味は間違いないな」と思わせるような職人的なオーラのある顔つきの方でした。メニューは(洒落ていて)3コースのプリフィックスメニューしかありません。AmuseとChoice of Dessert(リストから好きなものを選びます)とPetits Foursの3部構成です。デザートメニューはどれも想像力を掻きたてられるような洗練された言葉で構成されていて、なかなか一つに絞れなかったのですが、結局(ニューヨークなので)チーズケーキにしました。それにコーヒーをプレスで注文しました。確かプリフィックスが14ドルでコーヒーが5ドルくらいだったと思います。チップを含めて21ドル(約2,000円)でした。



ドーム型のチーズケーキの味は言うまでもなく美味しかったのですが、外がふわっとしていて、中にいわゆるレアチーズケーキのような(微妙に違うのですが、表現しにくい!)チーズがはいっている2層構造になっていました。普通と違いすぎるチーズケーキだったので、説明できません。気になる方は機会を見つけて、是非行ってみて下さい。


※コーヒーカップはロンドンのビクトリア&アルバートミュージアムのものでした。

デザートを食べた後、一度ホステルに戻って、少し休んだ後、同部屋の韓国人男性とフランス人姉弟の3人を誘って、IPPUDO in New Yorkに夕食を食べに行きました。IPPUDO in New Yorkはあの博多ラーメンの超有名店のニューヨーク支店です。実は昨日の夕食にも僕は一人で一風堂ニューヨーク店に行きました。ロンドンで別れた兄から、ニューヨークには一風堂が支店を出してて、味は間違いないと言われていたので、ニューヨークに来たら一度は必ず行こうと決めていました。でも食べてみたら、あまりの旨さに感動して、ホステルに帰ってルームメイトにその話をしたら、行きたいと言い出し、僕ももう一度食べたかったので、二日連続ラーメンを食べに行きました。
ニューヨークの一風堂は日本で食べる料金の約1.5倍の価格なのですが、それでも食べる価値のある味でした。店内は日本のラーメン屋とは思えないような、モダンでスタイリッシュな空間になっていて、驚いたことに、エントランス付近にはバースペースもあります。ここでSAKEを飲みながら入店を待つのが通みたいです。フランス人姉弟はSAKEにちょっと感動していました。
もう一つ驚いたことに、入店まで1時間待ちでした。現地に住んでいる日本人だけでなく、アメリカ人や韓国人、中国人にも人気な様子で、店の前はまさに黒山の人だかりといった感じで人々がごったがえしていました。(アメリカ人は行列は作らないみたいです)
全員でしっかり替え玉をして、ごちそうさまと言ってお店を出てきました。

一風堂さん、マジで!!ありがとう。旨かったです。

その後は、近くのパブに入って、夜遅くまでだらだらビールを飲み、お互いの旅行の話や故郷の話なんかをして楽しみました。

ニューヨーク、想像以上に面白いところでした。
またいつか(ここも!)遊びに来たいと思います。

明日は早朝からメキシコシティーに出発です。

2010年3月20日土曜日

Day50 NYC


ニューヨークにやって来ました。

まず驚いたのは、ロンドンで買い換えたデジタルカメラの性能です。
今まで使っていたものはNicon社のFinepixというラインのデジカメだったのですが、数年前の正月のワゴンセールで1万円程度で購入したものでした。Nicon社はカメラ業界の大手でデジカメの質にも定評があるので、淡い期待をしていたのですが、やはり安物買いの性能はイマイチでした。当時は何万画素かということしか見ていなかったのですが、シャッター速度とか高感度とかレンズ角度など、そういうところも気にしなければいけないなと思いました。
今回買い換えた新しいデジカメはPanasonic社のLumixというラインのDMC-TZ 65という製品です。少し大振りなデジカメなのですが、光学ズーム12倍、1010万画素、ライカレンズ、25mm広角レンズなどなど、なかなかの高性能です。そして日本語ももちろん対応しています。

前のデジカメから数年後のモデルなので、当然性能は高くなっているはずですが、まず写真を一枚撮ってみて、驚くべき性能の飛躍を感じました。12倍光学ズームの威力は凄まじいものです。(僕の写真センスは問わないでください)


一人になると、写真を撮って過ごす時間が多くなるので、この新しいデジカメを使うのが楽しくなりそうです。

次に驚いたのが、ヨーロッパとの違いです。
ニューヨークには5年前に一度来たことがあるのですが、そのときはただ単にロンドンもニューヨークも外国という一括りで見ていました。でも今回、ヨーロッパを長く旅行してきたせいもあって、ニューヨークがこんなにもヨーロッパと違うのか!と感じさせられました。
一言で表現することは難しいのですが、あえて一言で表現してしまうと、「ヨーロッパは堅くて、アメリカはカジュアルだ」といった感じです。
アメリカはヨーロッパと比べると全てがカジュアルです。もちろん良い意味で。
税関の職員も笑顔でジョークを交ぜながら入国審査をしていたし(もちろん見るところはしっかり見ていましたが)、タイムズスクエアの警官は観光客と一緒に記念撮影しているし、道行く人達もみんな気さくでフレンドリーです。ニューヨークの人達はとにかく親切です。
ヨーロッパは少し違います。堅くて、伝統を重んじていて、個人個人はお互いを尊重しながらも別々にに暮らしています。
さすが新世界は旧世界とは違うなって感じました。


もう一つ驚いたのが、ストリートパフォーマーの多さとレベルの高さです。
セントラルパークや街角にあるスクエアに行くと、かなりレベルの高いストリートパフォーマンスを見ることが出来ます。JAZZバンド、バイオリン弾き、サクソフォン奏者、ダンサー、その他各種なんでも揃っています。今日はセントラルパークの北西にあるホステル(名をJAZZ on the Parkと言います)からセントラルパークを抜けて、歩いてSOHOというダウンタウンまで行ったのですが(結構歩きました)、ストリートパフォーマー達のおかげで、ただぶらぶらしていただけなのに一度も飽きることがありませんでした。


ワシントンスクエアというところで黒人のパフォーマー集団が体技を生かしたパフォーマンスをやっていました。ダンスを織り交ぜながらバック転をやったり、前宙前回りをやったり、そういう種類のものです。オーディエンスもかなりの人数で、広場を囲むように集まっていました。
僕も人々に混ざって、写真をカシャカシャとりながら見ていたら、その黒人パフォーマーに捕まってしまい、”6人の各人種の女性とアジア人男性1人の上をジャンプで飛び越えるというパフォーマンス”のアジア人男性1人に選ばれてしまいました。
「全員、両手を後頭部に当てて、首を保護して」と言われたので、頭に手を添えると、そのパフォーマーがそのまま腰を振るダンスをやってみろと冗談で言い出して、女の子達はみんな断ったのですが、お前は男だからやれ!みたいな空気になったので、 要望に応えて、さらにマイケルジャクソンみたいな声を出してみたら、取り巻きのオーディエンスから拍手と喝采をいただきました。恥ずかしかったですが、嬉しかったです。笑 いい思い出になりました。
もしロンドンのコヴェントガーデンで同じことを要求されたら、きっと断っていたと思います。東京だったら、指名されても断固拒否して、空気を読めよ!みたいな態度を取ると思います。


ニューヨークの女神が人々を開放的な気分にさせているんだと思いました。

知り合いの一人が「ニューヨークは歩いているだけでパワフルになれる街」と言っていたのですが、本当にその通りだと思いました。

2010年3月19日金曜日

Day49 さようならヨーロッパ

振り返ると、この旅行を始めて8日目にはすでにヨーロッパにいました。
今日で49日目で、途中アフリカ大陸で7日間過ごしたので、35日間、ヨーロッパにいたことになります。

