2010年4月19日月曜日
Day80 わざわざ集まってくれて本当にありがとう。わざわざ集まってくれて
終に旅行が終わりました。
予定より少し早く、成田空港に13:50に到着しました。
空港まで迎えに来てくれた友人と合流して、まずは旅の疲れを流すために平和島にあるスーパー銭湯よりも一つ上のクラスのハイパー銭湯というところへ風呂に入りに行くことにしました。途中、立ち寄ったサービスエリアで天ぷら蕎麦を食べたのですが、染み入るような美味さでした。とりあえず今週は思う存分好きなものを食べてやろうと思いました。今、食べたいものは、吉野家の牛丼、寿司、ぺヤングソースやきそば、炭火焼さわやかのステーキ、鰻、ラーメンです。とりあえず明日は「SAVE THE 吉野家」キャンペーンで、吉野家の牛丼を食べに行こうと思います。
17:30頃まで風呂に入って、その後友人の家に車を置きに行き、そこから電車に乗って、僕と僕らの思い出の街、池袋へ向かいました。
今日は嬉しいことに、僕の大学時代の友人達が、なんと10人も!集まって僕の帰国パーティーを開いてくれました。
声を掛けてくれたのは、僕の旅行のベストパートナーの男でした。正直、彼にこんなに集客力があると思っていなかったので、びっくりでした。ありがとう。
僕としては、せっかくなので、旅行の話を皆にしたかったのですが、友人の中に一人、偏狭な性格の男がいて、そいつが「あいつに旅行の話を聞くと、調子にのってしまうから、みんななるべく聞かないでやってくれ」と言い出し、せっかくの帰国パーティーだったのに、大して旅行の話もせずに終わってしまいました。
それでも旧友と久しぶりに会うというのは、楽しいもので、あっという間に時間が過ぎてしまいました。まぁ最後の方は僕は時差ぼけで正直眠たくて仕方がなかったのですが…。
旧友というのは不思議なもので、何年経ってもみんな揃いも揃って相変わらずです。あいつら成長ってもんをしないんだなぁって思いました。
今日、寝る前に思い返したことがあって、それは、この80日間の旅行で何か得たものはあったんだろうか、ということです。80日間何一つ生産的なこともせず、毎日遊んで暮らしていたので、ミツバチのように真面目な僕としては、やっぱり世間様に申し訳ないような感覚と、周囲から置いてかれてしまっているんじゃないかっていうような不安感が入り混じったなんともいえない感覚を旅行中、何度も感じることがありました。こういう感覚って日本人的な感覚だなって思うんですが…。
80日間も旅行して何一つ得られるものがなかったでは、ちょっと情けないなって思っていたのですが、僕が世界一周旅行したことで旧友が集まる機会が生まれたので、それだけでも僕が旅行したことに意味があったんだなって嬉しく思いました。
とにかく、久しぶりに集まった旧友との食事は最高に楽しかったってことです。
集まってくれた皆、企画してくれたY君、ありがとう。
2010年4月17日土曜日
Day79 帰国します。
これから帰国します。
ハワイ時間では今、朝の7:07です。
日本時間14:10に成田空港第一ターミナルに到着予定です。
お出迎えよろしくお願いします。
帰国したら、友達が集まってくれて帰国パーティーが待っているみたいです。
お土産買ってあるから楽しみにしていてくれ。
Day77~Day78までの二日分の記事は書けませんでした。
飛行機の中で暇だったら書こうと思います。
それじゃあ、また。
ハワイ時間では今、朝の7:07です。
日本時間14:10に成田空港第一ターミナルに到着予定です。
お出迎えよろしくお願いします。
帰国したら、友達が集まってくれて帰国パーティーが待っているみたいです。
お土産買ってあるから楽しみにしていてくれ。
Day77~Day78までの二日分の記事は書けませんでした。
飛行機の中で暇だったら書こうと思います。
それじゃあ、また。
2010年4月16日金曜日
Day76 ハワイ島一日観光にて
朝4時に起きて、5時にホテルを出発し、7時過ぎの飛行機に乗って、ハワイ島へ行ってきました。
僕はパッケージツアーというものがそもそも好きじゃないし、こんなに朝早くから日帰りでハワイ島なんかに行きたくも無かったのですが、両家の家族全員が参加するということもあって、一応付いて行きました。
ハワイ州にはいくつかの島があって、一番有名なホノルルがある島がオアフ島です。他にも6つの島、ハワイ島、マウイ島、カウアイ島、モロカイ島、ラナイ島、ニイハウ島と100以上の小さな島(人が住んでいたり住んでいなかったり)があります。
この中で一番大きな島がハワイ島で、コナコーヒーやキラウェア活火山やマウナケア休火山などが有名です。今日の観光の目玉は溶岩ウォークと名づけられた、溶岩の上を歩くメニューだそうでした。
ハワイ島のコナ国際空港に到着するとH社の斡旋員が待っていて、僕らと他のお客が全員揃ったところで、現地の旅行会社のガイドさんに引き継ぎました。
この現地の旅行会社のガイドがなかなか変わった人で、マサさんという名前の男性だったのですが、かなり英語的感覚で日本語を話す方でした。それもかなり流暢に日本語を話す上に、顔は思いっきり日本人だったので、ちょっと悪い印象を受けました。
例えば、僕らの家族が4人、4人に分かれてバスの席を座っていた時には、「おたくら、一つのグループだけど、別々に座っちゃっていいの?」と聞いてきたり、他のお客が買い物したいと言い出した時には「そうなんだよな~、日本人みんなホノルルでブランド物ばっか買ってくからな。金持ってんな。でもハワイ島にはそんなもんは一つもないからな。覚えとくといいよ。」とか、かなりラフで乱暴な日本語で話しかけてきました。
言葉とは不思議なもので、彼のガイドが全て英語であれば、まったく違和感なく過ごせるように思うのですが、日本語であの慣れ慣れしさ、乱暴な物言いはかなり受け入れにくいものでした。
それと、客である日本人を少し小ばかにするような発言が何度もあって、やっぱり日本人の僕としては、確かに彼の言うことはわかるし、一部は的を射ているけれども、ちょっと感じ悪いなといった印象でした。日本人を相手に商売をしているんだから、思っていても言ってはいけないことってのがあるもんです。
でも確かに日本旅行者は比較的ツアー客であることが多いし、ツアー客の傾向として、やっぱりミーハー的な行動をし、バッジをつけて、お土産物を大量に購入し、観光名所だけを廻って写真を撮ってお終い、という観光行動をとってしまうものなのです。テレビで紹介されたり、ブームになっているところには本来のその土地の歴史やストーリなんか無視して、こぞってテレビで取り上げられたことだけを消費しようとする日本人観光客は、欧米人観光客と比べるとやっぱり多いように思います。この差はなんなんでしょうか?数年前にスピリチュアルの江原さんがハワイ島に来て溶岩が流れたあとに出来たトンネルで何かを感じたことがあったそうですが、そのテレビ番組が放映されるやいなや、一気にそのトンネルを訪れる日本人観光客が増えたそうです。それで、現地の旅行社の人達はバカにしてかどうかは定かではないですが、そのトンネルを江原トンネルと名づけたと言って笑っていました。
そして、旅行をしていて、改めて気づいたことなのですが、外国を旅行する日本人旅行者は日本人に見えないと言われると嬉しいらしいです。かく言う僕もやっぱりそうなんですが。カンクンで知り合った日本人旅行者達も、他の街で見かける日本人旅行者も、日本人に見られないような努力をしているように感じました。彼ら曰く、日本人に見られると何かと危険だから、という大義の元そういった努力をしていると言うのですが、僕個人的な感覚としては、日本人に見られないこと、というのはファッション的にカッコいい感覚に似ていると思います。
また、外国では日本人に会いたくないと考えている日本人も多いように思います。かく言う僕もやっぱりそうなんですが…。 フィレンツェで日本人ばかりだと、やっぱり気が滅入ります。モロッコまで行ったのに、土産物屋がこぞって日本語で接客してくると気が滅入ります。でもドミトリーでは日本人がいないかってついつい探してしまいます。日本人が居てくれると安心するというのもまたその通りなんですが…
ガイドのマサさんの両親は日本人なのですが、子供の頃にアメリカに渡って、今は完全にアメリカ国籍だそうです。彼のような人のことを冗談でバナナと言うそうです。バナナ!
話がだいぶ横道にそれましたが、僕らはH社のツアーでハワイ島観光に行き、ホノルルでは味わえないハワイの違う一面を見ることができました。どこがどうだという説明をするような場所はあまりないので、ウェブアルバムで写真を見てもらえればと思います。
◆ウェブアルバム Hawai2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Hawai2010
現地のハワイアン達は、みんな口をそろえて、ホノルルから出るんなら、マウイ島がいい、マウイ島がいいと言っていました。街とビーチリゾートの割合が絶妙でいいんだそうです。次はマウイ島に行ってみたいです。
2010年4月15日木曜日
Day75 ハワイアンゴルフ
父と兄と新婦の父親と4人でゴルフをしてきました。
コオリナというエリアにあるゴルフ場で、コース自体はなかなか良い所でした。
でも、僕は今日一日、ずぅーっと嫌な気分を我慢しながらプレーしました。
なんでかって言うと、今日はめちゃめちゃ調子が悪く、ものすごい数を叩いてしまったからです。
ゴルフはなかなか気持ちの良いスポーツなのですが、それは調子が良いときのみで、スコアが悪いと一気に気分が悪くなります。
たまにプロゴルファーでクラブを叩きつけたりする人がいますが、今日の僕も何度とクラブを地面に叩きつけたくなる衝動を抑えながらプレーをしました。しかも新婦の父親もいたので、あまり悪い顔もできず、ずっと心の中で我慢していました。
ドライバーは安定せず、右に大きくスライスカーブしたり、左に大きくフックカーブをしたり、得意だと思っていたアイアンも今日はなぜかフックしたり、ダフったり、もうとにかく調子が悪かったです。ゴルフってこんなにもつまらないスポーツなのかって思いました。本当にあれは糞みたいなスポーツです。
でも、中学の時に所属していたソフトテニス部の顧問の先生が「一番調子が悪いときのプレーがお前の本当の実力だ。」って言っていたので、今日のスコアが僕の本当の実力なんだと思います。そう思うともう二度とゴルフなんてするもんかって思います。
高いお金を払ってこんな嫌な気分になるなんて、本当にゴルフってくだらないスポーツだなって思いました。
もうこんなに嫌な気分になるなんて、これならの前のビーチでピニャ・コラーダでも飲みながら読書していれば良かったです。
畜生!ゴルフなんて糞喰らえだ!