ベルギーから始まって、オランダ、フランス、イタリア、フィンランド、スウェーデン、スペイン、イギリスと8カ国に行きました。(でもイギリス以外のEU内はシェンゲン協定という協定によってパスポートの提示が無くても行き来できるので、パスポートのスタンプはほとんど溜まりませんでした。あれが結構いい思い出になるので少し残念です。)

8ヶ国を振り返ると、

ベルギー:洗練されたベルギー料理と文化を持つ落ち着いた国
オランダ:自由で偏見がなく、誰に対してもオープンな国
フランス:ちょっと気取ってるけど、鍛え抜かれた文化、芸術、料理を有する偉大な国
イタリア:圧倒的な親しみやすさを持つフレンドリーな国
フィンランド:信頼の上に成り立つ国、禁断のフィンランド
スウェーデン:世界一の美女軍団を誇る?北欧No1の強国
スペイン:ラテンの情熱の国(粗野な一面も)
イギリス:伝統性を重んじながらも変革を続けるヨーロッパNo1の大国

といった感じでした。

どの国からも素敵すぎる思い出を沢山いただきました。
でもやっぱりイタリアが良かったかなぁ。パリもロンドンも捨てがたい。今回、行けなかったロヴァニエミ(ラップランド)にも行きたいし、ストックホルムのナイトクラブにも行けなかった。フランス南西部で美食旅行もしてみたいし、パンプローナの牛追い祭りと闘牛も見てみたいし、イギリスでカナルクルーズもしてみたい。オランダもベルギーももう一回でも何回でも行きたい。ルカのお父さんは年に2回はペルージャに遊びに来いって言ってくれたし、まだまだヨーロッパにはやり残してきたことが沢山ありすぎて、この旅行が終わってからもなんとか機会を作って、遊びに行かなくちゃって思います。

ヨーロッパ大好きです。笑

さて、今日は朝の8時にホテルを出発して、最寄の地下鉄の駅で(19時の飛行機に乗る)兄と別れ、一人先にヒースロー空港へ向かいました。
ワイン業界ではヨーロッパの産地を旧世界と呼んで、アメリカ大陸やオーストラリアの産地を新世界と呼ぶそうです。ロンドンを出発すると、次は新世界です。
兄とはまた4月10日にハワイで(彼は結婚式を4月11日にハワイで挙げます)会います。別れる時、兄は「新世界で待つ。必ず来いよ!」とポートガス・D・エースのようには言いませんでしたが、一緒に旅行できて良かった、ありがとうと言いました。
僕も兄と二人で1ヶ月ちょっと旅行できたことを誇らしく思いました。僕達兄弟は別に仲が悪かったわけではないのですが、昔から兄弟らしいこと(って何だ?って思うけど)をやって来なかったので、今回初めて兄弟らしいことができたかなぁと嬉しく思います。まぁ途中お互いに緊張が走ることも何度かありましたが、致命的な喧嘩もせず、譲り合い、助け合いながらなんとかやってこれたと思います。値観の違う大人2人が一緒に長期間の旅行をするのって思ったより大変なんです。無事に終われたのは、なかなかすごいことだと思います。


↓ヨーロッパ各国の一枚
◆ベルギー

◆オランダ

◆フランス


◆イタリア

◆フィンランド

◆スウェーデン

◆スペイン

◆イギリス

Day48 ロンドンゴルフ


昨年の石川選手の目覚しい活躍と、今年に入ってからの宮里選手のアメリカツアー2連勝という素晴らしい活躍に感化された僕らは、少し前からイギリスに着いたらゴルフをやろうと話していました。

僕も兄も社会人になってからゴルフを始めたのですが、僕達兄弟がそろって出来るスポーツといったらゴルフかテニスかビリヤードくらいのもので、その中からわざわざイギリスでやるべきスポーツは何だろうということになり、ゴルフを選びました。

僕は年に3回か4回しかやらないのですが、ゴルフというスポーツは始めるにはそんなに難しくないスポーツで(熱狂してしまうとなかなか難しいのですが)、だいたい102~106くらいで回れるようになってきました。兄の方が微妙に上手ですが、ほぼ同じレベルです。

よく100を切れるとそこそこ上手な人の仲間入りと言われていますので、あと一歩というところです。会社員時代、何度か同僚とラウンドしたのですが、僕の順位はだいたい真ん中くらいでした。前の会社ではやはり部長クラスは上手く、課長クラスはそこそこ上手く、平社員クラスは下手でした。僕は課長達と同じくらいのレベルでした。(なので僕は素人にしては上手いということになります。笑)
目下の目標は(といっても練習もしないので、出来たらいいなぁ程度にしか思っていないのですが)100を切ることです。それで5年後くらいには平均して95以下で回れるようになりたいなぁと思っています。

インターネットで調べたRichmond Park Golf CulbというRichmond Parkの中にあるパブリックコースに行きました。プレーフィーが21ポンド(約3200円)で貸し靴が6ポンド、貸しクラブが8ポンドと、日本と比べて激安でした。イギリスではゴルフのプレーフィーはチャンピョンズコースであってもかなり安いようです。兄曰く、3月までだったら、セントアンドリュース(スコットランドにある全英オープンでよく使われるコース)でも50ポンドそこそこでプレーできるそうです。

一般にイギリスのゴルフコースは日本やアメリカのコースと違って、芝の手入れを敢えてあまりせずに、自然のまま、ありのままの環境の中でプレーをするという伝統的なスタイルのところが多いようです。フェアウェーやグリーンの芝は刈ってありますが、ラフではブッシュが膝まで伸びていたり、身長の2倍はあるような切り立ったバンカーがあったりと、ありのままの環境を維持したコースになっています。そういコースではもちろん難易度も格段に高くなります。全英オープンゴルフのテレビ中継なんかを見ると、膝下まである長いラフにボールを取られて何度も打ち出せずイライラしているプロやバンカーの壁面が高すぎてグリーンと反対方向にバンカーショットを打たざるを得ない光景なんかを目にします。プロゴルファーでも他の大会と比べてスコアが悪くなります。

そんな攻め甲斐のありすぎる難しいコースを楽しみにしていたのですが、Richmondのパブリックコースはだだっ広い公園みたいなところで、池もバンカーもブッシュもあまりない、平凡以下のコースでした。イギリスのコースは攻め甲斐がありすぎて、ボールを沢山失くすだろうと思って二人で一番安いボールを15個も!買ったのですが、ボールはほとんどお土産になってしまいました。結局ロストボールは僕が1個、兄が2個だけでした。平均以下です。


イギリスのパブリックコースでは基本的にセルフ(キャディーさんなし)で回ります。電動カートの貸し出しは有料だったので、キャリータイプの手動カートを借りて、歩いて回りました。普段日本のコースだと、半分くらい歩いて、半分は電動カートに乗って移動するのですが、18ホール全てを歩いて回るというのは、思ったより疲れるものでした。じわじわと鈍い疲れが足にや腰に溜まっていく感じです。

第1ホールからいきなり130ヤードのショートホール(パー3)だったのですが、9番アイアンで見事にワンオンさせて、パーセーブからの発進でした。第3、第4ホールと少し崩れて7打とか8打を叩いてしまったのですが、その後は大体ボギーかダブルボギーペース(時にはパーも)で大きく崩れることなく回り、トータルスコアが98でした。初めて100を切ったには切ったのですが、少し簡単すぎるコースだったので、自分の(公式)記録には含めないことにしようと思いました。


冬のロンドンにしては珍しく快晴が続いていて、今日も冴え渡る青空でした。
コース上には鴨たちが平然と座っていて、鴨たちを脅かさないように心がけながらプレーしました。鴨たちが気持ちよさそうに水浴びをする中、カートを引きながら青空の下に広がる緑の芝の上を散歩しながらゴルフをするのはやはり気持ち良いものでした。

明日、ロンドンを出発してニューヨークに行きます。
ロンドン滞在の最後の日にとてもいい思い出になりました。

※上の写真を撮ったときの球は大きく左側へ跳んでいきました。打ち終わった後に右足が残っていない悪いショットの典型です。 でもフェアウェイが広かったので、OBにならず、その後のショットをまとめてボギーでした。

2010年3月16日火曜日

Day47 恥の文化

実はイギリスに入国する際にかなり嫌な思いをしました。
入国審査の女性の態度がかなり高圧的で差別的だったのです。
今、僕らは無職なので、入国カードの職業の欄に無職を意味するunemployedと書いていろいろな国に入国しています。働いているとか学生と書いても別に良いのですが、しつこく聞かれたときに嘘がばれると厄介なので、正直に無職と書いて旅行しています。元サッカー選手の中田さんも引退後、世界旅行をしているのですが、入国カードの職業欄にはumemployedと書いていると言っていました。

今回、イギリス入国にあたっても、僕らはunemployedということで入国審査を受けたのですが、僕らを担当した女性が「へぇ、仕事してないんだ?」から始まって、「旅行費用は誰が払ってるの?」と聞くので、「今は働いていないけど、少し前まで働いてたので、旅行費用は自分達で払ってます。」と言うと、「旅費は幾らなの?」と聞いてきました。イギリスに入国するだけなのに、なんで僕らの旅行の予算なんか聞くんだと、最初質問の意図がわからず、少し戸惑っていると、急に声を荒げて「簡単な質問よ。わからないの?旅費は幾らって聞いてるの?」と言ってきました。「1,500,000円くらいだから、10,000ポンドくらいかな。」と言うと、「ふーん、けっこうお金ないんだね。」と言ってきます。いくらの予算で旅行をしようがお前には関係ないだろ!?と思ったのですが、入国で引っかかると面倒なので、一応、質問には答えたのですが、そこから「どこの国に行ってきた?」だとか、「これからどこの国に行くんだ?」と言う事を必要以上(だと常識的には思う)にしつこく聞かれました。それで少しでも回答が遅れたり、英語でつまずくと、また「これは簡単な質問よ。わからないの?」を繰り返してきて、その言い方がなんていうか、僕らのつたない英語や旅行をバカにするような感じがして、かなり嫌な気分になりました。いままでで、世界中で一番ムカつく入国審査員でした。

まぁそんなこともあって、かなり嫌な気分にさせられたのですが、僕はロンドンには3度目だったし、少し長く滞在していたこともあるので、ロンドンの良い所も沢山知っているし、今までのイギリス入国の際は、親切とまでは言えないにしても、特に問題なくすんなり入国することが出来ていたので、そのムカつく審査員一人くらいでは、ロンドンに対する印象はそこまで悪くならなかったのですが、兄はロンドンに来るのが2回目で、前回来たときも数日しか滞在していなかったせいか、今回のことでかなり気を悪くし、その後のロンドンの人々にも悪い印象を持ってしまっていました。基本的にロンドンの人達は親切ではなくて、他人のことには関わりたくないといった感じなのですが、そういうロンドンの人達の気質もこのときの兄にとっては嫌悪の対象になっていたみたいでした。

それで、僕がスペインに対して「粗野だ。」と言った(と少し言い過ぎてしまったのかもしれませんが)ことに対抗してか(どうかは定かではないですが)、「イギリスの方が数倍は粗野だ。」と言い出しました。

でもイギリスは決して粗野な国ではありません。
日本と同じような美しい田園風景を持っているし、伝統的な王室を持っているし、アフタヌーンティーなんていう優雅な時間の楽しみ方を知っているし、何より彼らは「恥ずかしい」という感覚を持っていると思います。

僕が使った「粗野」という言葉について、兄と少し話をしたのですが、僕が「粗野」だと言っているのは、決してスペインの人達が僕に親切にしてくれなかったからではなくて、スペインの人達に「恥」の文化や感覚が見受けられなかったからです。(これも僕が個人的に感じたことなので、実際にスペイン人に聞いたら、恥の感覚はもちろんあるよと言われるかもしれませんが。スペインの人、ごめんなさい)

大人になるということは、少なくとも「恥」を知ることだと思います。
かつてルース・ベネディクトが「菊と刀」で分析したように、日本は「恥の文化」の上に成り立っていると僕も思います。契約や法によって禁止されているからやらない、というより「恥」だからやらないということの方が僕らの感覚に近いように思います。日本人の行動原理に「恥」という感覚が(最近はそうでもないこともありますが)基本的には影響しているのではないでしょうか。
そういう意味で日本は非常に成熟した文化を持っていると僕は思っています。
「恥の文化」があるなと僕が感じた国は、イギリス、フランス、フィンランド、中国(共産党除く)などです。

逆にトヨタ問題で検証の捏造をしたり、ロト6的感覚で集団訴訟を起こそうとしたり、捕鯨船に体当たりしておいて被害者を声高らかに演じてみたり、盗撮を流してアカデミー賞を獲っちゃたり、条約を無視して過去の戦争の法的責任を掘り返したり、疑惑の判定をしてみたり、疑惑を説明しないまま幹事長や総理の座に居座ってみたり、そういう国や団体、人達のことを「恥」を知らない「粗野」だと僕は思います。

イギリス人にも粗野な人は確実にいると思いますが、イギリス自体は決して粗野な国ではありません。
なかなか素敵な国だと思います。

他人が嫌がるようなこと、他人を貶めるようなことは恥ずかしいことだから、僕はやりません。
その入国審査員にはかなり嫌な気分にさせられましたが、人の振り見て我が振り直せということだと思って、悪いサンプルにしようと思います。

Day46 5年越しのレストラン

前にロンドン留学をしていた時、ホストファーザーに「ロンドンの街中で美味しいイギリス料理のレストラン知らない?」と聞いたことがありました。
ホストファーザーのブライアンは少し考えて、「ブラウンズ,Brownsというレストランがいいよ。」と教えてくれました。
「場所はシャフツバリーアベニュー,SHAFTESBURY AVからチャリングクロスロード,CHARINGCROSS ROADにぶつかった所の左前か右前だよ。とにかくCHARINGCROSS沿いにある。」と言っていました。

街中に遊びに行くたびにそのレストランを探したのですが、一向に見つかりませんでした。ブライアンに電話して、もう一度教えてもらってもやっぱり見つからないし、近くのホテルに入って、コンシェルジュのおじさんにそのレストランの名前を告げて、この近くなんだけど知らない?と聞いても知らないと言われました。
家に帰って、ブライアンに見つからなかったよ、潰れたんじゃないの?と聞いても、この間行ったばかりだから、絶対にあるよと言われました。

結局、そのレストランはロンドン留学滞在中に見つけることができず(今になってみれば、なぜインターネットで探さなかったのか?と自分のことながら不思議に思いますが)、Brownsは次に来たときに行ってみようということにして、ロンドンを去りました。

2007年の夏にロンドンに行ったときも(今にしてみればなぜインターネットで探さなかったのか、と思うところですが)Brownsを探してみました。CHARINGCROSS沿いには結局見つからず、適当なパブで夕食を食べたのですが、その後、偶然違う通りの奥にそのレストランを発見しました。セントマーティンズロード,STMARTHINS ROADというCHARINGCROSから一本横に入った狭い道の一番奥にそのレストランがありました。でもこのときはロンドン滞在の最終日でしかも夕食を食べた後だったので、次に来るときに行こうと思って、ロンドンを去りました。