2010年4月14日水曜日
Day74 今日は兄の結婚式
今日は兄の結婚式でした。
ハワイで結婚式を挙げるなんて、さすがはドラ息子です。
といっても300人くらいの招待客が来たわけではなく、新郎新婦とその両親と僕と、僕の家の祖母の合計8人だけの、かなりこじんまりした挙式でした。
朝の9時にホテルを出発し(ホテルについてはいずれ書きますが、モアナ・サーフライダーという高級ホテルに泊まっています)10時ごろにコオリナというところにある結婚式場に到着し、だいたい11時から20分くらいの式を挙げて、その後、写真を撮りながら昼食会場まで移動し、両家で結婚祝いの食事会をして、だいたい3時頃にはホテルに戻ってきました。
個人的には結婚式といえば定番のゴンドラに乗って天井から光臨するように登場してもらいたかったですが、全体的にシンプルで上品で良い結婚式でした。花嫁さんもとても綺麗な方で、感じも良く、ご両親もなかなか立派な方々でした。
僕はサンフランシスコからホノルルに向かう飛行機の中で、持ってきた村上春樹の短編小説、パン屋再襲撃の中に収められている「ファミリーアフェア」という小説を読んでいたので、結婚式の後の食事会でなんていう冗談を言ってやろうかずっと考えていたのですが、皆さんとても立派で上品な方々だったので、とてもそんな冗談を言える雰囲気ではなく、空気を読んで静かに良い子にしていました。
でも、何かを考えていたというのは本当で、乾杯の挨拶が廻ってくる可能性があったので、どこに出しても恥ずかしくないような乾杯のスピーチを飛行機の中で考えていました。結局、乾杯の挨拶は僕の父親がやったので、この挨拶は使わず終いだったのですが。
ところで身内の結婚というものは、なかなか不思議な思いをするものです。
僕と兄は昔から着かず離れずの関係だったので、兄が結婚しようがしまいが、そんなものはカレーライスに福神漬けが乗っているか乗っていないか程度の違いしかないと思っていたのですが、いざ結婚してみるとこれは意外と嬉しいもんです。まぁそれだけお嫁さんが良い人だったということだと思うのですが。ソフトボール部の主将みたいな人じゃなくてよかったです。
身内が結婚すると、家族親族に新しいメンバーが一人加わったような感じがします。まぁ実際に一人加わったわけなんですが…。ドラクエで倒したモンスターが起き上がって、仲間にしてくれという時に感じる嬉しさと程度は違いますが、種類は似ているとか似ていないとか。
とにかく結婚式は終始、幸せ一杯の空気に包まれていて、僕の母親はもう完全に泣いていたし、新婦の父親も目が潤んでいました。僕は小さい頃にわずらった病気の治療で涙腺を焼いてしまっているので、泣こうにも涙が出ず、こみ上げる感動をぐっと噛み締めておきました。
さて、これからは僕が両親に結婚のプレッシャーをかけられる番になります。
「僕は性格が偏狭なうえに靴下をあまり洗濯しなかったものだから、一緒に暮らしてもいいと思ってくれるような素敵な女の子と巡りあうことができなかったんだ。」と言ってかわそうと思います。
兎にも角にも、我が兄よ。おめでとう。
2010年4月11日日曜日
Day73 最後の目的地
73日目です。
あと、一週間になってしまいました。
あっという間です。
今日はこれから空港に行って、ホノルルへ飛びます。
現地時間の夕方にホノルルに着きます。
明日は兄の結婚式です。
もう行かなくちゃ。それじゃあ、また。
あと、一週間になってしまいました。
あっという間です。
今日はこれから空港に行って、ホノルルへ飛びます。
現地時間の夕方にホノルルに着きます。
明日は兄の結婚式です。
もう行かなくちゃ。それじゃあ、また。
2010年4月10日土曜日
Day72 -The Rock- "岩"と呼ばれる孤島
今日は午後からフェリーに乗ってアルカトラズ島へ行きました。
ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが出演している有名な映画「The Rock」の影響もあって、この島はサンフランシスコ観光には欠かせない目玉になっています。
フェリーのチケットも2日後のチケットしか買えないほどの混雑様で、僕は一昨日のウォーキングツアーの後に今日の14:50発のチケットを買いました。
アルカトラズ島はサンフランシスコからわずか2.4Kmの距離に位置する孤島です。アルカトラズ島は1847年までまったくの未開の島で、この島を訪れていたのは、オーローン族やミウォック族などの先住民だけでした。
その後、ゴールドラッシュによってサンフランシスコの人口が一気に増え、都市化が進むと、アルカトラズに砦が建設され、街の防衛拠点として重要な役割を担うようになります。1861年に南北戦争が起こると、アルカトラズには当時の最新の武器や砲台が調えられ、常時400人以上の兵士が常駐していました。戦争が終わると、アルカトラズの砦としての役割はなくなり、今度は刑務所として利用されるようになります。
1907年に要塞としての役割を解かれる以前からもアルカトラズには犯罪兵や国事犯の罪に問われた市民、南軍の兵士などが連行され、収容されていました。アルカトラズに収容されていた悪名高く有名な囚人には”スカーフェイス”アル・カポネや”バードマン”ロバート・ストラウドなどがいました。他の刑務所では受け入れられないような、脱走の危険がある囚人や他の囚人といざこざを起こす可能性の高い囚人など、アルカトラズにはより凶悪な犯罪者が集まるようになっていきました。
アルカトラズで企てられた脱走数は14件なのですが、この中で最も有名なのはフランク・モリスとジョン・アングリン、クラーレンス・アングリン兄弟の一件です。偽者の顔を作り、ベッドの中に変わり身を忍ばせ、13本のスプーンを使って、独房の壁に穴を開け、通気ダクトを抜けて海へと逃れました。3人の遺体は海から上がっておらず、行方はわからず終いになっているそうです。「アルカトラズからの脱獄」という映画にもなっていて、帰ったら見てみようと思います。
他にも脱獄をしようとして失敗し、看守8人を人質にとって2日間の篭城をし、最終的に軍によって殲滅させられた事件などもありました。
映画や小説からアルカトラズは厳しい刑務所としてのイメージが定着していますが、実際には刑務所内は清掃が行き届いていて、さらに食事も良かったと言われています。
そんなアルカトラズ刑務所も維持費と運営費の膨張のため、1963年に当時の司法長官ローバート・F・ケネディによって閉鎖され、その後はインディアン達に選挙されたり、宇宙開発をテーマにした遊園地にされそうになりながらも、1972年に国立公園として指定され、現在の観光地となりました。
というようなことが、より詳しく、物語風にまとめられているオーディオガイド(日本語もある)を無料で貸してくれ、オーディオガイドの案内に従って、刑務所内や島内を見学することが出来ます。ちょっとした冒険気分を味わうことが出来て、かなり楽しかったです。
オーディオガイドの中で「この狭い牢屋に入っていると、だんだん牢屋が自分の家になり、さらにしばらくすると自分そのものになんだ。」という一節があったのですが、これはなかなか意味深なセリフです。
学生のときに勉強していた言語学者の有名な言葉に「言葉の牢獄から抜け出すことは出来ない」というようなものがありました。全ての人間の活動は言葉と言葉の間に生まれる相対的な意味世界の中でのみ成立していて、言葉で表現できる以上のことを表現したり、考えたり、行ったりすることは出来ないといったような意味(だったと思う)なのですが、当時なるほどなと思ったことをアルカトラズの牢獄を見て、思い出しました。
日本という文化体系、言語体系の中で生活していると、いつの間にか日本的感覚が自分のホーム感覚になり、終いには日本的感覚が自分そのものになって、なんでもかんでも、その中で判断するようになります。それは見方によっては狭い価値観といったネガティブな見方にもなってしまうのですが、日本的感覚だけでも充分な量と質があると思いますし、他の言語体系がどうしても必要なわけでもないので、良いとか悪いという問題ではないです。日本で暮らすには日本語を話し、日本の文化体系の中に身を置かないといけないのですから。
ただ、たまにこうして旅行をしたり、外国の考え方や価値の体系、言語体系に触れることで、より自由に近づけるような気がするんです。
旅行とは普段、無意識のうちに閉じ込められている言葉の牢獄からの一時的な脱獄なのかも知れません。
↑ってちょっと格好良くないですか?笑
ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが出演している有名な映画「The Rock」の影響もあって、この島はサンフランシスコ観光には欠かせない目玉になっています。
フェリーのチケットも2日後のチケットしか買えないほどの混雑様で、僕は一昨日のウォーキングツアーの後に今日の14:50発のチケットを買いました。
アルカトラズ島はサンフランシスコからわずか2.4Kmの距離に位置する孤島です。アルカトラズ島は1847年までまったくの未開の島で、この島を訪れていたのは、オーローン族やミウォック族などの先住民だけでした。
その後、ゴールドラッシュによってサンフランシスコの人口が一気に増え、都市化が進むと、アルカトラズに砦が建設され、街の防衛拠点として重要な役割を担うようになります。1861年に南北戦争が起こると、アルカトラズには当時の最新の武器や砲台が調えられ、常時400人以上の兵士が常駐していました。戦争が終わると、アルカトラズの砦としての役割はなくなり、今度は刑務所として利用されるようになります。
1907年に要塞としての役割を解かれる以前からもアルカトラズには犯罪兵や国事犯の罪に問われた市民、南軍の兵士などが連行され、収容されていました。アルカトラズに収容されていた悪名高く有名な囚人には”スカーフェイス”アル・カポネや”バードマン”ロバート・ストラウドなどがいました。他の刑務所では受け入れられないような、脱走の危険がある囚人や他の囚人といざこざを起こす可能性の高い囚人など、アルカトラズにはより凶悪な犯罪者が集まるようになっていきました。
アルカトラズで企てられた脱走数は14件なのですが、この中で最も有名なのはフランク・モリスとジョン・アングリン、クラーレンス・アングリン兄弟の一件です。偽者の顔を作り、ベッドの中に変わり身を忍ばせ、13本のスプーンを使って、独房の壁に穴を開け、通気ダクトを抜けて海へと逃れました。3人の遺体は海から上がっておらず、行方はわからず終いになっているそうです。「アルカトラズからの脱獄」という映画にもなっていて、帰ったら見てみようと思います。
他にも脱獄をしようとして失敗し、看守8人を人質にとって2日間の篭城をし、最終的に軍によって殲滅させられた事件などもありました。
映画や小説からアルカトラズは厳しい刑務所としてのイメージが定着していますが、実際には刑務所内は清掃が行き届いていて、さらに食事も良かったと言われています。
そんなアルカトラズ刑務所も維持費と運営費の膨張のため、1963年に当時の司法長官ローバート・F・ケネディによって閉鎖され、その後はインディアン達に選挙されたり、宇宙開発をテーマにした遊園地にされそうになりながらも、1972年に国立公園として指定され、現在の観光地となりました。
というようなことが、より詳しく、物語風にまとめられているオーディオガイド(日本語もある)を無料で貸してくれ、オーディオガイドの案内に従って、刑務所内や島内を見学することが出来ます。ちょっとした冒険気分を味わうことが出来て、かなり楽しかったです。
オーディオガイドの中で「この狭い牢屋に入っていると、だんだん牢屋が自分の家になり、さらにしばらくすると自分そのものになんだ。」という一節があったのですが、これはなかなか意味深なセリフです。
学生のときに勉強していた言語学者の有名な言葉に「言葉の牢獄から抜け出すことは出来ない」というようなものがありました。全ての人間の活動は言葉と言葉の間に生まれる相対的な意味世界の中でのみ成立していて、言葉で表現できる以上のことを表現したり、考えたり、行ったりすることは出来ないといったような意味(だったと思う)なのですが、当時なるほどなと思ったことをアルカトラズの牢獄を見て、思い出しました。
日本という文化体系、言語体系の中で生活していると、いつの間にか日本的感覚が自分のホーム感覚になり、終いには日本的感覚が自分そのものになって、なんでもかんでも、その中で判断するようになります。それは見方によっては狭い価値観といったネガティブな見方にもなってしまうのですが、日本的感覚だけでも充分な量と質があると思いますし、他の言語体系がどうしても必要なわけでもないので、良いとか悪いという問題ではないです。日本で暮らすには日本語を話し、日本の文化体系の中に身を置かないといけないのですから。
ただ、たまにこうして旅行をしたり、外国の考え方や価値の体系、言語体系に触れることで、より自由に近づけるような気がするんです。
旅行とは普段、無意識のうちに閉じ込められている言葉の牢獄からの一時的な脱獄なのかも知れません。
↑ってちょっと格好良くないですか?笑
Day71 Something specialを求めて
今日はサンフランシスコの街に隠されていると言われる「something special」を探しに、ロベルトと一緒に街に出掛けました。でも、結論から言ってしまうと、残念ながら「something special」とまで呼べるものは見つけられませんでした。
それでもなお、サンフランシスコは僕の想像を上回る魅力を見せてくれました。
San Francisco Museam of Modarn Art(通称SFMOMA)に行ったのですが、やはりアメリカの最新のアート事情は凄まじいものでした。以前、キューバの美術館に行った時のことをブログに書き、「キューバのアーティス達は世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。」と言うようなことを書いたのですが、SFMOMAを見てしまった今となっては、キューバさんごめんなさいと言わざるを得ないようです。とても比較できないほどでした。もうなんていうかブットンデマス。
とはいえ、僕はモダンアートはあまり好きじゃないので(というより苦手。作品も見ても解釈できないので)2時間も見れば頭が痛くなってきて、最後のほうは足早にチラチラ見ながらフロアをどんどん通り過ぎてしまったのですが、そんな僕でもなんとなくSFMOMAはすごいなって感じさせられました。
まぁどうすごいのかは残念なことに具体的に説明できないので、どうすごいのか気になる人は観に行けば良いと思います。
ただ、一つ感じたのは、着想の鋭さ、大胆さです。何かアイディアを得たいときにSFMOMAなどの最先端を進むモダンアートミュージアムに行くのは良い手だと思います。いろいろなひらめきが転がっています。
モダンアートミュージアムで僕が一番好きなところはミュージアムショップです。
第一に買い物が好きだということもあるのですが、モダンアートミュージアムのミュージアムショップには見たこともないようなデザインのアイテムが並べられています。これも一つ一つ取り上げて、あれがどう良かったとか、このデザインはどうだったと書くことも出来なくはないのですが、きっと書いてもつまらないし、それに何より今日はちょっと疲れてしまったので、ハショります。自分用にSFMOMA75周年記念のアーティストコラボTシャツを買ってしまいました。
明日はアルカトラズに潜入します。「something special」が見つかると言いのですが…
それでもなお、サンフランシスコは僕の想像を上回る魅力を見せてくれました。
San Francisco Museam of Modarn Art(通称SFMOMA)に行ったのですが、やはりアメリカの最新のアート事情は凄まじいものでした。以前、キューバの美術館に行った時のことをブログに書き、「キューバのアーティス達は世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。」と言うようなことを書いたのですが、SFMOMAを見てしまった今となっては、キューバさんごめんなさいと言わざるを得ないようです。とても比較できないほどでした。もうなんていうかブットンデマス。
とはいえ、僕はモダンアートはあまり好きじゃないので(というより苦手。作品も見ても解釈できないので)2時間も見れば頭が痛くなってきて、最後のほうは足早にチラチラ見ながらフロアをどんどん通り過ぎてしまったのですが、そんな僕でもなんとなくSFMOMAはすごいなって感じさせられました。
まぁどうすごいのかは残念なことに具体的に説明できないので、どうすごいのか気になる人は観に行けば良いと思います。
ただ、一つ感じたのは、着想の鋭さ、大胆さです。何かアイディアを得たいときにSFMOMAなどの最先端を進むモダンアートミュージアムに行くのは良い手だと思います。いろいろなひらめきが転がっています。
モダンアートミュージアムで僕が一番好きなところはミュージアムショップです。
第一に買い物が好きだということもあるのですが、モダンアートミュージアムのミュージアムショップには見たこともないようなデザインのアイテムが並べられています。これも一つ一つ取り上げて、あれがどう良かったとか、このデザインはどうだったと書くことも出来なくはないのですが、きっと書いてもつまらないし、それに何より今日はちょっと疲れてしまったので、ハショります。自分用にSFMOMA75周年記念のアーティストコラボTシャツを買ってしまいました。
明日はアルカトラズに潜入します。「something special」が見つかると言いのですが…
2010年4月9日金曜日
Day70 ゴールドラッシュ
ホステルで同室になったイタリア人と一緒に朝食を食べながら、今日はお互いにどんな予定で過ごすかという話をしました。ドミトリーに泊まっている単身旅行者達はとりあえず「一緒に朝食を食べに行こう。」と言って、その後、「今日はどんな予定か」ということを尋ねるのがパターンになっているようです。泊まっているホステル主催の無料のウォーキングツアーが11時からあるということで、とりあえずそのツアーに申し込んで、11時まではネットなどをしながらだらだら過ごしました。
11時にレセプションに行くと、僕らの他にすでに2人の参加者が待っていました。
ウェールズ出身のヒューという男とヘレンというイングランドの出身の女性、それに僕と同室のロベルトというイタリア人の男で、参加者は全員で4名でした。
ガイドをしてくれたのはアイルランド出身のケイトという女性でした。ケイトもどうやら同じホステルの宿泊者のようですが、彼女は世界中を旅行していて、サンフランシスコにやってきた時に「something special」を感じたそうで、もう2年もこの街に留まっているそうです。毎週水曜日にガイドツアーをして、ホステルの宿泊費をいくらかまけてもらったり、ツアー客からの寄付を貰っているそうです。他にもなにか良くわからないけど仕事をしているそうです。無料ツアーとは言ってもチップの国アメリカなので、最後にはみんな10ドルずつケイトに渡していました。でも彼女のツアーは10ドル以上の価値があったと思います。
まずサンフランシスコの町が見渡せる高台にある有名なホテル(名前は忘れた)の最上階に連れて行ってくれ、街を見渡しながら、サンフランシスコの歴史について説明してくれました。彼女の説明によるとサンフランシスコにおける歴史的に重要な事件は2つだそうです。一つ目は1849年から始まったゴールドラッシュでもう一つは1906年に起きたサンフランシスコ大地震だそうです。ゴールドラッシュによって一気に人口が増え、全米から金を求めて多くの有力者が集まり、この地に富が築かれていったそうです。その後、大陸横断鉄道が整備され、さらに大都市へと発展し、中国人や日本人などのアジア人を含む移民も一気に増えたのですが、1906年に大地震とその後3日続く大火災が起こり、それまでに築かれた街はほとんど倒壊したそうです。ケイトが言うには、その後、フリーメイソンの活躍により、サンフランシスコは急速な復興を果たしたそうです。フリーメイソン!マジすか?って思いましたが、いずれにしてもサンフランシスコは復興のシンボルにフェニックスを掲げ、まさに不死鳥のように蘇り、アメリカ有数の大都市に発展ました。
大西洋に向け開かれた港町であるニューヨークと、太平洋に向けて開かれた港町であるサンフランシスコ。この二つの大洋に向け開かれた地理的利点がアメリカの20世紀後半から現在にかけての絶対的強さの理由だそうです。
その後、サンフランシスコ名物のケーブルカーミュージアムや60年代のヒッピー文化の発祥のエリアを訪れ、有名なカフェ(名前は忘れた)で昼食をとり、コイトタワーがある高台まで歩いて、そこから東側の海岸まで降りて、約3時間のウォーキングツアーは終わりです。ケイトはホステルに帰ってしまったのですが、僕達4人はそのまま観光を続けることになりました。
フィッシャーマンズウォーフで自転車を借りて、ゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。
ところで、日本でも日本海側のいくつかの弱小県において、フィッシャーマンズウォーフなる施設が整備されたり、また時々、観光客誘致政策や地域振興策としてフィッシャーマンズウォーフを造るといった話がいろいろな地域で持ち上がることがありますが、個人的には日本におけるフィッシャーマンズウォーフ建設計画は「これだけは絶対にやってはいけない愚策」の中でもかなり高順位に位置すると考えています。「なんでもかんでも横文字にすればいいってもんじゃなんだぜ。」って言ってやりたいです。例えば若狭フィッシャーマンズワーフという施設がありますが、これは完全にギャグとしか思えません。どうみても古き良き日本の漁村なので、そのままの良さを尊重すればいいものを、おそらくこの地方の有力者にサンフランシスコ贔屓の人間がいたのでしょうか、ただの鮮魚センターをフィッシャーマンズワーフと名づけ、更にOBAMAまんじゅうなるお菓子を名物にしようとしています。この地域ぐるみのギャグには脱帽せざるを得ません。
でもそんな田舎者が憧れを抱いてしまうようなすばらしい魅力がサンフランシスコにはあるのです。
サンフランシスコのフィッシャーマンズウォーフの近くには表参道並みの高級ブランドショップがあり、横浜の赤煉瓦倉庫から山下公園に続くような素敵な公園があって、さらに田園調布にでもありそうな高級住宅街があって、リッチな人々が洋服を着たチワワを連れて優雅に歩き、お台場にあるビーチの5倍はある広々としたビーチもあって、ウィンドサーフィンを楽む人がいたり、カヌーを漕ぐ人もいます。。漁船が係留されている桟橋の次の桟橋はヨットハーバーになっていて、湾内のアルカトラズ島の近くには優雅にもヨットが漂っています。そして遠くにはサンフランシスコで最も有名な建造物である赤い橋、ゴールデンゲートブリッジが掛かっています。
そして何より、サンフランシスコの街の雰囲気がいいです。なんていうか、のびのびとしていて、それでいて優雅でお洒落です。今日は水曜日だったのですが、毎日、日曜日が続いているみたいな雰囲気です。
フィッシャーマンズウォーフを出発して、ゴールデンゲートブリッジを往復し、橋の近くで早めの夕食を食べ、19:30頃に沈む夕日を見ました。ゴールデンゲートブリッジ越しに太平洋に沈む夕日はとても綺麗でした。とても綺麗としか言えません。
サハラ砂漠に沈む夕日も素晴らしいものでしたが、ゴールデンブリッジ越しに眺める夕日も素晴らしいものでした。
サンフランシスコ、今まで完全にノーマークでしたが、かなり良い所みたいです。
11時にレセプションに行くと、僕らの他にすでに2人の参加者が待っていました。
ウェールズ出身のヒューという男とヘレンというイングランドの出身の女性、それに僕と同室のロベルトというイタリア人の男で、参加者は全員で4名でした。
ガイドをしてくれたのはアイルランド出身のケイトという女性でした。ケイトもどうやら同じホステルの宿泊者のようですが、彼女は世界中を旅行していて、サンフランシスコにやってきた時に「something special」を感じたそうで、もう2年もこの街に留まっているそうです。毎週水曜日にガイドツアーをして、ホステルの宿泊費をいくらかまけてもらったり、ツアー客からの寄付を貰っているそうです。他にもなにか良くわからないけど仕事をしているそうです。無料ツアーとは言ってもチップの国アメリカなので、最後にはみんな10ドルずつケイトに渡していました。でも彼女のツアーは10ドル以上の価値があったと思います。
まずサンフランシスコの町が見渡せる高台にある有名なホテル(名前は忘れた)の最上階に連れて行ってくれ、街を見渡しながら、サンフランシスコの歴史について説明してくれました。彼女の説明によるとサンフランシスコにおける歴史的に重要な事件は2つだそうです。一つ目は1849年から始まったゴールドラッシュでもう一つは1906年に起きたサンフランシスコ大地震だそうです。ゴールドラッシュによって一気に人口が増え、全米から金を求めて多くの有力者が集まり、この地に富が築かれていったそうです。その後、大陸横断鉄道が整備され、さらに大都市へと発展し、中国人や日本人などのアジア人を含む移民も一気に増えたのですが、1906年に大地震とその後3日続く大火災が起こり、それまでに築かれた街はほとんど倒壊したそうです。ケイトが言うには、その後、フリーメイソンの活躍により、サンフランシスコは急速な復興を果たしたそうです。フリーメイソン!マジすか?って思いましたが、いずれにしてもサンフランシスコは復興のシンボルにフェニックスを掲げ、まさに不死鳥のように蘇り、アメリカ有数の大都市に発展ました。
大西洋に向け開かれた港町であるニューヨークと、太平洋に向けて開かれた港町であるサンフランシスコ。この二つの大洋に向け開かれた地理的利点がアメリカの20世紀後半から現在にかけての絶対的強さの理由だそうです。
その後、サンフランシスコ名物のケーブルカーミュージアムや60年代のヒッピー文化の発祥のエリアを訪れ、有名なカフェ(名前は忘れた)で昼食をとり、コイトタワーがある高台まで歩いて、そこから東側の海岸まで降りて、約3時間のウォーキングツアーは終わりです。ケイトはホステルに帰ってしまったのですが、僕達4人はそのまま観光を続けることになりました。
フィッシャーマンズウォーフで自転車を借りて、ゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。
ところで、日本でも日本海側のいくつかの弱小県において、フィッシャーマンズウォーフなる施設が整備されたり、また時々、観光客誘致政策や地域振興策としてフィッシャーマンズウォーフを造るといった話がいろいろな地域で持ち上がることがありますが、個人的には日本におけるフィッシャーマンズウォーフ建設計画は「これだけは絶対にやってはいけない愚策」の中でもかなり高順位に位置すると考えています。「なんでもかんでも横文字にすればいいってもんじゃなんだぜ。」って言ってやりたいです。例えば若狭フィッシャーマンズワーフという施設がありますが、これは完全にギャグとしか思えません。どうみても古き良き日本の漁村なので、そのままの良さを尊重すればいいものを、おそらくこの地方の有力者にサンフランシスコ贔屓の人間がいたのでしょうか、ただの鮮魚センターをフィッシャーマンズワーフと名づけ、更にOBAMAまんじゅうなるお菓子を名物にしようとしています。この地域ぐるみのギャグには脱帽せざるを得ません。
でもそんな田舎者が憧れを抱いてしまうようなすばらしい魅力がサンフランシスコにはあるのです。
サンフランシスコのフィッシャーマンズウォーフの近くには表参道並みの高級ブランドショップがあり、横浜の赤煉瓦倉庫から山下公園に続くような素敵な公園があって、さらに田園調布にでもありそうな高級住宅街があって、リッチな人々が洋服を着たチワワを連れて優雅に歩き、お台場にあるビーチの5倍はある広々としたビーチもあって、ウィンドサーフィンを楽む人がいたり、カヌーを漕ぐ人もいます。。漁船が係留されている桟橋の次の桟橋はヨットハーバーになっていて、湾内のアルカトラズ島の近くには優雅にもヨットが漂っています。そして遠くにはサンフランシスコで最も有名な建造物である赤い橋、ゴールデンゲートブリッジが掛かっています。
そして何より、サンフランシスコの街の雰囲気がいいです。なんていうか、のびのびとしていて、それでいて優雅でお洒落です。今日は水曜日だったのですが、毎日、日曜日が続いているみたいな雰囲気です。
フィッシャーマンズウォーフを出発して、ゴールデンゲートブリッジを往復し、橋の近くで早めの夕食を食べ、19:30頃に沈む夕日を見ました。ゴールデンゲートブリッジ越しに太平洋に沈む夕日はとても綺麗でした。とても綺麗としか言えません。
サハラ砂漠に沈む夕日も素晴らしいものでしたが、ゴールデンブリッジ越しに眺める夕日も素晴らしいものでした。
サンフランシスコ、今まで完全にノーマークでしたが、かなり良い所みたいです。
Day69 F**king delay!!!