旅行に来ると、何かをやり残して帰ることがよくあります。
そうすることで、またいつか遊びに来る理由ができる、ということにしています。

このレストランを知ってから5年が経ち、ようやくBrownsに行ってきました。

STMARTHINS ROADは狭い道なので、このレストランは30人程度の規模のこじんまりしたパブ&レストランだと思っていたのですが、この道側から見た入り口は実は店の裏口で、反対側の大通りにある正面玄関に回ると、意外にもかなり大きなお店で、300人(少なくとも250人)は収容できそうなお店でした。(きっとブライアンはCHARINGCROSとその大通りを間違えていたんだと思いました)お店に入ると中はかなり混雑している様子で、「予約無いんだけど大丈夫?」と受付係に聞くと、30分ほどで入れると思うと言われ、少し外を散歩しながら待って、入店することにしました。土曜の夜ということもあったのですが、店内は大繁盛でした。
BROWNSはイギリス料理を出すお店で、僕は本日のスープ(とうもろこしのスープ)と28日間熟成したビーフステーキを注文し、兄はフィッシュ&チップスを注文しました。
よくイギリスの料理はまずいと言われるのですが、それは嘘だと思います。確かにきったないパブなんかに入って、フィッシュケーキなんかを注文すると、古くなって匂いの付いた油で揚げた激まずの料理が出てくることも稀にありますが、ロンドンに限ってはそれなりに美味しい料理を出すレストランやパブが沢山あると思います。なんといってもヨーロッパ第一位の都市なのだから、料理のレベルが低いわけがありません。(フランスやベルギーと比較することは出来ませんが…)

店内は照明が控えめに落とされていて、シックな様子なのですが、かなり大きな規模のレストランなのでがやがやしていて、雰囲気は割とカジュアルでした。昔、ブライアンに「スマートカジュアルな格好で行くんだよ。」と言われたのを思い出しました。
僕らが食べた料理の味はどちらも美味しく、値段も(物価が高いロンドンにしては)良心的で、総合的に満足できるレストランでした。照明が落とされていて、店内がかなり混雑していたので、料理の写真を撮れなかったのが残念です。

これで「ロンドンに美味しいイギリス料理を出してくれるなかなか素敵なレストランがあるから一緒に旅行に行こうよ。」とまたしても好きな女の子を誘うことができます。

"Browns" ウェブサイト
http://www.browns-restaurants.co.uk/index.php

2010年3月15日月曜日

Day45 三度(みたび)ロンドン!



マドリードに別れを告げ、再びロンドンへやってきました。
ロンドンにはいろいろな思い出があります。

まず2005年の1月末から3月初にかけて、6週間の短期留学プログラムに申し込んで、ロンドンで英語を勉強したことがあります。
このときのおかげで、苦手を通り越して嫌悪に近かった英語を(多少イギリス訛りだけど)なんとか話せるようになったし、イタリア人の友人とも知り合うことができました。その英語学校で知り合った世界中の人達といろいろな話をして、いろいろな価値観に触れたおかげで、人生に対する見方が変わったと思っています。英語の勉強はそこそこに毎晩のようにみんなで集まってパブで飲みはしゃいでいたけれど、このロンドン滞在は僕の人生にそれなりに大きな影響を与えました。(それが良い影響か悪い影響かどうかはまだわからないけれど)

ロンドンでの短期留学が終わった後、大学時代の友人(彼は僕のことを旅行のベストパートナーだと呼んでいて、僕もおおむね同意している)とロンドン中心部にあるピカデリーサーカスのエロス像の前で待ち合わせて、一緒にフランスとイタリアまでユーレイルパスというヨーロッパ内の列車に乗り放題のチケットを使って2週間ほど旅行をしました。今よりもずっと若く内気で世間知らずだった僕は初めて訪れたパリやミラノの街や人々に強い印象を受けたように覚えています。すべてが新鮮で輝かしい体験でした。

実はそれまで旅行なんて全然好きじゃなかった、というよりもむしろ積極的に嫌いだったし、とりわけ海外旅行は罰ゲームかなにかの類くらいに思っていました。そう意識するようになったのは2003年に父親とその友人達の集まりについて連れていってもらった中国旅行が原因だったのですが、上海では酔っ払いの中国人のおっさんが日本人だと言って絡んでくるし、九寨溝では物売りの連中が押し寄せて来て僕の行く手を塞ぐし、付いてきたガイドは意地汚く僕達から少しでも金を取ってやろうと躍起だったりで、この旅行のせいで、僕は海外旅行なんて二度と行くかと思いました。(ただ九寨溝と黄龍の景色は感動するくらい素晴らしかったです)本当に小さい頃にグアムに行った事があったのですが、この中国旅行がほぼはじめての海外旅行だったので、出鼻をくじかれたような思いでした。(まぁ初めてということもあってより過敏になっていたのも事実だと思いますが)
他にも海外旅行が嫌だったのは、まず言葉が話せないことと、なんとなく海外では差別を受けるんじゃないかと悲観的になっていたことと、食事が合わないのが苦痛だったことなんかが理由でした。

けれども、ロンドンに留学したことで外国語に対する抵抗感はまったくというほど無くなったし、大学時代に毎日パスタを茹で続けたことで、外国の食事と日本食を食べないことにも抵抗がなくなるくらいに慣れました。差別に関しては受けるときは受けるし、受けないときは受けない、それは国の文化的な問題でもあるが、それ以上に個人的なモラルの問題だし、差別的なことを他人に対してしてしまう人間はどこか精神的欠陥を抱えている可愛そうな人間だから許してあげようと、少し強引ですが、そう思ってやり過ごすことにしました。大学時代にグレートギャツビーを2度読んだおかげです。

時代が変われば空気も変わるし、人の考え方も変わるというやつの典型です。

とにかく僕はこのロンドン留学をきっかけに、旅行好きと自称できるほど旅行好きになったし、こうして世界一周旅行にも来ているわけなのです。

あと、2007年の夏にも再びロンドンを訪れました。
その旅行のベストパートナーの友人とまたしてもピカデリーサーカスのエロス像の前で待ち合わせたのですが、待ち合わせ時間を過ぎても、一向に彼はやってきませんでした。次第に雨が降り始め、夜は更に深まっていき、人々が足早に僕の前を歩き去り、遠くで野犬が吼え始め、木々が怪しげに枝を振るわせる中、僕は彼を待ち続けました。ここで会えなかったらもう会えないので、待たないわけにはいきませんでした。結局彼の乗った飛行機が遅延したことが原因だったのですが、電話の一本くらい寄こせって思いました。彼は呑気に「次からは15分待って来なかったら、待ち合わせ時間を1時間ずつ遅らせて、次の00分に待ちあうことにしような。」と言っていました。危うく2007年の夏にテムズ川から邦人男性の遺体が上がるところでした。

まぁそんな楽しげな思い出がロンドンにはいくつかあるのです。

2010年の冬(春)、三度ロンドンを訪れました。
やっぱりこの街はヨーロッパでは圧倒的にコスモポリタン(多文化都市)です。

三度目のロンドン。
特に何の予定もないのですが、何をしても、きっと楽しいと思います。

2010年3月13日土曜日

Day43 食わず嫌い

僕にも好き嫌いというものがある。

例えば、食べ物で言うと、キムチは食べられない。あとモズクもなるべく食べたくない。寿司についてくるガリもあまり好きじゃない。
逆にムール貝の白ワイン蒸しは大好きだし、ぺヤングソース焼きそばも大好きだ。ガリはあまり好きじゃないけど、寿司自体は(ほぼどのネタも)とても好きだ。
好きなお笑い芸人もいれば、嫌いなお笑い芸人もいるし、好きな映画も嫌いな映画もある。もちろん好きな女性のタイプと嫌いな女性のタイプもある。

好き嫌いがあるってことは人間誰しもが持っている当然の感覚だし、別にそれ自体悪いことじゃないと思っている。

という一応の弁明をした上で、僕はスペインのことがあまり好きではないということを書こうと思う。
(私はスペインのことが熱狂的に好きだ。スペインのことを悪く言う奴は決して許さない!という方は読まないでもらいたい)