ラスベガス空港を11:17に出発するはずが、(理由不明の)遅延の為、2:26に出発ししました。
9時には空港に着いていたので、5時間も待たなければなりませんでした。
空港でホットドックを買って昼食を食べ、その後スタバでコーヒーを買って、インターネットをしたり、手紙を書いたりして時間を過ごしました。
空港内にも(危険極まりない)スロットマシーンが設置されていて、さらに僕の大好きなSTARWARSのスロットマシーン(大好きなのは映画『STARWARS』で、『STARWARSのスロットマシン』ではない)があって、危うく100ドル没収されるところでしたが、ここはなんとかやりすごしました。
ラスベガス空港の素晴らしいところは、WiFiが無料で使えるというところです。
ネットサーファー暦15年の僕は打ち寄せる情報の波をネットブックと言うサーフボードで操りながら、もくもくと時間を潰していきました。WiFiが無料で使えるのって、水道の水がそのまま飲めるのと同じくらい素晴らしいことですね。
メールをチェックすると、坂元君からメールが届いていました。どうやらキューバからカンクンへ戻ってきたみたいです。
ハバナ以外の町に出掛けたそうですが、鼻血が出るくらい楽しかったみたいです。ハバナ以外の町ではみんな陽気でフレンドリーで、僕らが夢に描いていたキューバ人がそのまま暮らしているというようなことを言ってました。羨ましい限りですが、もう当面の間、キューバに行くことはないと思います。他にも行きたいところがあるので、「今行きたい国リスト」を作ってもキューバはたぶん20番目くらいだと思います。毎年どこかに出掛けたとしても20年後になります。
ところで、以前、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港とパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港、ローマ・レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港の名前の響きが格好良いとこのブログに書きましたが、今日、ネットサーフィン中にもう一つ格好良い名前の空港を発見しました。それはイギリス、マンチェスターにある国際空港です。
その名を「マンチェスター・ジョン・レノン国際空港」と言います。
これは格好いいと認めざるを得ないでしょう。伝説のロックバンド、ビートルズのボーカル・ギター、ジョン・レノンを冠につけるとは流石はマンチェスターです。
他にも格好良い名前の空港があったらコメント欄にて教えてください。
格好良い空港を投稿してくれた方にはもれなく素敵なお土産をお渡しします。
※まぁこのブログを定期的に読んでくれている物好きの暇人の方々(僕の予想では5人~7人)にはちゃんとお土産を用意しているのですが…
茨城空港もどうせなら「茨城・水戸光圀ちりめん空港」とでもすればよかったのにって思います。
茨城空港も先輩、富士山静岡空港と同じ道を辿るんだと思います。
ところで、茨城空港については僕がときどき参考にしている大前研一氏がずばり的を射た記事を書いています。
〔大前研一「ニュースの視点」〕
KON303 茨城空港も“必要のない空港”になるのか!?~需要予測を厳しくチェックし不幸な空港は作るべからず
サンフランシスコに着いたのですが、今日はなにもしていないのに、なぜか疲れてしまった為、ホステルで5ドルの夕食を食べ、早々に寝ることにします。
◆今日の一冊
「知の衰退」からいかに脱出するか? (単行本)
大前研一 (著)
9時には空港に着いていたので、5時間も待たなければなりませんでした。
空港でホットドックを買って昼食を食べ、その後スタバでコーヒーを買って、インターネットをしたり、手紙を書いたりして時間を過ごしました。
空港内にも(危険極まりない)スロットマシーンが設置されていて、さらに僕の大好きなSTARWARSのスロットマシーン(大好きなのは映画『STARWARS』で、『STARWARSのスロットマシン』ではない)があって、危うく100ドル没収されるところでしたが、ここはなんとかやりすごしました。
ラスベガス空港の素晴らしいところは、WiFiが無料で使えるというところです。
ネットサーファー暦15年の僕は打ち寄せる情報の波をネットブックと言うサーフボードで操りながら、もくもくと時間を潰していきました。WiFiが無料で使えるのって、水道の水がそのまま飲めるのと同じくらい素晴らしいことですね。
メールをチェックすると、坂元君からメールが届いていました。どうやらキューバからカンクンへ戻ってきたみたいです。
ハバナ以外の町に出掛けたそうですが、鼻血が出るくらい楽しかったみたいです。ハバナ以外の町ではみんな陽気でフレンドリーで、僕らが夢に描いていたキューバ人がそのまま暮らしているというようなことを言ってました。羨ましい限りですが、もう当面の間、キューバに行くことはないと思います。他にも行きたいところがあるので、「今行きたい国リスト」を作ってもキューバはたぶん20番目くらいだと思います。毎年どこかに出掛けたとしても20年後になります。
ところで、以前、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港とパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港、ローマ・レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港の名前の響きが格好良いとこのブログに書きましたが、今日、ネットサーフィン中にもう一つ格好良い名前の空港を発見しました。それはイギリス、マンチェスターにある国際空港です。
その名を「マンチェスター・ジョン・レノン国際空港」と言います。
これは格好いいと認めざるを得ないでしょう。伝説のロックバンド、ビートルズのボーカル・ギター、ジョン・レノンを冠につけるとは流石はマンチェスターです。
他にも格好良い名前の空港があったらコメント欄にて教えてください。
格好良い空港を投稿してくれた方にはもれなく素敵なお土産をお渡しします。
※まぁこのブログを定期的に読んでくれている物好きの暇人の方々(僕の予想では5人~7人)にはちゃんとお土産を用意しているのですが…
茨城空港もどうせなら「茨城・水戸光圀ちりめん空港」とでもすればよかったのにって思います。
茨城空港も先輩、富士山静岡空港と同じ道を辿るんだと思います。
ところで、茨城空港については僕がときどき参考にしている大前研一氏がずばり的を射た記事を書いています。
〔大前研一「ニュースの視点」〕
KON303 茨城空港も“必要のない空港”になるのか!?~需要予測を厳しくチェックし不幸な空港は作るべからず
サンフランシスコに着いたのですが、今日はなにもしていないのに、なぜか疲れてしまった為、ホステルで5ドルの夕食を食べ、早々に寝ることにします。
◆今日の一冊
「知の衰退」からいかに脱出するか? (単行本)
大前研一 (著)
2010年4月8日木曜日
Day68 ラスベガスナイト
ラスベガスは危険な街です。
街のいたるところにスロットマシーンが設置されています。空港にもマクドナルドにもスロットマシーンが置かれています。
日本に自動販売機がやたら多いのと同じように、ラスベガスにはスロットマシーンがやたら多く設置されています。
僕は普段まったくもってギャンブラーではないのですが、そんな僕でもついついスロットマシーンに20ドル札を入れてしまいます。
20ドル札は2000クレジットに変わるのですが、この2000クレジットは大体15分でなくなります。ゆっくりやれば30分、45分と持たせられるかもしれませんが、ただスタートボタンを押して、ルーレットが廻って、コマが揃ったり、揃わなかったりの繰り返しで、何一つ面白くないので、一回の掛け金をそこそこ大きくして大体15分くらいで終わってしまいます。
スロットマシーンで20ドルなくなったら、次はルーレットです。ルーレットは赤とか黒とか数字の上にチップを置いて、ルーレットの目が当たれば倍率に応じてチップが増えるし、外れればかけたチップは没収されます。ここでも20ドルはだいたい15分くらいでなくなります。
ルーレットで20ドルなくなったら、次はブラックジャックです。ここでも20ドルを何枚かのチップに変えてそれを賭けながらディーラーと勝負します。ディーラーから渡されるトランプの目の数が21に近づくようにして、21以内でディーラーの手よりも高い数を作れればこちらの勝ちです。何回かやっていると勝ったり負けたりするのですが、ここでも30分も経てば全てなくなってしまいます。
まったくカジノなんてこの世からなくなってしまえばいいんだって思いました。
日本では名古屋でパチンコの違法性を指摘(パチンコはギャンブルだ)して国に対して損害賠償の訴訟を起こしている人がいるそうですが、個人的にはこの人が不慮の事故に遭わないことを祈っています。そして、がんばってもらいたいです。日本でパチンコだけ三点換金方式が通用するのは明らかにパチンコ利権を警察と政治家が握っているからだとしか思えません。今は反日政党なので今回の裁判で原告が勝つことはまずないと思いますが…。
こんな危険な街には長くいられないので、飛行機の便を変更して、明日、サンフランシスコへ行くことにしました。
注意:僕が負けまくったから、こんな日記を書いたわけではありません。
Day67 グレートスピリッツ
ブリティッシュコロンビア大学内にある、UBC人類学博物館に行ってきました。
UBC人類学博物館は主に北西アメリカのネイティブアメリカン研究とその人類学的資料の展示をしています。
いままで人類学というものにはさして興味がなかったのですが、メキシコの国立人類学博物館が意外と面白かったため、バンクーバーにも人類学博物館があると知って、行ってみることにしました。
人類学博物館の面白さは、その地域地域の土着の宗教観を垣間見ることができるところです。
今では世界中にキリスト教やイスラム教、仏教などの大宗教が広がっていて、特に今回僕が旅行している国々ではキリスト教徒が大多数を占め、政治も経済も生活もキリスト教的価値観に染まっているところが多いのですが、一口にキリスト教(とは言えその中にもカトリック、プロテスタント、英国教会などいろいろありますが)と言っても、それぞれの国々で微妙に信仰の仕方やその度合いが違っていました。
例えばイタリアやスペインは思いっきりカトリックで、やはりカトリック的価値観に基づいて人々は暮らしているように感じました。純カトリッククリスチャンです。流石はカトリックの総本山とその親戚の一族が長いこと支配していただけはあるなって感じです。
でもフィンランドは違いました。歴史的にキリスト教が入ってきたのが15世紀ごろと遅かったことと、カレワラというフィンランドに昔から伝わる土着の神話(シャーマニズム的なもの)や北欧神話など、以前からの宗教観が根強く残っていて、未だに人々の心のどこかにそういった宗教観が残っているんじゃないかとフィンランドでは感じました。どう感じたかはこのブログのフィンランド編を見てもらえればわかります。
今回の旅行では行きませんでしたが、韓国人のキリスト教も古くからの宗教である儒教の上にのっているため、目上の存在に対する忠誠心や忠義心といった感覚が他の国のキリスト教徒より強く、よりストイックな教徒が多いそうです。
僕達日本人も、一応仏教徒(僕もそうです)ですという人が多いと思いますが、やはりインドや東南アジアなどの仏教発祥の国々の仏教徒とは違って、僕ら日本人の感覚は仏教というよりも、神道である日本神話的な感覚、シャーマニズム的な自然を畏れ敬うといった感覚のほうが強いんじゃないかと思います。(あるいはその両方が混ざり合っている)
キリスト教やイスラム教(についてはあまり知りませんが…)、仏教というのはなんとなく、秩序やルールを便宜的に保つために皆が揃って着ている仕事用のスーツみたいなもので、その土地に元からあった土着の宗教観こそ、そこに住む人々の体そのものじゃないかって思います。
とは言ってもカナダのように移民ばかりで形成されている国は土着の宗教観が残りにくく、移民と一緒に入ってきたそれぞれの宗教観が混ざり合って、新しい価値観を作り出しているようですが…。UBC人類学博物館にまとめられている北西アメリカに住んでいたネイティブアメリカン達の宗教観は今ではかなり薄れてしまっていて、ほぼ絶滅してしまったような感じです。
ちなみに、北西アメリカにもともと住んでいた先住民達の宗教観は日本と似ているシャーマニズムでした。それも中央アメリカの先住民とは違い、石ではなく木を使った生活をしていて、自然を切り開いて都市を造るというような思考回路はなく、森の中で動物の命を尊いながら狩りをして、人間も大いなる自然の循環の中の一員という自覚を持ちながら暮らしていたそうです。
彼らが祭の時に使うレリーフも太陽や月といった絶対的な存在ではなく、ビーバーや狼、熊やコヨーテ、鷲やハチドリなど、彼らが狩りの対象としていた森の動物達でした。
この博物館では無料のガイドツアーを行っていて、僕らのガイドさんが「ネイティブアメリカン達は自然の循環の中に自分達も含まれているという自覚を持って暮らしていました。そのためむやみに動物を殺すことはしませんでした。たとえ動物を狩るときも、苦しませずに殺す手段を心得ていて、さらに殺す前と殺した後には必ず感謝の祈りを奉げていました。楽しみのために動物を狩ることは決してなく、自分と家族が生きていくためだけに動物を殺していました。人間は死後にグレートスピリッツと呼ばれる自然界の大きな流れの中に還るということが多くの部族の間で信じられていて、自然循環というものを何よりも大切にしていたそうです。このUBCでも環境に配慮した建物が10年以上も前から建設されるようになり、カナダは環境問題にいち早く取り組む国となっているのですが、そういったことも先住民達の文化をどこかで受け継いでいる結果なのかもしれません。」とまぁだいたいそんな感じのことを言っていました。
この後はあとラスベガスとサンフランシスコとハワイが残っています。
ハワイにも人類学博物館ってあるんでしょうか。もしあれば覗いてみようと思います。
◆今日の一冊
シャーマンキング 完全版 1(ジャンプコミックス)
武井 宏之 (著)
2010年4月7日水曜日
Day66 英語の訛り
カナダに住んでいる人達はやたら英語の「訛り」について話をしたがるようです。
今日はダウンダウンに遊びに行って、露天商や土産店の人、道端で声を掛けてきたおじさんやショーンの友達などと話す機会があったのですが、決まって「君の英語はイギリス訛りだね。」と言われました。そういえばショーンも空港で会ったときに同じことを言っていたし、ジュリーナにも同じことを言われました。
確かに僕はイギリス訛りで英語を話します。
なぜかって言うと、学生の時に1ヶ月ちょっとロンドンに語学留学(ほとんど旅行だったけど)していたことと、帰ってきてからトレインスポッティングというイギリス映画の音声をMP3プレーヤーに落として、主演のユワン・マクレガーの発音をトレースしてずっと練習していたからです。
それに加えて僕は何かにつけて「形から入る」性格なので、大学生になって改めて英語を勉強しようと思ったとき、まず発音から始めることにしたのでした。発音が良いだけで、実際よりも英語が話せるように思われますし、ちょっと格好つけることもできます。実際にはそんなに英語を話すことはできないのですが、発音のおかげで周りからこの人は英語が比較的上手だ、と思われているように思います。文法を間違えてたって、なんとなく英語っぽくすらすら言ってしまえば、だいたいはわからないのですから。
今日話をした露天商の人(中国系)は「Wow, you speak Queen's English.」って言ってたし、通りすがりのおじさん(たぶん中国系)は「Are u educated in some Western Country?」って言っていました。お土産屋のおばさん(たぶん中国系)は「Have you lived in England before?」って言っていたし、他のお土産物の店員さん(日本人女性)は「日本人訛がなかったから、最初日本人だって確証が持てなかったわ。」って言ってました。当時の僕の企みは見事に功を奏したみたいです。これは意外と嬉しいです。
それにカナダの人が「イギリス訛だね。」と言うとき、そこにはなんとなく「格好良い」とか「いいなぁ」と言う印象が含まれているように感じました。あとからショーンが言っていたのですが、カナダの女の子の間ではイギリス訛が人気があるようです。それにイギリス訛の方が賢そうに映るんだそうです。
たしかに、イギリス人のしゃべり方って(人によっては)スノッブで上から見下しているかのような感じがするので、賢そうに映るというのはその通りなんだなぁって思いました。
バンクーバーの人達が英語の訛を気にするのはきっと移民や外国人が多いからなんだと思います。
ニューヨークで英語の発音について何か言われたことは一度もなかったし、ロンドンでは当然そんなこと言われるはずもありませんでした。旅行をしていて、こんなに発音のことを言われたのはバンクーバーが初めてでした。でも良い気分です。笑
もし英語を勉強している方がいれば、イギリス英語を勉強されることをオススメします。
カナダに来たときにちょっとした優越感に浸れますよ。笑
◆今日の一冊
トレインスポッティング (スクリーンプレイ・シリーズ―名作映画完全セリフ集)
池下 裕次 (編集), ベス ポラード (編集), Beth Pollard (原著)
今日はダウンダウンに遊びに行って、露天商や土産店の人、道端で声を掛けてきたおじさんやショーンの友達などと話す機会があったのですが、決まって「君の英語はイギリス訛りだね。」と言われました。そういえばショーンも空港で会ったときに同じことを言っていたし、ジュリーナにも同じことを言われました。
確かに僕はイギリス訛りで英語を話します。
なぜかって言うと、学生の時に1ヶ月ちょっとロンドンに語学留学(ほとんど旅行だったけど)していたことと、帰ってきてからトレインスポッティングというイギリス映画の音声をMP3プレーヤーに落として、主演のユワン・マクレガーの発音をトレースしてずっと練習していたからです。
それに加えて僕は何かにつけて「形から入る」性格なので、大学生になって改めて英語を勉強しようと思ったとき、まず発音から始めることにしたのでした。発音が良いだけで、実際よりも英語が話せるように思われますし、ちょっと格好つけることもできます。実際にはそんなに英語を話すことはできないのですが、発音のおかげで周りからこの人は英語が比較的上手だ、と思われているように思います。文法を間違えてたって、なんとなく英語っぽくすらすら言ってしまえば、だいたいはわからないのですから。
今日話をした露天商の人(中国系)は「Wow, you speak Queen's English.」って言ってたし、通りすがりのおじさん(たぶん中国系)は「Are u educated in some Western Country?」って言っていました。お土産屋のおばさん(たぶん中国系)は「Have you lived in England before?」って言っていたし、他のお土産物の店員さん(日本人女性)は「日本人訛がなかったから、最初日本人だって確証が持てなかったわ。」って言ってました。当時の僕の企みは見事に功を奏したみたいです。これは意外と嬉しいです。
それにカナダの人が「イギリス訛だね。」と言うとき、そこにはなんとなく「格好良い」とか「いいなぁ」と言う印象が含まれているように感じました。あとからショーンが言っていたのですが、カナダの女の子の間ではイギリス訛が人気があるようです。それにイギリス訛の方が賢そうに映るんだそうです。
たしかに、イギリス人のしゃべり方って(人によっては)スノッブで上から見下しているかのような感じがするので、賢そうに映るというのはその通りなんだなぁって思いました。
バンクーバーの人達が英語の訛を気にするのはきっと移民や外国人が多いからなんだと思います。
ニューヨークで英語の発音について何か言われたことは一度もなかったし、ロンドンでは当然そんなこと言われるはずもありませんでした。旅行をしていて、こんなに発音のことを言われたのはバンクーバーが初めてでした。でも良い気分です。笑
もし英語を勉強している方がいれば、イギリス英語を勉強されることをオススメします。
カナダに来たときにちょっとした優越感に浸れますよ。笑
◆今日の一冊
トレインスポッティング (スクリーンプレイ・シリーズ―名作映画完全セリフ集)
池下 裕次 (編集), ベス ポラード (編集), Beth Pollard (原著)
Day65 多人種都市バンクーバーと日本人
バンクーバーに着いて、まず驚いたのが、アジア人の多さです。
今は英会話の先生であり友人のパトリックの親友のショーンという人の家に泊まらせてもらっているんだけど、ショーンは台湾系カナダ人で、奥さんのジュリーナは中国系カナダ人です。到着した日の夜にマクドナルドに行ったのですが、このときは客も店員も全てアジア系でした。
ショーンが言うには、バンクーバーには白人や白人と先住民との混血の人が全体の約50%、中国系アジア人が約30%、黒人が10%、残りは東南アジア系、フィリピン系の人がだいたい10%の割合で住んでいるとのことでした。ヨーロッパや日本とは比較にもなりませんが、アメリカやメキシコと比較しても、多人種・多文化都市だと感じました。
カナダはアメリカと比較して外国人に対してオープンな国で、日本人なら働くにも、とりあえずワーキングホリデービザで簡単に入国することができます。そのためワーキングホリデービザを利用してカナダに来ている日本人も多く、日系のお店も沢山あります。知り合った日本人の方が言っていたのですが、ここ2年ほどで、日本人のワーホリ入国者の数が一気に増えたそうです。不景気の影響なんだと思います。
今日は、兄の結婚式に向け髪を切りに日系の美容室に行き、その後、中国系の歯医者に行きました。昼食にはイオンみたいな大型ショッピングモールのフードコートに入っている「TERIYAKI」という日本食風のお店で「すき焼きそば」を食べました。薄めのすき焼き味のスープの中にうどんが入っているものなのですが、これが意外と美味しかったです。フードコートの中に入っているような巨大資本を投下しているフランチャイズのレストランはだいたい美味しいもんです。
夜はショーンの友人の家で夕食をご馳走になったのですが、ショーンの友人も中国系で、子供達ももちろん中国系でした。その家には中国人の女の子がホームステイしていて、今日一日、ほとんどアジア人コミュニティーの中で過ごしました。
アジア人コミュニティーの中で感じたのは、やっぱり居心地が良いということです。もちろんみんな英語で話をするし、生まれたときからカナダにいるので、性格もカナダ人なのですが、顔が似ているだけで、こんなにも居心地の良さを覚えるものかと再認識しました。
それに、これだけいろいろな人種が多く暮らしているせいか人種に対する偏見というものがかなり薄いように感じました。白人だろうと、黒人だろうと、先住民だろうと、アジア人だろうと、混血だろうとバンクーバーではみんな平等に扱われているような気がしました。
やっぱりヨーロッパはアジア人に対して、まだまだ偏見や差別があるし、日本だって外国人に対してすごく強い偏見と差別があります。日本ではマックやスタバで白人や黒人が働いているのを見たことがないし、白人や黒人の外国人は(よほどの技能がない限り)日本ではあまりハイレベルな職業に就けないような気がします。でもバンクーバーには人種が関係なく、それぞれ好きな職業を目指せる風土があるように感じました。ロンドンや東京と違って本当の意味でのコスモポリタンだと思います。
日系の美容室で、隣のお客さん(カナダに住んでる日本人女性)とその人の髪を切っていたスタイリスト(同じくカナダに住んでいる日本人女性)が「日本人って外国に出たがらないよね~。なんでだろうね~。」という話を(なんとなく自分達は違うけど的な感じで…笑)していて、それを聞いた僕の髪を切っているスタイリスト(カナダに住んでいる日本人男性)が「お兄さんは外国で暮らしたいって思わないんですか?」と僕に振ってきたので、僕は「えぇ外国で暮らすのは魅力的だと思いますけどね。でも浜松には5月になると浜松祭りっていう最高に楽しい祭りがあって、7月には隣町でap bank fesっていうミスチルが出る野外fesがあるし、美味しい鰻が食べれるし、それに友達も家族もみんな浜松にいるので、なかなか腰を上げられないですね。」と言っておきました。
外国で暮らすのは確かに面白いかもしれないけど、やっぱり住むなら日本がいいです。日本人のコミュニティーほど落ち着くものはありません。
注:僕は基本とてもネガティブな性格の人間なので、アジア人(の特に男)は世界で最も人気のない人種だという基本姿勢を持っています。
でも、もうすぐこの旅行が終わってしまうのはかなり、かなり、かなり寂しいです。
もう一周しようかな…。
2010年4月6日火曜日
Day64 さらばキューバ
結局、昨夜は一睡も出来ず、ホテルに戻ってシャワーを浴び、先に身支度を整え9時半にホテルを出発するまで、談話室のソファーで30分ほど仮眠しました。
昨夜は不運だったし、昨日も一昨日も僕が事前に聞いていたキューバらしいキューバには出会えなかったけど、それらを抜きにしてもなお、キューバは魅力的なところでした。何より良かったのが、CASA de Aniaという僕が滞在したお宅です。Hostelbookers.comのハバナの欄で圧倒的な評価を得ており、その評価のほとんどが、Aniaさんの人柄によるところでした。とにかく親切で、宿泊者のことを気遣ってくれ、また時にはジョークを言って楽しませ、みんなの雰囲気を和ませてくれる、そんな感じの人でした。そんなAnia氏のおかげで、ここでも何人かの友人ができました。
その中に一人、オーストリア出身のマックス(年齢は不詳だが、僕と同じか少し上だと思う)という男がいたのですが、彼の旅行の始め方が実に面白いと思いました。どうやら彼も仕事を辞め(俺も辞めた!俺も辞めた!と仕事を辞めた同士には何か絆のようなものが芽生えます。世界中ニートだらけなのかもしれません。)これから半年ほど旅行をするそうですが、最初の4ヶ月は中南米を旅行するそうです。中南米では英語はあまり通じず、代わりにスペイン語(またはポルトガル語)が主に話されています。マックスはオーストリア人なので、母国語はドイツ語で、また英語もかなり上手に話すのですが、スペイン語はまったくだそうです。それで、ハバナでまず2週間、スペイン語を勉強してから中南米を旅行すると言って、僕が滞在していた間、彼は毎日学校に通っていました。授業料は2週間で200ユーロだと言っていました。結構安いなと思います。当然、スペイン語が話せればより深く現地の人達と関わることができるし、たとえ、いわゆる観光旅行をするにしたって、断然便利です。でもそんなことって考えたこともありませんでした。僕にとっては外国語は英語だけでもう一杯一杯だし、それだって、中学校から勉強を始めて、ようやく日常会話が話せる程度になったというようなものなので、旅行を始める前(または始めてから)その土地の言葉を覚えようなんて、そんなアイディアは僕の中にはまるでありませんでした。でも確かに、簡単な言葉を覚えるだけなら2週間みっちり勉強すれば最低限なんとかなるのかもしれません。僕も話せるというレベルではないですが、イタリア語文法といくつかの単語を知っているので、まったく英語や日本語が話せないイタリア人ともなんとか(と言っても本当に「なんとか」ですが)コミュニケーションをとることができます。ちゃんと話せなくても、相手が何を言いたいのか、自分が言いたいことをそのときの言葉で少しでも表現できるか、それともまったく出来ないかでは大きく違います。
まぁドイツ語と英語とスペイン語は、日本語と比べると幾分か近い言語なので、僕が思っている以上に気軽に外国語を学ぶ文化があるんだと思います。文字もほとんど一緒ですし、数の数え方も、挨拶も似てます。それにしてもマックスは非常に勉強熱心で、朝僕が起きると、もうテーブルの上で勉強しているし、夜だって夕食を食べて談話室に戻ると、また勉強していました。「えらいね。信じられないよ。」と言うと、「僕も信じられない。」と言って笑っていました。
彼は中南米を旅行した後、8月か9月に日本に来てアジアを旅行してから帰国すると言っていました。別れ際は「日本に行くときは連絡するから日本の綺麗な田舎に連れてってくれ。」と言っていたので、また日本で会うかもしれません。来たら日本語の学校を紹介してあげようと思います。
僕も学生の時、イタリアの友達の家に3週間ずつ、2年続けて滞在させてもらっていたので、このときにペルージャ外国人大学のイタリア語コースを受けておけば良かったって、今になって後悔していますが、後悔先に立たずというやつです。
今、カナダのバンクーバーの友達の友達の家に泊まらせてもらっています。
バンクーバーに来るまでの飛行機の中でぐっすり眠ろうと思っていたのですが、隣に座っていたおばさんが一週間はシャワーを浴びていないんじゃないかという、鼻につく臭いを発していて、マジで一睡も出来ませんでした。しかも飛行機はオーバーブッキングで次の便に回ってもらうボランティアを募集しているほどだったので、他に空席があるわけもなく、また、臭いから何とかしてくれなんてとても言えるわけもなく、ただただ耐えしのぐのみでした。天井のランプの脇に付いているエアの噴出孔を全開にて僕の鼻に向けて新鮮な空気を送り続け、エアカーテンを作って何とかしのいでいましたが、それでもなお辛かったです。マジで一睡も出来ませんでした。目からは涙が出てきました。