世界をいくつかに分けると(これはかなり強引な区分けかもしれないけれど)、僕達の日本がある東アジアから、東南アジア、中央アジア、中東アラブ諸国、ロシア、東ヨーロッパ、西ヨーロッパ、北ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、中央アメリカ、南アメリカ、オーストラリアなどがある。もちろんこの中に入っていない例えばオセアニア諸島の国々なんかもあるんだけど。
このざっくりとした区分けの中で、僕が一番好きなのが(日本を除いて)西ヨーロッパだ。
イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、スイス、ドイツ、オランダ、ポルトガル、デンマーク、そしてスペインなんかが(いくつかの国は地理的に南ヨーロッパと呼ばれる場合もあるし、歴史的や政治的区分けによって多少異なってくることもあるが)西ヨーロッパの国々だ。

スイスやドイツ、デンマークなど、まだ行ったことのない国もあるが、基本的に僕はこの西ヨーロッパの国々に対して魅力を感じている。
イタリアには世界に名を馳せる一流ファッションブランドやエキゾチックカーがあるし、フランスにも世界に名を馳せる一流の料理やワインがある。イギリスには伝統的で格式高い王室があって、紳士の国にふさわしいゴルフやテニスといったスポーツも有名だ。ベルギーもオランダも素晴らしいところをあげようと思ったらとてもここには書ききれない。それに西ヨーロッパの国々はなんとなく文化的で洗練されていて、お洒落だ!と言えば肯いてくれる人の方が多いと個人的には思っている。僕はヨーロッパに対して憧れに近い(少し大げさかも知れないが)感情を持っているところが少なからずあると思う。

でも、スペインという国だけはどうしても好きになれない。
僕のスペインに対する印象は「西ヨーロッパ諸国の中で最も粗野な国」だ。

歴史的に見ても、スペインは南米にあった3つの文明(アステカ、マヤ、インカ)を滅ぼしているし(詳細はWikipedia『スペインによるアメリカ大陸の植民地化』参照)、南米の人々に過酷な労働を強き、それでいて疫病なんかが流行して人口が激減すると、今度は南アフリカから黒人奴隷を代替労働力として持ち込んだりもしている。時代が時代とは言え、スペインはめちゃくちゃなことを平然と(かどうかは少し主観が入るけれども)やっていた。

16世紀から17世紀にかけてのスペイン黄金時代も、国内の文化や政治を育て上げた結果というよりも、どちらかと言えば、まだ未開であった南米の発見とその地域からの富の収奪によって一時的に築かれたものだったし、その後の衰退にしたって、国内の経済を支えていたユダヤ人の迫害や改宗、ムスリムの徹底した排除や新興プロテスタントの弾圧などから起きた産業・経済基盤の弱体化が大きな原因となっている。

他の西ヨーロッパ諸国だって同じような侵略と征服の歴史を持っているかもしれないが、3つの文明を滅ぼすなんてことをやったのはこの国ぐらいじゃないかと思う。

でも僕だって歴史的な理由からスペインのことが嫌いになったわけじゃない。
むしろスペインに来てみて、なんとなくこの国は粗野な感じがするなぁと思って歴史を調べてみたら、やっぱり歴史的にも粗野なところがあったという順番だ。

路上で肩がぶつかっても誰一人として謝らないし、道を譲ることはあっても譲られることは(覚えている限りでは)ないし、レストランのウエイターは無愛想だし、ZARAの店員も無愛想だし、ホテルの受付係も無愛想だし、アトレティコマドリードのサポーター連中は昼間から酒を飲んで、酔っ払って、街中で大声で歌を歌っているし(中にはこちらに絡んでくる連中もいる)、スペインに来てからというものの、あまり気持ちの良い思いをすることがなかった。もちろん彼らだって別に僕らに気持ちよい思いをしてもらおうと思って生きているわけではないので、それはそれで一向に構わないのだけれど、それでもフランスでもイタリアでもフィンランドでもスウェーデンでも、何かしら、「やっぱりヨーロッパは良いなぁ」と思わせるところがあった。

スペインに来てから親切だなと感じたのは、今のところ空港のツーリストインフォメーションのおばさんとカンペール(という靴屋)の店員さんの二人だけだし、そのカンペールの店員さんにいたってはイタリアのシシリア出身だと言っていた。やっぱり、イタリア人だ!と思った。

と、ここまで書いてみたものの、ちょっと悪く言いすぎてしまった感は否めない。ごめん。

逆にスペインの好きなところ、良い所を書こうと思う。

まずスペインブランドのZARAとカンペールはかなり好きだ。特にカンペールは大好きだ。
旅行会社に勤めていた時によく履いていたお気に入りの革靴はカンペールのものだし、今回の旅行でもカンペールのスウェードの革靴を一足買った。流石は本拠地スペインだけあって、日本で買うよりもかなり安く買えた。カンペールは細部のデザインにまで入念に凝っているところが好きだ。(例えば今回買ったスウェードの靴もソールにまでデザインがあしらわれている)もし好きな靴のブランドは?と聞かれたら、迷わずにカンペールと答えられると思う。

あとはワイン。スペイン産のワインも結構気に入っている。スパークリングワインのカヴァも美味しいし、テルモ・ロドリゲス氏のワインはどれも好きだ。
食事にしたって、スペインのエル・ブジは世界で最も予約困難な店として有名だし、その料理は(もちろん食べたことはないが)見るからに洗練されていて、粗野という言葉の対極にあるような感じがする。エル・ブジの影響もあって、近年ではスペイン料理が世界を席巻しているといっても過言じゃないし、実際、マドリッド・フュージョンという世界最大の料理のサミットも毎年スペインで行われている。死ぬまでに一度は行ってみたいと切望しているイベントの一つだ。

スペイン料理の定番、パエリアも大好きだ。
今日だって昼食にイカ墨のパエリアを食べてきた。

どの国にも良い所と悪い所、好きな所と嫌いな所があって、それはそれで仕方が無いことだと思う。

旅行者としていろいろな国を訪れると、できるだけ良い思い出を残したくて(嫌な思い出より良い思い出の方が良いに決まってる)、なるべくその国のことを好きになろうと無意識のうちに努力してしまうふしがあって、それが時として疲れに変わることがある。新しい職場で周囲に良い顔ばかりしているうちに、結局ストレスが溜まってしまうというのに似ている気がする。長い旅行をしていると、中には好きになれない国の一つや二つも出てくるものなのだ。そういう時には素直に嫌だと認めてしまってもいいんじゃないかと今回は思った。

「良い面だけを見て、良いことだけを考えるようにするんだ。そうすれば何も怖くない。悪いことが起きたら、その時点で考えるようにするんだ。」と僕は渡辺昇に言ったのと同じ科白を繰り返した。

でもやっぱりこういう批判的な日記を書くのは僕としてもあまり気持ちの良いものじゃないし、嫌な思い出よりは良い思い出を沢山持って日本に帰りたいと思っている。

毎日の(遅れることもあるが)ブログ更新も少し疲れてしまったので、スペイン滞在中は(といってもあと2日だが)、どこかの大御所漫画家のようにブログの更新を休もうと思う。

というわけで明日はブログを更新しません。

2010年3月12日金曜日

Day42 再びヨーロッパへ


マラケシュを出発してマドリードにやって来ました。
再びEU入国です。

やっぱりヨーロッパは居心地がいいなと感じました。

モロッコの雑多な雰囲気やモロッコ人の呆れてしまうほど強引な商売術も面白かったけど、ヨーロッパは押し付けがましいところがなく、個人主義的で、人と関わっても関わらなくてもやっていけるところが好きです。