旅行の最初の頃に、バンコクからフランクフルトに飛ぶ飛行機の中で、ずっと咳をしていて、さらに僕の肘掛に侵略してきたドイツ人のおっさんがいたけれど、それと比べても比較にならないほど辛かったです。
僕は毎日シャワーを浴びているし、シャンプーもしているし、下着もシャツも1週間に1回くらいのペースでちゃんと洗濯しているので、臭くないとは思いますが、長いこと旅行していると、服も顔もだんだん汚れてきます。たぶん大丈夫だと思いますが、自分の体臭って本人はあまり気づかないものなので、、日本に帰ったときに、「ちょっと臭いんですけど、勘弁してもらえません?」と言われないように気をつけたいと思いました。
2010年4月5日月曜日
Day63 真実のキューバ
キューバの真の姿を見たくなった僕は、昨日までと打って変わって積極的に攻勢に転じることにしました。実は昨夜、カンクンで知り合った「世界の国からコンニチワ」ブログの作者の坂元君が合流し、今日は二人で市内観光をすることにしました。坂元君はいわゆる観光地にはあまり興味がないらしく、より本物のキューバを感じたいとのことでした。昨日、僕が感じたキューバの違和感について彼に話をしたら、彼のテンションは一気に下がり、深く落ち込むと共に、そんなはずはない、ちゃんと自分の目で確かめるんだと言って、僕達は今日一日、日本人的感性を脱ぎ捨て積極的にキューバ人と関わりあうことを誓い合いました。
まずは広場で短距離走の測定をしていたキューバ人中学生の集団にアタックです。
先生と思われる男性に向かって「Hola!」と言うと、向こうも気さくに「Hola!」と返してくれます。ここまでは普通です。その後、生徒達に「Hola! Soy japonés.」と言って、空手の型みたいなことをすると、盛り上がりました。ここぞとばかりに、ジェスチャーで「俺も走りたい。競争しよう。」というようなことを伝えると、なんと先生が快く応じてくれました。少し大きな黒人の男の子と小さな黒人の男の子が一緒に走りたいといって、3人で勝負しました。結果、僕はスタートのタイミングがわからず遅れてしまったため、大きな黒人の男の子(男の子といっても高校生並みの体格)には勝てず、2着でした。その後、生徒達と少しだけ打ち解けて、最後に皆で写真を撮りました。ほとんどの子供は純粋で良い子だったのですが、数名の男子生徒は「金をくれ」とせびってきました。「ごめんね。」と言ってお金はあげなかったのですが、結構打ち解けたと思った後だったので、すこしショックでした。やはり子供たちも飢えているのかなと思わされました。それにメキシコ人と比較すると、メキシコ人の方が無邪気で可愛げがあります。
その後、道端でキューバ人男性が声を掛けてきました。でも向こうから声を掛けてくるキューバ人男性は決まって「コヒーバ(というキューバ製の葉巻)はいらないか?安く売ってあげるよ。」という偽葉巻売りか、そうでなくて、いろいろキューバのことを話してくれたり、日本に行きたいとか、日本に友達がいるというような世間話をしたとしても、必ず最後には「食べるためのお金をくれないか?」と言ってきます。食べ物は配給を受けていて不足してないんじゃないの?と思いながら「申し訳ないけど、お金はあげられない。」と断り続けました。
道を歩いていたキューバ人女性に声を掛けてみようということになり、映画トレインスポッティングのワンシーンでレントンがディスコの前でダイアンをナンパするときのようなテンションで通りすがりのキューバ人女性に声を掛けてみました。最初、道を聞いて「よかったら一緒に行かない?」と言ってみたのですが「それは、ちょっと…。仕事があるから。」とあっさり断られました。笑 まったくキューバまで来て何をしてるんだか…。それもこれも真のキューバを見たいという純粋な探究心からでた行動なのですが。結局、写真を一緒に撮ったのですが、やっぱりメキシコ人やアメリカ人と比べると少し控えめな感じでした。いわゆるラテンのノリというやつは感じられませんでした。ここでも昨日感じた男女の仲保守的説が再び浮上しました。
その後、道行く人や店員さんと少し会話をしたのですが、やはりぎこちなさがありました。キューバ人のほとんどが英語を話さず、僕達もスペイン語をほとんど話せないので、上手くコミュニケーションが取れないということもあるのですが、やはりメキシコ人と比較して、あらゆる面で保守的でした。
カナダ人の友人や浜松在住のキューバ人男性が言っていた「道端やカフェで声を掛けたら、みんな快く応じてくれるよ。」というのはどうやら間違いであったと思わざるを得ないようです。
ただ、旧市街の中心部にある公園で野球談義をしているおっさん達だけは違いました。彼らが醸し出していた空気こそきっと本当のキューバの空気だと感じました。
ご存知の通り、キューバでは野球が大変人気で盛んなのですが、僕が滞在していた期間にはちょうど野球リーグのチャンピョンシップの試合が行われていました。キューバ野球のチャンピョンシップは日本のプロ野球の日本シリーズと同じような仕組みで、先に4勝をあげたチームが優勝となります。今年はハバナのチームとサンタクララのチームが争っていたのですが、この日までの試合結果は3対3でした。なので今夜がキューバ野球にとって、そしてハバナチームのファンにとって最も重要な日だったわけです。そんなわけで公園には大の大人達が集まって、ものすごい形相で野球談義をしていました。きっとどっちのチームが勝つとか、あいつは昨日良いプレーをしたとかしなかったとか、そういったことを話していたんだと思いますが、あまりの白熱ぶりに、最初、喧嘩でもしてるんじゃないかと思ったほどでした。でもすぐにみんな笑顔になって肩を抱き合いながら、はっはっはと笑い合っては、また喧嘩でもしているような真剣な談義が始まります。これの繰り返しでした。この野球談義だけは、ラテンの情熱を感じさせてくれるものでした。
結局この日もキューバ人に対する僕の印象は昨日とあまり変わらず、観光を終えて、ホテルへ戻りました。
ホテルに戻るとオーナーのアニアが談話室にいたので、彼と少し話すことにしました。
僕がこの2日間で感じたことを話したのですが、僕が予想していた、キューバ人は観光客と積極的に関わってはいけないのではという説は間違っているようでした。彼らがあまりフレンドリーでないのは、まず英語が話せないことと、ハバナは大都会だから人々は他人をあまり気にせず暮らしているというようなことを言っていました。昔ながらのキューバ人とは少し違うとのことです。うーんと、少し納得し難い答えでしたが、キューバ人はもともとそれほどオープンじゃないんだということにしておこうと思いました。
配給制度についても少し教えてもらいました。例えば米や野菜は充分な量をもらえるそうですが、肉や魚は足りないそうです。配給で食べていくことはできるけど、満足ではないと言っていました。
居住制限や旅行制限なども教えてもらったのですが、やはり資本主義の国の人々と違って、制限があり、貧乏な生活をしているようで、そのことに不満を感じているキューバ人も多いそうです。「キューバはこのまま社会主義を続けていけるのか?」という質問には「それはわからない。でも少しずつ変わっている。」と言っていました。
昨夜、一緒に食事をしたドイツ人夫婦が「この国が10年後どうなるのか興味深い。」と言っていたのですが、僕もそう思いました。10年も経てばもしかすると政策転換が起きているかもしれません。
ホテルに戻って一休みしていると、もう一人、カンクンの宿で出会った陽平君がもう一日遅れてやってきました。3人で外で夕食を食べ、ホテルに戻って談話室のテレビでその野球チャンピョンシップの中継を見ました。キューバの野球は夜8時から始まって、なんと深夜2時まで続きます。同じホテルに滞在していたオーストリア人のマックスとブラジル人のガブリエル、ホテルのオーナーも混ざって、みんなで観戦しました。ゲームの進行がかなり遅いペースで、いらいらするのですが、それでもチャンピョンシップだけあって、かなり白熱した試合になりました。ハバナのチームが点を取ると、外ではどこからともなく歓声があがります。「今日ハバナが勝ったらみんなでパーティーだ。外に飲みに出掛けよう。」と言い合いながら試合を観戦しました。結果は10回の裏のサンタクララの攻撃を0点で押さえ、見事ハバナのチームが優勝しました。このときはもうハバナの町が何かから開放されたかのように盛り上がり、喜びで街中が溢れかえっていました。僕達もようやくキューバ人の本当の姿を目にすることができる!と思って、通りに飛び出し、キューバ人達と肩を抱き合って、チャンピョンになったことを祝いました。みんなで勝利の雄たけびを上げ、車のクラクションを鳴らし、街中のいたるところで踊りました。
このとき僕らはキューバ人がようやく心を開いてくれたことと、すこし酔っ払っていたこともあって、かなり気が緩んでいました。
そして、事件は起きたのです…。
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それでは。
まずは広場で短距離走の測定をしていたキューバ人中学生の集団にアタックです。
先生と思われる男性に向かって「Hola!」と言うと、向こうも気さくに「Hola!」と返してくれます。ここまでは普通です。その後、生徒達に「Hola! Soy japonés.」と言って、空手の型みたいなことをすると、盛り上がりました。ここぞとばかりに、ジェスチャーで「俺も走りたい。競争しよう。」というようなことを伝えると、なんと先生が快く応じてくれました。少し大きな黒人の男の子と小さな黒人の男の子が一緒に走りたいといって、3人で勝負しました。結果、僕はスタートのタイミングがわからず遅れてしまったため、大きな黒人の男の子(男の子といっても高校生並みの体格)には勝てず、2着でした。その後、生徒達と少しだけ打ち解けて、最後に皆で写真を撮りました。ほとんどの子供は純粋で良い子だったのですが、数名の男子生徒は「金をくれ」とせびってきました。「ごめんね。」と言ってお金はあげなかったのですが、結構打ち解けたと思った後だったので、すこしショックでした。やはり子供たちも飢えているのかなと思わされました。それにメキシコ人と比較すると、メキシコ人の方が無邪気で可愛げがあります。
その後、道端でキューバ人男性が声を掛けてきました。でも向こうから声を掛けてくるキューバ人男性は決まって「コヒーバ(というキューバ製の葉巻)はいらないか?安く売ってあげるよ。」という偽葉巻売りか、そうでなくて、いろいろキューバのことを話してくれたり、日本に行きたいとか、日本に友達がいるというような世間話をしたとしても、必ず最後には「食べるためのお金をくれないか?」と言ってきます。食べ物は配給を受けていて不足してないんじゃないの?と思いながら「申し訳ないけど、お金はあげられない。」と断り続けました。
道を歩いていたキューバ人女性に声を掛けてみようということになり、映画トレインスポッティングのワンシーンでレントンがディスコの前でダイアンをナンパするときのようなテンションで通りすがりのキューバ人女性に声を掛けてみました。最初、道を聞いて「よかったら一緒に行かない?」と言ってみたのですが「それは、ちょっと…。仕事があるから。」とあっさり断られました。笑 まったくキューバまで来て何をしてるんだか…。それもこれも真のキューバを見たいという純粋な探究心からでた行動なのですが。結局、写真を一緒に撮ったのですが、やっぱりメキシコ人やアメリカ人と比べると少し控えめな感じでした。いわゆるラテンのノリというやつは感じられませんでした。ここでも昨日感じた男女の仲保守的説が再び浮上しました。
その後、道行く人や店員さんと少し会話をしたのですが、やはりぎこちなさがありました。キューバ人のほとんどが英語を話さず、僕達もスペイン語をほとんど話せないので、上手くコミュニケーションが取れないということもあるのですが、やはりメキシコ人と比較して、あらゆる面で保守的でした。
カナダ人の友人や浜松在住のキューバ人男性が言っていた「道端やカフェで声を掛けたら、みんな快く応じてくれるよ。」というのはどうやら間違いであったと思わざるを得ないようです。
ただ、旧市街の中心部にある公園で野球談義をしているおっさん達だけは違いました。彼らが醸し出していた空気こそきっと本当のキューバの空気だと感じました。
ご存知の通り、キューバでは野球が大変人気で盛んなのですが、僕が滞在していた期間にはちょうど野球リーグのチャンピョンシップの試合が行われていました。キューバ野球のチャンピョンシップは日本のプロ野球の日本シリーズと同じような仕組みで、先に4勝をあげたチームが優勝となります。今年はハバナのチームとサンタクララのチームが争っていたのですが、この日までの試合結果は3対3でした。なので今夜がキューバ野球にとって、そしてハバナチームのファンにとって最も重要な日だったわけです。そんなわけで公園には大の大人達が集まって、ものすごい形相で野球談義をしていました。きっとどっちのチームが勝つとか、あいつは昨日良いプレーをしたとかしなかったとか、そういったことを話していたんだと思いますが、あまりの白熱ぶりに、最初、喧嘩でもしてるんじゃないかと思ったほどでした。でもすぐにみんな笑顔になって肩を抱き合いながら、はっはっはと笑い合っては、また喧嘩でもしているような真剣な談義が始まります。これの繰り返しでした。この野球談義だけは、ラテンの情熱を感じさせてくれるものでした。
結局この日もキューバ人に対する僕の印象は昨日とあまり変わらず、観光を終えて、ホテルへ戻りました。
ホテルに戻るとオーナーのアニアが談話室にいたので、彼と少し話すことにしました。
僕がこの2日間で感じたことを話したのですが、僕が予想していた、キューバ人は観光客と積極的に関わってはいけないのではという説は間違っているようでした。彼らがあまりフレンドリーでないのは、まず英語が話せないことと、ハバナは大都会だから人々は他人をあまり気にせず暮らしているというようなことを言っていました。昔ながらのキューバ人とは少し違うとのことです。うーんと、少し納得し難い答えでしたが、キューバ人はもともとそれほどオープンじゃないんだということにしておこうと思いました。
配給制度についても少し教えてもらいました。例えば米や野菜は充分な量をもらえるそうですが、肉や魚は足りないそうです。配給で食べていくことはできるけど、満足ではないと言っていました。
居住制限や旅行制限なども教えてもらったのですが、やはり資本主義の国の人々と違って、制限があり、貧乏な生活をしているようで、そのことに不満を感じているキューバ人も多いそうです。「キューバはこのまま社会主義を続けていけるのか?」という質問には「それはわからない。でも少しずつ変わっている。」と言っていました。