ヨーロッパでなら暮らせるけど、モロッコでは暮らせないなと思いました。

日本の関係希薄な社会に慣れてしまっているせいか、モロッコの顔と顔をつき合わして会話をする風習には最後までなじめませんでした。

一度、マラケシュのメディナ(旧市街)でハマムと呼ばれる公衆浴場のようなところに行ったとき(ここはマッサージや垢すりをしてもらうところでもあります)、マッサージを待っているモロッコ人男性客がいたのですが、ちょうど全てのスタッフが他の客についていて、誰一人手が空いていず、かなり長い間待たされていました。そのとき僕は床に寝そべって(ベッドの上ではなく、タイル敷きの床に水揚げされたマグロみたいに寝そべっていました)垢すりをしてもらっていたのですが、長時間待たされてしまったこのモロッコ人男性客が突然怒り出して、スタッフの1人を相手に口論を始めたことがありました。
アラビア語で話しているので内容はまるでわからなかったのですが、顔と顔を文字通りつき合わせて(その間にはシャープ製の薄型液晶テレビですら入り込む余地がないほどでした)かなり激しい口調で言い争っていました。怒る方も、怒られる方も一歩も引かず、取っ組み合いに発展するんじゃないかと心配になるほど(このとき僕は釣った魚を締めるかのような高速マッサージを受けていたので、取っ組み合いになったら確実に巻き込まれていました)激しく言い争っていたのですが、ふと怒っていた方の客が笑顔になって、怒られていたほうの客もまた笑顔になって、肩を叩きあいながら和解していました。モロッコ人の心は(駒ケ岳山頂の天気のように)読めません。

その点ヨーロッパはわかりやすくていいです。
怒り出す前には怒り出すぞというサインがあるし、笑うときも笑い始めるぞというサインがなんとなくですがあります。
ここまではやっても大丈夫という境界線が比較的はっきりしていて、また日本とも似ているので、あまり神経を使わずに過ごすことができるんだと思います。

あとヨーロッパはマドリードとロンドンの2都市だけとなりました。
ロンドンを離れたら、当分の間、ヨーロッパに立ち入ることはないような気がします。
あと1週間、ヨーロッパを満喫したいところです。

2010年3月11日木曜日

Day41 McArabia


マラケシュにももちろんマクドナルドはあります。
ケンタッキーフライドチキンもあります。
(残念ながらスターバックスコーヒーはなさそうでした)

モロッコ料理のタジン、クスクス、タジン、カバブ、タジン、クスクス、タジン、ベルベルスープ、カバブ、タジン、クスクスというあまりにも単調すぎるメニューのレパートリーに流石に飽きてしまい、今日は夕食をマクドナルドで食べることにしました。
モロッコでは味付けは薄味が基本なのか、塩味がかなり薄く、時にはまったく塩味をつけないまま煮込んだタジンも出てくるほどでした。塩味の効いていないムール貝の白ワイン蒸しだとか塩味の効いていないニョッキクワトロフォルマッジョなんて考えただけでも嫌です。あと塩味の効いていないぺヤングソース焼きそばも絶対に食べないと思います。
それでも塩と胡椒は無料だったので、食べるときに味を調整してなんとかしのいでいました。


マクドナルドは異様なほどの混雑具合で(やはりモロッコ人にとってもマクドナルドの洗練された都会的な味は美味しいのだ)、注文をするまでに20分ほど待ちました。
日本でもテリヤキバーガーというご当地バーガーがあるように、モロッコにはマックアラビアというご当地バーガーがありました。フィレオフィッシュのセットを食べるか、マックアラビアに挑戦してみるか、列に並びながら20分間考えた結果、やっぱりマックアラビアに挑戦してみることにしました。

後で思ったことなのですが、5年前の僕だったら間違いなくここでフィレオフィッシュを選択していたはずです。それほどまでに昔の僕は内気で保守的でした。この5年間で僕はどうやら少しだけ(マイナスからゼロへのですが)成長できたような気がしました。

マックアラビアはかなり美味しかったのですが、味付けも見た目もアメリカ式ハンバーガーではなく、完全にアラビア世界のケバブでした。ドネルケバブやチキンケバブのドネルやチキンの部分がマック式のパティになっていただけでした。マクドナルド的には完全にアウトでしたが、味はかなり美味しかったのでよしとすることにしました。塩加減もばっちりでした。

一緒に出てきたポテトもよく目にする細くて長いマクドナルドのポテトではなくて、外側にちょっとだけカリカリした衣が付いていて、塩味がよく効いたポテトでした。これもマクドナルド的ではありませんでしたが、美味しかったので満足でした。

僕はマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、スターバックスコーヒーの3社が好きです。
世界中どこにでもあって、どこで食べても(ほぼ)同じ味と品質で安心して食べられます。普段あたりまえのようにマックやスタバやKFCに行きますが、これはすごいことです。世界中にネットワークを広げている外食チェーンって他にあるでしょうか?モロッコにあるマクドナルドはまさに砂漠のオアシスといった感じです。
でも今回の旅行ではまだケンタッキーさんにはお世話になっていません。マックが3、4回、スタバが3、4回です。これも5年前の僕と比べると劇的に少ない回数です。まぁそれだけ今回の旅行ではストレスを感じていないということなのでしょう。

あとは我らが吉野家さんが本格的に世界進出されることを願うばかりです。

2010年3月10日水曜日

Day40 砂漠からの帰還

今日で旅行の40日目を迎えました。明日から後半戦です。
この40日間は毎日があっという間に過ぎてしまって、今まで一度も「長いな」と感じたことがありませんでした。
残り半分しかないって思うと、なんだか少し寂しくも思いますが、まだまだこれからいろんな出会いや面白い体験が待ってるはずなので、毎日思いっきり楽しもうと思います。

今日はサハラ砂漠からマラケシュまで560Kmの道のりを一気に帰ってきました。


朝、5時半に起き、6時からラクダに乗って(このラクダはツアーに含まれていました)日の出を見にいきました。ラクダに揺られてまだ薄暗く寒い砂漠の中を進んでいき、またしても小高い丘(昨日夕日を見たところとは違うところ)の上で日の出を待ちました。
僕らの他にも日本人の男の子が二人(名前は聞かなかったのでわかりません)とイスラエル人の家族(彼らはちょっと傲慢でした)が同じ丘の上にいて、みんなで日の出を待ちました。夜の間に砂漠はかなり冷え込んでいたので、僕はラクダの鞍に被せてあった毛布を全身に巻いて、寒さをしのいでいました。
この日本人の男の子達は僕らと同じホテルに泊まっていて、昨晩の夕食の際に知り合いました。彼らはフェズという町からリッサニ行きの乗り合いバスに乗って、ホテルにピックアップを依頼して自分達でこのホテルまで来たそうです。大学の卒業旅行でスペインとモロッコを2週間ほど旅行していると言っていました。卒業旅行にモロッコだなんて、結構マニアックだなと思いました。彼らはまだ学生だということもあって、僕らよりずっと少ない予算で旅行をしてるみたいでした。ラクダをチャーターするのも1人2000円くらいかかるので、夕日も日の出も歩いて見に来たと言っていました。サハラ砂漠まで来てラクダに乗らないなんてもったいない!と思ったので、帰りは僕らが歩いて、彼らをラクダに乗せてあげました。きっと喜んでくれたと思います。


太陽はアルジェリア方面から昇ってきました。ただ、地平線上に雲がかかっていたので、辺りがだいぶ明るくなってから、雲の切れ目からの日の出でした。朝の太陽は夕方の太陽と違って白く、一気に世界を明るく、温かくしてくれました。僕は大きく背伸びをして、一日の始まりを全身で感じ取りました。
日の入りと日の出を見ることって、普段の生活ではなかなか無いのですが、こんなに神秘的で壮大なものだと改めて実感しました。