昨夜、一緒に食事をしたドイツ人夫婦が「この国が10年後どうなるのか興味深い。」と言っていたのですが、僕もそう思いました。10年も経てばもしかすると政策転換が起きているかもしれません。
ホテルに戻って一休みしていると、もう一人、カンクンの宿で出会った陽平君がもう一日遅れてやってきました。3人で外で夕食を食べ、ホテルに戻って談話室のテレビでその野球チャンピョンシップの中継を見ました。キューバの野球は夜8時から始まって、なんと深夜2時まで続きます。同じホテルに滞在していたオーストリア人のマックスとブラジル人のガブリエル、ホテルのオーナーも混ざって、みんなで観戦しました。ゲームの進行がかなり遅いペースで、いらいらするのですが、それでもチャンピョンシップだけあって、かなり白熱した試合になりました。ハバナのチームが点を取ると、外ではどこからともなく歓声があがります。「今日ハバナが勝ったらみんなでパーティーだ。外に飲みに出掛けよう。」と言い合いながら試合を観戦しました。結果は10回の裏のサンタクララの攻撃を0点で押さえ、見事ハバナのチームが優勝しました。このときはもうハバナの町が何かから開放されたかのように盛り上がり、喜びで街中が溢れかえっていました。僕達もようやくキューバ人の本当の姿を目にすることができる!と思って、通りに飛び出し、キューバ人達と肩を抱き合って、チャンピョンになったことを祝いました。みんなで勝利の雄たけびを上げ、車のクラクションを鳴らし、街中のいたるところで踊りました。
このとき僕らはキューバ人がようやく心を開いてくれたことと、すこし酔っ払っていたこともあって、かなり気が緩んでいました。
そして、事件は起きたのです…。
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2010年4月4日日曜日
Day62 理想と現実の間
僕が事前に仕入れていたキューバ情報はどうやら8割方間違っていたようでした。
情報の仕入れ先は①テレビや雑誌、②カナダ人の友人、③キューバに行ったことのある元同僚、④浜松在住のキューバ人、⑤カンクンのホテルで出会った日本人旅行者でした。
まず、①テレビや雑誌などのマスメディアから仕入れた情報では、1959年にチェ・ゲバラが活躍した革命以降、キューバは北中南米に誕生した唯一の社会主義国家となり、そのためアメリカ合衆国から敵対され、さらにキューバ危機という鮮烈な印象の言葉が広く出回っているため、(アメリカ寄りの)日本ではキューバと聞くと「危険な国」や「独裁国家」と言った印象を無闇に思い浮かべてしまうが、実はそうではなく、キューバは社会主義国家を辿った国の中でも最も成功している国の一つで、例えば医療・教育水準は北欧にも引けを取らない高水準を誇っており、識字率はほぼ100%だし、小学校から大学までの学費は全て無料で、ハバナ大学医学部の学費は外国人も無料となっている。人々は年収わずか1万円ながらも社会主義国家ならではの配給制度があるため、贅沢ではなくても充分な暮らしを送ることができ、治安も周辺諸国と比べて非常に良く、安心して観光することができる。また、キューバ人は陽気で人柄が良く、野球といったスポーツやキューバJAZZが有名で、街角を歩けば陽気なキューバ人が野球談義をしていたり、路上でJAZZの演奏をしている光景を目にすることが出来る。とまぁこんな感じでした。
そして、僕の熱心な英会話教師の②カナダ人の友人が言うには、「キューバは今僕が最も興味のある国だ。街には50年代のクラシックカーが走っていて、建物はどれも古く情緒があって、さらにキューバ人はみんな陽気でフレンドリーなんだって。日本やアメリカ、カナダみたいに資本主義じゃないから、人々はもっとのんびりしていて、社会主義ならではのリラックスした空気が流れてるんだよ。」他にも「キューバ人女性は非常にオープンでカフェで声を掛ければ気軽に応じてくれ、日本やカナダとは大違い。ラテンの人達なんだ。是非行くべきだよ。」と強くキューバ旅行を勧めてくれました。
僕の友人であり③キューバに行ったことのある元同僚の話では「キューバには絶対に行くべきだな。マクドナルドもコカコーラもないんだぜ。街には広告なんて一つも出てないんだ。そんな風景見たことあるか?」「めちゃめちゃ古いアメリカの車とかフォルクスワーゲンビートルが走ってるし、キューバ人の女性はケツを振りながら陽気に通りを歩いてて、日本では想像も出来ないような世界だよ。」と言ってました。ただ彼は同時に「キューバに4泊もしたら、やることが無くて廃人になる。2泊3日で充分だ。」とも言っていました。
そして、カナダ人の友人の紹介で会った④浜松在住のキューバ人は「確かにキューバ人は陽気でフレンドリーだよ。日本人とは比較できないほどにね。キューバを旅行するなら少なくとも10日はいるな。ハバナだけでも少なくても5日は欲しい。見所も沢山あるからね。」「キューバ人の女性?みんなフレンドリーでボニータだよ。道端で声を掛けても全然問題ないよ。Eres muy bonita(綺麗ですね)!って言えばみんな喜ぶよ。」と教えてくれました。
キューバに行く直前に滞在していた⑤カンクンの日本人宿で出会った日本人旅行者達も口をそろえて「キューバめっちゃ楽しみ。」とか「キューバに行ってたんだけど、すごく良い所だったよ。何もないんだけどね、でもその何もないところがまた素敵だった。」と言っていました。
ここまでみんなが揃ってキューバのことを良く言うので、僕の胸は期待で膨れ上がっていました。
しかし、キューバに着いた翌日、ハバナ市内を一日観光して感じたのは「大きな違和感」でした。
僕が感じた違和感を簡潔に表現するのなら「僕達旅行者は動物園の檻の外からキューバ社会を眺めることはできるが、決して彼らの社会の一員として受け入れてはもらえない。」といった感じです。
まず、キューバの物価は、おそらく中南米でも一、二を争う高さだと思います。キューバにはCUPと呼ばれるキューバ国民の為の人民ペソとCUCと呼ばれる観光客の為の観光ペソの2種類があります。1CUPはだいたい4円くらいで、1CUCはだいたい100円くらいです。僕達観光客が買い物をするにはCUCという外国人向けのお金を使わないといけなく、このCUCで買い物をすると、なんでも高くなります。例えば道端で売っているアイスクリームが2CUC(約200円)だったり、モヒートというキューバ発祥のカクテルは大体3.5~4.5CUC、食事は場所にも寄りますが安くても5CUCから高くて15、20CUC、ガイドブックに紹介されている市内のホテルは最安値でも1泊60CUC~です。ドミトリーは法律で禁止されているそうです。キューバでは年収が1万円程度なのに対し、観光客は1日で1万円使わざるを得ないといった感じです。実際にはホテルには宿泊せず、ネットで調べた個人宅の部屋貸し(政府認可)を利用したので、宿泊費は20CUC程度でした。僕が宿泊したCASA de Ania(Aniaの家)というところは非常に良い所でした。
ところで、もし僕達外国人と現地人が一緒に食事に行ったらどちらのお金を使うことになるんでしょうか?気になるところです。ただ、通貨が違う時点で僕達観光客がキューバ社会の中に入ることが一つ難しくなるのです。
ハバナ市内には大勢の観光客で賑っていて、かなり観光地化していました。
ソビエトの崩壊後、キューバ政府は外貨獲得のために観光政策を取り入れたのですが、どうやらそれが実を結んでいるようです。キューバの人達は観光客から稼いだ外貨で暮らしているように思えました。
またキューバの人々からは僕らと積極的にかかわりを持ちたくなさそうな印象を受けました。メキシコでは子供達が大勢でやってきたり、女の子達が一緒に写真に写ってくれと歩み寄ってきたりするのですが、キューバの人々は決してそんなことはしてきません。通りでJAZZを演奏している人は一人もいませんでした。(公園で野球談義をしている人達はいましたが)こちらから声を掛ければ、人によっては笑顔で応じてくれたり、話をする人もいたのですが、半分以上の人達は笑いを浮かべた後、はっとしたようにその笑いを引っ込め、どうもと軽く挨拶をしてすぐに去って行きます。最初、人前で堂々と観光客とコミュニケーションを取ってはいけない何かがあるのかと思ったほどでした。
男女の関係も他の国と比較して保守的で例えば路上でキスをしていたり、いちゃいちゃしているカップルは一組も目にしませんでした。メキシコではカップルはこれでもかってくらいにイチャついていたので、それと比べると雲泥の差です。日本よりも保守的じゃないかって思ったくらいです。
人々は陽気というよりも、何かを我慢しているように見受けられました。滞在二日目の夜にホテルの下の食堂で一緒に夕食を食べたドイツ人夫婦が「キューバの人達は自分達が一年かけて稼ぐお金と同じ額のお金を欧米亜の旅行者が使うのを見たり、最新のカメラや携帯電話を持っているのを見て、何も感じないわけがない。社会主義はいずれ滅びる。」と言っていました。確かにその通りです。僕は無知にもキューバ政府が充分な配給を国民に与えているため多くの国民はキューバでの生活に満足していて、のんびり暮らしているということを信じていました。でも、老人でもない限り、少しでも上の生活をしたいと思うのは当たり前で、外国人が持っているクールなアイテムを見て、羨ましくないはずがなかったのです。ドイツ人夫婦と食事をしている席の隣の席には、外国人の初老の男性とキューバ人の子連れの家族が食事をしていて、この外国人の男性(おそらく親戚のおじさんか何か)がキューバ人の子供にプレイステーションポータブルをプレゼントしていたのですが、この子供は他の国の子供がPSPをプレゼントしてもらった時と同じように、文字通り飛び上がって喜んでいました。資本主義だろうと社会主義だろうと、友達が持っていないアイテムを手に入れたい、他人が消費できない記号を消費したいという願望は変わらないんです。
でも不思議なことに、僕が最新のデジカメをで写真を撮っていても、iPhoneを使っていても、誰も見せてくれと寄って来ないのです。この点もメキシコとは違いました。欲望を押さえているように感じました。
国立美術館に行ったのですが、僕が感じた違和感はここで一気に膨れ上がりました。
街には50年代の車が走っていて、建物はどれも古く、時代が止まってしまったかのような印象を受けるのに対し、キューバのアートは確実に最先端を進んでいました。それもキューバ独自のアートとしてガラパゴス諸島のように進化したというわけではなく、世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。なぜこのことが僕に違和感を与えたのかと言うと、通常、一般人の生活や感覚はアーティストと呼ばれる感受性の高い人々の生活や感覚を追いかけるように育ち、変化していくからです。ですが、キューバに関してはアートは他の世界と変わらないレベルに達しているのに、一般人の生活は止まったままになっているんです。アート作品からはアーティスト達が新しいものやさらなる高みを目指す「欲求」が感じられるのに、人々からあるはずの「欲求」が感じるのはやっぱり変だと思います。隠しているとしか思えませんでした。
なんだかキューバは濃い霧で覆われていて、その全容を見透かすことは簡単ではないようです。明日こそはもう少しキューバ社会の中に潜入して、本当のキューバの姿を暴いてやりたいと思います。
Day61 実はキューバに行けなかった
更新がかなり遅れました。
予想していた通り、キューバではインターネットは自由に使えませんでした。宿泊した宿にはインターネットが使えるパソコンが1台だけあったのですが、日本語に対応していず、また宿泊者全員でシェアしないといけないので、ブログを更新する時間はなく、また、理由はわからないのですが、インターネットは夜の8時から朝の9時までしか使えませんでした。それも物理的に接続できないのではなく、接続すると何か良くないことがあるから、接続しないといった感じで使えませんでした。規制?みたいな感じでした。宿の人も「キューバではインターネットをするのは難しい」と言っていました。やはり社会主義の国は少し怪しいところがあります。
今はバンクーバーの友人の家におじゃましています。
キューバの分のブログをまとめていくつかアップしようと思います。
まずは、Day61 実はキューバに行けなかった からです。
意気揚々とカンクンの日本人宿を後にし、2日遅れでキューバにやってくる坂元君らに「一足先にキューバに行くよ。悪いね。笑 まぁゆっくり遊びにおいでよ。」と嫌味の一つをさらっと言って、空港に向かったのですが、不運にも僕が乗る予定の飛行機がフライトキャンセルになってしまい、結局この日はキューバに行くことが出来ませんでした。日頃の悪行が廻りまわって戻ってきたみたいです。
空港で散々待たされた挙句、機体の整備不良だということで、翌日のフライトに乗ることになりました。この日のホテル代は航空会社が負担して、さらに空港内の免税店で使える300ペソの金券をくれたのですが、失われた1日はお金では買えません。かなりショックでした。これで4泊の滞在予定が3泊になってしまい、僕のキューバ滞在スケジュールは大きくずれることになりました。1日ってなんて大きいんだろうって思い知らされました。1日あれば本を読みなさい、1年あれば種を蒔きなさい、1生あれば家を建てなさいと良く言われるのですが、1日なくなってしまったので、持ってきたヘミングウェイの短編集を読むのは辞めにします。と言っても持っているのは「われらの時代/男だけの世界」というヘミングウェイ短編集全3巻の第1巻目で、まだ若い頃の作品なので、キューバとはまったく関係ないんですが…
大きなショックを受けて、ホテルに戻り、近くのコインランドリーで溜まっていた洗濯をして、ホテルで不貞寝してやりました。
空港の免税店で待っている間にかなり格好いいサングラスを見つけてしまい、翌日、航空会社からもらった金券を使って、そのサングラスを買ってしまいました。アルマーニ社のもので、僕の好きなカーブのきついタイプのものです。でもこれは世紀の無駄遣いです。お前の人生においてそんなに沢山のサングラスは必要なのか?って思います。そのうちトニー滝谷の奥さんみたいになってしまうかもしれません。まんまと航空会社の策略にはまってしまいました。まぁ1900ペソ-300ペソ(約11,200円)で買えたので、かなりお買い得でした、ということにして無駄遣いを正当化することにします。
ようやく待ちに待ったキューバに到着しました。
どんなハプニングがあるのか、楽しみでなりません。
※ウェブアルバムはすでに更新済みです。良かったら見てください。
◆ウェブアルバム Havana2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Habana2010#
◆今日の一冊
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)
アーネスト ヘミングウェイ (著), Ernest Hemingway (原著), 高見 浩 (翻訳)