砂漠から帰ってきて、朝食を食べた後、荷物をまとめて8時半にホテルを出発しました。
オマル氏の運転でなければ一日で帰れないだろうと思う距離を僕らを乗せたランクルは猛スピードで走り、途中、昼食を食べ、写真停車、休憩を何度か取りながらも、19時過ぎにはマラケシュに到着しました。

今回の2泊3日のサハラ砂漠ツアーでは本当に貴重な体験が出来ました。
旅行代金以上の価値あるツアーでした。

オマル氏、ありがとう。


◆ウェブアルバム The Desert and The Grand Nature in Morocco2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/TheDesertAndTheGrandNatureInMorocco2010#

Day39 赤い砂の大地


8時にワルザザードのホテルを出発し、まずはトドラ谷にあるオアシスへやって来ました。
ここにはトドラ川というなかなか立派な川(モロッコにしてはということですが)が流れていて、その水の恵みを受けて、大きなオアシスが谷底に広がっています。周りには乾いた荒野が続いていることを考えるとこのオアシスはまさに命の森といった印象です。熱帯雨林のような植物の群生が谷底に広がり、ところどころに綺麗に手入れされた緑色の畑が広がっています。このオアシスを壊さないためなのか、谷底のオアシスを避けるようにして谷の斜面に四角い土の家が建てられています。谷の上から見下ろすオアシスと奇妙な形をした村はSF映画やドラクエに出てくる辺境の村を思わせます。

このオアシスを奥へ進むと高い岩壁に囲まれたトドラ峡谷に出ます。東北地方(何県だったか?)の猊鼻渓から森をなくした様な雰囲気のところです。ここはロッククライミングのポイントになっているようで、100メートルほどもあるような高い岩壁をツーマンで登っているクライマーが何組かいました。下を流れるトドラ川も透き通った綺麗な清流で、イワナのような魚が気持ちよさそうに(かどうかはわかりませんが)泳いでいました。

トドラ峡谷の奥にあるレストランで、またしてもクスクスとタジンを昼食に食べました。
モロッコにはクスクスとタジンしかありません。そして、東京やパリで食べるクスクスやタジンの方が本場よりも絶対に美味しいと思います。


昼食の後、ドライバー兼ガイドのオマル氏と再び合流して、一路、サハラ砂漠の町メルズーガに向けて出発です。

オマル氏は信頼できるいい人で(ちょっと車を飛ばしすぎな感はありましたが)、彼はどこに行っても顔が広く、実にいろいろな人と握手を交わし、手を振りあい、僕達のことを現地人に紹介してくれます。出身はどこかのベルベル人の村だと言っていました。
ときおり日本語や英語でジョークを言うのですが、他のモロッコ人(といっても近づいてくる怪しげな観光客商売の連中だけですが)と比べると珍しく実に寡黙な人でした。


オマル氏の運転するランクルの後部座席に揺られて、またしても果てしなく続く一本道を時速140Kmで進んでいきます。彼の運転は平均して制限速度のダブルスコアです。
何度か定番のビュースポットで写真停車をしながらも、2時間ほど走ると、舗装された道路がなくなりました。ここからは何も無い荒野を前の車が作った轍に沿って進んでいきます。オマル氏のスピード狂ぶりはここに来てもまったく影を潜めず、舗装されていない荒野でも時速100Kmくらいのペースでどんどん運転していきます。僕らが追い越した車は沢山あったけど、僕らを追い越した車は一台もありませんでした。荒野の中を30分ほど走ると、眼前に隆起した砂の山が見えてきます。サハラ砂漠です。荒野と僕が呼んでいる大地は砂ではなくちゃんとした土なのに、砂漠と呼ばれる大地は(当たり前かもしれませんが)本当に砂しかありません。地球が皮膚病になったみたいな印象でした。荒野は地面にしっかりと土が張り付いているのに、砂漠は砂が地面からあふれ出し、強風に煽られて盛り上がったり、凹み落ちたりと、地面がうねっていました。荒野と砂漠の境目は不思議です。

荒野と砂漠のちょうど境目に僕達が泊まるホテルが建っていました。50,000円もするツアーに申し込んだせいか、ホテルの部屋はスイートタイプで、ベッドルームには天蓋付きのキングサイズベッドが1台とシングルサイズベッドが2台置かれていました。でも兄弟二人なので、少し虚しかったです。部屋の中に2階のテラスへと続く階段があって、テラスへ出るとサハラ砂漠が一望できました。流石は50,000円もするツアーです。




夕食前にラクダを2頭チャーターして砂漠に沈む夕日を見に行きました。
ラクダに乗るのは初めてでしたが、ちゃんとした鞍が付いていて、ガイドの人が手綱を引いてくれるので、安心でした。何も無い、誰もいない砂漠を僕と兄とガイドの3人でラクダに揺られて進んでいきます。砂の丘を登ったり下ったりしながら、見晴らしのよさそうな高い丘の下にラクダを停めて、最後は歩いて丘を登りました。砂がやわらかくなっているところと、堅くなっているところがあって、堅くなっているところを、足元の砂を崩さないように歩くのがポイントだそうです。丘の上に上ると360度、果てなく続く赤い砂の大地が広がります。遠くのほうにアトラスの山やアルジェリアとの国境線も見えました。


どこまでも広がる砂漠は雄大としか表現のしようがなく、夕日が沈む時には赤い砂の大地がさらに赤く照らされ、波打つ砂の丘が作り出す陰影は綺麗としか表現のしようがありませんでした。


夕日が沈む時というのは不思議なもので、風が止んで、音が止まり、赤紫の暗いやわらかい光に世界が包まれ、徐々に夜が世界を覆うのが感じられます。一日が静かに、そしてゆっくりと幕を閉じようとしていているみたいです。テレビを消して、エアコンを切り、パソコンの電源を落として、音をなくし、最後に部屋の電源を切って、あかりをなくして、ゆっくりとドアを閉める、そんな感じがしました。

実はパリでカメラが故障し(なんと僕のカメラが完全に壊れた2時間後に兄のカメラも部分的に故障しました)、上手く動かなくなってしまっていて、それでも、だましだまし使ってきたのですが、砂漠の壮観な景色を収めるには、力不足でした。ヒースローの免税店で新しいのを買えばよかったと後悔しています。

夜は夜で星空がとてつもなく綺麗でした。オリオン座の中に小さな星がありすぎて、最初、オリオン座を見つけられないほどでした。天の川が白い帯状にはっきりと見えて、天の川の周辺にはときどき流れ星が流れました。

夕食の時にはベルベル人のホテルスタッフがベルベルの太鼓を持ち出して、音楽を演奏してくれます。ベルベル人は実に陽気な人達で、いつまでたっても音楽を止めず、踊り続けていました。(と書いてみたものの、実際には30分くらい演奏してくれただけでした)

今日はモロッコの大自然をを全身で感じた最高の1日でした。

2010年3月9日火曜日

Day38 マラケシュからワルザザートへ

フィンランドでロヴァニエミにオーロラを見に行くことを断念してしまった僕らはモロッコでは確実にサハラ砂漠を見に行こうと心に決めていました。
スウェーデンのホテルでモロッコでの観光プランを練り、
1日目:マラケシュ着 マラケシュ泊
2日目:マラケシュ市内観光 マラケシュ泊
3日目:マラケシュ→ワルザザート(バスで移動、所要4時間) ワルザザート泊
4日目:ワルザザートから1泊2日の砂漠ツアー参加(現地で探そう) 砂漠周辺泊
5日目:砂漠ツアー→ワルザザート ワルザザート泊
6日目:ワルザザート→マラケシュ(バスで移動、所要4時間)、午後、買い物 マラケシュ泊
7日目:マラケシュ→スペインへ
というプランで行動しようということになりました。

ガイドブックを開いて、マラケシュからワルザザートまでの行き方を調べたり、ワルザザートで砂漠ツアーに申し込む方法や金額などを調べていたのですが、思ったより情報が少なく、とりあえずワルザザートまではバスで4時間(金額不明)ということはわかったのですが、ワルザザートから先にどうやって行ったらいいのかよくわからず、(現地に行ってからいろいろ聞きまわるのも手ですが)ロヴァニエミと同じ鉄は踏みたくなかったので、確実に観光できる方法ということで、ガイドブックに載っていたKSOUR VOYAGESという「モロッコの今一番を日本人女性スタッフが皆様に厳選して届けてくれる」という現地のツアー会社に問い合わせて、確実に行ける方法を手配してもらうことにしました。

ホームページを見ると、マラケシュ発着2泊3日サハラ砂漠ツアーというのがあります。ちょっと値は張りますが、ロヴァニエミに行かなかったことだし、まぁ良しとしようということで、このツアーに申し込むことにしました。ちなみに2泊3日、朝食2回、昼食3回、夕食1回で1人約50,000円でした。

このツアーに申し込むことで
1日目:マラケシュ着 マラケシュ泊
2日目:マラケシュ市内観光 マラケシュ泊
3日目:マラケシュから2泊3日の砂漠ツアー参加 ワルザザート泊
4日目:砂漠ツアー2日目 砂漠周辺泊
5日目:砂漠ツアー→マラケシュ マラケシュ泊
6日目:マラケシュ観光と買い物 マラケシュ泊
7日目:マラケシュ→スペインへ
という旅程になって、マラケシュでの滞在時間が半日から一日に延びました。


朝8時にジャマ・エル・フナ広場の旧マグレブ銀行前というところでドライバー兼ガイドと待ち合わせをすると、ガイドがランドクルーザーの前で待っていました。
他に客がいれば相乗りでも構わないと言って旅行代金を節約(二人だけでチャーターするとさらに追加代金がかかります)したのですが、結局僕達二人しか客がいなかったようで、結果1台の車をチャーターするような形になり、かなりラッキーでした。まぁ他の旅行者とみんなでわいわい行くのも楽しいのですが。

まずは道中にある観光スポットに立ち寄りながらワルザザートに向けて出発です。
マラケシュを離れると広大な大地が広がり、眼前にアトラス山脈の押し寄せる巨大な津波のような連峰が聳え立っている景色が続きます。このアトラス山脈を境に北側には肥沃な大地が広がり、南側には砂漠の枯れた大地が広がっているそうです。北側の大地は地殻変動で後から衝突したもので、その衝突による衝撃でこの山脈が出来たんじゃないかって思いました。山脈付近ではアンモナイトの化石も多く採取されるそうなので、昔はこの山は海底にあったという事になります。
そんな雄大な自然風景をぼんやりと眺めながらも、僕らを乗せたランクルはものすごいスピードで果てしなく続くと思われるような一本道を飛ばしていきます。


何度かカフェで休憩をしたり、ビュースポットで写真停車しながら、昼前にアイト・ベン・ハッドゥという村に到着しました。
ここはクサルと呼ばれる要塞化した村で、丘の斜面にびっしりと日干し煉瓦で造られた家が建っていて、見たことも無いような村の景観を作り出しています。その村に入るには川を渡らないといけないのですが、20DHで川渡しのロバに乗るか、靴を脱いで歩いて渡るかの選択ができます。もちろんロバを選択しました。ロバに乗ると、足でロバを叩けば進むから勝手に向こう岸まで行ってくれと言われ、おいおい大丈夫か?と思いながらも、テレビで見たことのある乗馬の要領で足でロバの太ももを軽く蹴ると、ちゃんと歩いてくれました。つかまるところも何も無いので、油断すると川の中に落ちてしまいそうでした。

村の中を歩いていると、「ツチウラからキマシタ」というモロッコ人が声を掛けてきました。どうやら土浦出身の日本人女性と結婚しているそうです。かなり流暢に日本語を話すモロッコ人で、お店をやってるから良かったら見てってと言ってきます。ベルベル人(モロッコの田舎の遊牧民)がしているものと同じターバンを勧めてくれ、最初の言い値が一つ150DH(1600円)と言うのですが、ただの布切れなので、きっと30DH~50DHくらいが相場なんだなと思いながらも、日本人と結婚しているということもあって、あまり値切るのも良くないなと思って、一つ100DHにしてもらって、二つ買いました。
その後、お茶をご馳走するからといって、お店の中の座敷の上に座らせてくれ、ミントティーをご馳走になりました。と思ったら、鍵のかかった箱を持ってきて、中から銀細工のアクセサリーなどを取り出して見せてくれます。いくつか気に入ったブレスレットがあったので値段を聞いてみると400DH(4500円)とか300DH(3300円)と言ってきます。さすがに高いなと思って、二つで300DHなら買うよと言うと、そんなの話にならない。ダメダメと言ってブレスレットを取り上げます。この村の人たちは商売っけはないからあんまり利益は乗ってないんだ、ふたつで650ならいいよ。と言います。それならいらないとって、まぁ350かなと言うと、だめだめ。と呆れられてしまいました。やっぱり銀だからそんなに安くないんだなぁと思って、諦めようとして、ブレスレットを返したら、少し時間が経ってから、600でどうだ?と話をぶり返してきます。利益はほとんど乗ってなかったんじゃないの?と思ったのですが、もうあまり買う気も無かったので、370くらいが限界だなと言うと、やっぱり話しにならないと言って、また仕舞ってしまいます。そんなことを何度か繰り返して、僕は400、相手は450と言うところまでたどり着きました。もう買う気は失せていたのですが。ここまで来る間にお茶を3杯飲んで、兄もいろいろ品定めをしたり、お互いのことを話したりしながら、結構な時間が過ぎました。それでまぁ話が合わないね。この交渉は残念だけど決裂だね。ということでお互いに話にけりをつけて、じゃあ帰ろうかということになって(僕は本当に帰るつもりでした)、そのモロッコ人が、残念だけど会えて話ができてよかった。ありがとう。いい旅を。と言ってくれ、僕のほうも、親切にしてくれてありがとう。買ってあげられなくてごめんね。奥さんにも宜しく。と言ってお互いに握手をして別れました。兄と運転手と3人で道を歩いて村の外れまで歩いて、それにしてもさっきのモロッコ人は日本語が上手かったねなんて話をしていると、なんとさっきのモロッコ人がちょっと待ってくれ、負けたよ、420DHで売るよ。と言いながら追いかけてきました。僕と兄は顔をあわせて、唖然としながら、そのモロッコ人の行動についつい笑ってしまいました。買っても良かったのですが、もう一度終わった話にしてしまったので、本当に申し訳ないね。もういいんだ。と言って断ると、400!400でいいから持ってってくれ、と最終的にはGive me moneyと言い出しました。その態度の変わりようがなんだか可愛く思えて、ついつい笑ってしまいました。でももう本当に買う気がなくなっていたので、本当に申し訳ないねと言って、やっぱり断りました。
最終的にはちょっとかわいそうだなとも思いましたが、100DHでターバンを買ったので、まぁ儲けさせてあげたんだと思うことにしました。

モロッコ人の商売は本当に予測不可能です。

その後昼食を食べて、またいくつかのビュースポットとカフェに立ち寄りながら、ワルザザートに16:30ごろに到着して、ホテルに入りました。
夕食はついていなかったので、適当なレストランで夕食を取りました。が、あまり美味しくはありませんでした。


翌日のサハラ砂漠ツアーに備えてホテルでターバンを巻く練習をしたのですが、アラビアンナイトというよりはタリバンになってしまいました。