予想していた通り、キューバではインターネットは自由に使えませんでした。宿泊した宿にはインターネットが使えるパソコンが1台だけあったのですが、日本語に対応していず、また宿泊者全員でシェアしないといけないので、ブログを更新する時間はなく、また、理由はわからないのですが、インターネットは夜の8時から朝の9時までしか使えませんでした。それも物理的に接続できないのではなく、接続すると何か良くないことがあるから、接続しないといった感じで使えませんでした。規制?みたいな感じでした。宿の人も「キューバではインターネットをするのは難しい」と言っていました。やはり社会主義の国は少し怪しいところがあります。
今はバンクーバーの友人の家におじゃましています。
キューバの分のブログをまとめていくつかアップしようと思います。
まずは、Day61 実はキューバに行けなかった からです。
意気揚々とカンクンの日本人宿を後にし、2日遅れでキューバにやってくる坂元君らに「一足先にキューバに行くよ。悪いね。笑 まぁゆっくり遊びにおいでよ。」と嫌味の一つをさらっと言って、空港に向かったのですが、不運にも僕が乗る予定の飛行機がフライトキャンセルになってしまい、結局この日はキューバに行くことが出来ませんでした。日頃の悪行が廻りまわって戻ってきたみたいです。
空港で散々待たされた挙句、機体の整備不良だということで、翌日のフライトに乗ることになりました。この日のホテル代は航空会社が負担して、さらに空港内の免税店で使える300ペソの金券をくれたのですが、失われた1日はお金では買えません。かなりショックでした。これで4泊の滞在予定が3泊になってしまい、僕のキューバ滞在スケジュールは大きくずれることになりました。1日ってなんて大きいんだろうって思い知らされました。1日あれば本を読みなさい、1年あれば種を蒔きなさい、1生あれば家を建てなさいと良く言われるのですが、1日なくなってしまったので、持ってきたヘミングウェイの短編集を読むのは辞めにします。と言っても持っているのは「われらの時代/男だけの世界」というヘミングウェイ短編集全3巻の第1巻目で、まだ若い頃の作品なので、キューバとはまったく関係ないんですが…
大きなショックを受けて、ホテルに戻り、近くのコインランドリーで溜まっていた洗濯をして、ホテルで不貞寝してやりました。
空港の免税店で待っている間にかなり格好いいサングラスを見つけてしまい、翌日、航空会社からもらった金券を使って、そのサングラスを買ってしまいました。アルマーニ社のもので、僕の好きなカーブのきついタイプのものです。でもこれは世紀の無駄遣いです。お前の人生においてそんなに沢山のサングラスは必要なのか?って思います。そのうちトニー滝谷の奥さんみたいになってしまうかもしれません。まんまと航空会社の策略にはまってしまいました。まぁ1900ペソ-300ペソ(約11,200円)で買えたので、かなりお買い得でした、ということにして無駄遣いを正当化することにします。
ようやく待ちに待ったキューバに到着しました。
どんなハプニングがあるのか、楽しみでなりません。
※ウェブアルバムはすでに更新済みです。良かったら見てください。
◆ウェブアルバム Havana2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Habana2010#
◆今日の一冊
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)
アーネスト ヘミングウェイ (著), Ernest Hemingway (原著), 高見 浩 (翻訳)
2010年3月29日月曜日
Day60 カリブ海の真珠
僕の旅行ですが、残すところあと20日になりました。
今日はこれからカリブ海の真珠、キューバに行ってきます。
4泊5日間のキューバ滞在です。
キューバはご存知の通り社会主義政権です。
スーパーマーケットに行っても商品が陳列されていないそうです。
資本主義社会の基本である供給過多的な商品の陳列はキューバでは有り得ないみたいです。
ネットが使えるかどうかもわかりません。ブログの更新は出来ないかもしれません。
でも、40年代のクラシックカーが走っていたり、マクドナルドやコカコーラの看板のない街並みがあったり、キューバ、楽しみでなりません。
日本人宿で知り合った人も口々に「キューバはいい。」と言います。
とりたてて何がいいわけではないのだけど、とにかく「キューバはいい。」そうです。
きっと僕達日本人や資本主義社会の国々の人が体験したことのない空気が流れているんだと思います。
でも僕はベーシックインカム構想には断固反対です。
やっぱり人間は一生懸命働かなければいけないと思います。とニートの僕が言えた口ではありませんが…。笑
それでは、また。
今日はこれからカリブ海の真珠、キューバに行ってきます。
4泊5日間のキューバ滞在です。
キューバはご存知の通り社会主義政権です。
スーパーマーケットに行っても商品が陳列されていないそうです。
資本主義社会の基本である供給過多的な商品の陳列はキューバでは有り得ないみたいです。
ネットが使えるかどうかもわかりません。ブログの更新は出来ないかもしれません。
でも、40年代のクラシックカーが走っていたり、マクドナルドやコカコーラの看板のない街並みがあったり、キューバ、楽しみでなりません。
日本人宿で知り合った人も口々に「キューバはいい。」と言います。
とりたてて何がいいわけではないのだけど、とにかく「キューバはいい。」そうです。
きっと僕達日本人や資本主義社会の国々の人が体験したことのない空気が流れているんだと思います。
でも僕はベーシックインカム構想には断固反対です。
やっぱり人間は一生懸命働かなければいけないと思います。とニートの僕が言えた口ではありませんが…。笑
それでは、また。
Day59 チチェン・イツァ
カンクンからバスに揺られること3時間、マヤ文明の遺跡、チチェン・イツァに行って来ました。
マヤ文明にもその他のメソアメリカ文明にあるようにピラミッドが存在しています。
写真のピラミッドはククルカン(ケツァルコアルトルのマヤ語表記)のピラミッド、通称カスティーヨです。
カスティーヨは天文学の技術を駆使して建造されたピラミッドで、カレンダーや時計の機能を持っています。またその精巧さはスイス時計の機械仕掛けにも引けをとらないほどのものだそうです。
有名な話では、このピラミッドの北側にある階段の地上に面している段に蛇の頭(ククルカンの化身)のモチーフがあしらわれているのですが、毎年2回、春分の日と秋分の日にだけ真西から照らされた太陽光によって影が出来、この蛇の頭に胴体が現れるように計算されているのです。影の出現は一分の狂いもなく精密に計算されていて、毎年、春分の日と秋分の日だけしか、この現象を見ることができないそうです。
残念ながら今年の春分の日は1週間前でした。
上の写真は戦士の神殿と呼ばれるところで、ここは生贄信仰の舞台になったところです。
現代のサッカーのような球技をし、勝ったチーム(あるいは負けたチームとも言われている)のキャプテンが生贄にささげられていたそうです。生贄の方法は非常に残酷(だと現代的感覚では思う)で生贄の両手両足を押さえつけ、執刀係の神官が黒曜石のナイフを持って、生贄の左あばら骨の隙間を切り開きます。もちろん生きたままです。開き口から手を入れて心臓を鷲づかみにして、ちぎり出し、写真の中央にある、横たわった人(名前は忘れましたが何かの神)のお腹の上にある皿に載せ、神々に奉げていたそうです。後期マヤ文明では(アステカでも)このような生贄が毎日のように行われ、生贄を確保するために、戦争を行うこともあったそうです。
伝承に残っているなかで最も大規模な生贄の儀式では数百という生贄が一度に奉げられ、ピラミッドが流れ落ちた人間の血で真っ赤になったこともあったそうです。
それもこれも2012年12月23日に消滅してしまうと言い伝えられてる第5の太陽の寿命を延ばすための神頼みだったそうです。
僕は現代の日本に生まれて、本当に良かったなと思いました。
マヤ文明を始めとするメソアメリカ文明の興味深いところは、文明の後退が見られる点です。
現代科学にも引けを取らないほどの高度な天文学を有していた文明が謎の消滅を遂げ、再び復活するということがいくつかあるのですが、復活後の文明はあきらかに前の文明が有していたほどの科学技術を持たず、未開の生活を営んでいたり、前述した血の生贄の儀に取り憑かれてしまっていたりします。
中央アメリカには不思議な歴史が残っています。
もう一度、中学生からやり直せるなら、考古学者になってみたいようなみたくないような、不思議な気持ちにさせられました。
マヤ文明にもその他のメソアメリカ文明にあるようにピラミッドが存在しています。
写真のピラミッドはククルカン(ケツァルコアルトルのマヤ語表記)のピラミッド、通称カスティーヨです。
カスティーヨは天文学の技術を駆使して建造されたピラミッドで、カレンダーや時計の機能を持っています。またその精巧さはスイス時計の機械仕掛けにも引けをとらないほどのものだそうです。
有名な話では、このピラミッドの北側にある階段の地上に面している段に蛇の頭(ククルカンの化身)のモチーフがあしらわれているのですが、毎年2回、春分の日と秋分の日にだけ真西から照らされた太陽光によって影が出来、この蛇の頭に胴体が現れるように計算されているのです。影の出現は一分の狂いもなく精密に計算されていて、毎年、春分の日と秋分の日だけしか、この現象を見ることができないそうです。
残念ながら今年の春分の日は1週間前でした。
上の写真は戦士の神殿と呼ばれるところで、ここは生贄信仰の舞台になったところです。
現代のサッカーのような球技をし、勝ったチーム(あるいは負けたチームとも言われている)のキャプテンが生贄にささげられていたそうです。生贄の方法は非常に残酷(だと現代的感覚では思う)で生贄の両手両足を押さえつけ、執刀係の神官が黒曜石のナイフを持って、生贄の左あばら骨の隙間を切り開きます。もちろん生きたままです。開き口から手を入れて心臓を鷲づかみにして、ちぎり出し、写真の中央にある、横たわった人(名前は忘れましたが何かの神)のお腹の上にある皿に載せ、神々に奉げていたそうです。後期マヤ文明では(アステカでも)このような生贄が毎日のように行われ、生贄を確保するために、戦争を行うこともあったそうです。
伝承に残っているなかで最も大規模な生贄の儀式では数百という生贄が一度に奉げられ、ピラミッドが流れ落ちた人間の血で真っ赤になったこともあったそうです。
それもこれも2012年12月23日に消滅してしまうと言い伝えられてる第5の太陽の寿命を延ばすための神頼みだったそうです。
僕は現代の日本に生まれて、本当に良かったなと思いました。
マヤ文明を始めとするメソアメリカ文明の興味深いところは、文明の後退が見られる点です。
現代科学にも引けを取らないほどの高度な天文学を有していた文明が謎の消滅を遂げ、再び復活するということがいくつかあるのですが、復活後の文明はあきらかに前の文明が有していたほどの科学技術を持たず、未開の生活を営んでいたり、前述した血の生贄の儀に取り憑かれてしまっていたりします。
中央アメリカには不思議な歴史が残っています。
もう一度、中学生からやり直せるなら、考古学者になってみたいようなみたくないような、不思議な気持ちにさせられました。
2010年3月28日日曜日
Day58 CASA吉田
今、カンクンでいわゆる日本人宿と呼ばれる宿泊施設に泊まっています。
日本人宿と呼ばれているところにはどうやら2種類あるらしく、①いつのまにか日本人ばかりが宿泊するようになった結果的日本人宿と②最初から日本人しか宿泊できませんよとしている本質的日本人宿があるそうです。
今、僕が宿泊してるCASA吉田という日本人宿は後者で、日本人しか宿泊することができないところです。
今までずっと、Hostelbookers.comというユースホステルやホステル、安宿専門の宿泊予約サイトを利用して宿泊先を決めていたのですが、ここに来て、日本人宿に泊まってみようと思い立ちました。
理由はとりわけビーチリゾートにおける西洋人のはちゃめちゃなノリにちょっと付いていかれないと思ったからです。
ここカンクンの日本人宿でもいろいろな人に出会いました。
みんなそろいもそろって兵揃いで呆れてしまうほどです。
まず、アヤミさんという女性がいました。僕より2つ年下の女性なのですが、彼女は10代の時にイタリアに渡って3年間イタリア料理のレストランで働いていたそうです。その後、一度帰国して、ワーキングホリデーをしながら今は2年半程、一人で旅をしているそうです。僕より2つ年下ですが、かなりたくましい女性です。
同室にはヨーヘイ君と僕と同じ歳の男がいて、彼は今6週間くらい旅をしていて、これから南米に行くそうです。帰国はあと5ヵ月後くらいを予定しているけど、場合によっては帰国を先に延ばすかもしれないと言っていました。イタリア人の女の子とアルゼンチン人の女の子とどこかで知り合ったみたいで、一緒にビーチに行くと言って、ニヤニヤしながら毎朝出かけていきます。そんな男は死ねばいいのにって思います。彼は6週間旅行をしているだけで、かなりスペイン語が話せるようになっていて、ガイドブックの後ろの方に付いている簡単旅行会話集に載っているフレーズ程度なら、だいたいわかるそうです。実際にテストをしたのですが、ほとんど理解していました。しかも、この旅に来るまでスペイン語を勉強したことは一度もないそうです。おそるべし語学能力です。きっと旅を終えて日本に帰ってくるころにはスペイン語とポルトガル語がぺらぺらになってるんだと思います。
もう一人同室に坂元君という、これまた僕と同じ歳の男がいます。彼はちょっとした有名人です。彼は「世界の国からコンニチワ」というブログを書いているのですが、彼のこのブログは旅行ブログ村というサイトの世界一周部門で第3位になっているそうです。1日に5000アクセスくらいあるそうです。5000アクセスがどれくらいすごいかというのは、僕のブログについているアクセスカウンターを見てもらえればすぐにわかります。僕のブログのアクセスカウンターの数は一日分でなく累計分です。彼も僕と同じニート(でも僕は次の仕事があって未来は明るいけど、彼のは暗い)で、大学を卒業して、新卒採用で社会人になり3年で会社を辞め、旅に出るという典型的なダメ人間です。今まで8ヶ月旅行をしていて、これから南米を旅行して8月頃に帰国するそうです。
彼とはなかなか気が合って、明日一緒にチツェンイツァに小旅行に行くことになりました。
他にも夫婦で長い期間旅行をしている人や、女性一人で南米を3ヶ月旅行する人など、兵揃いです。なんだか日本人は何をするにも凝り性でストイックなんだなぁって思いました。
今まで泊まっていたユースホステルみたいなところで知り合った外国人にも長く旅行をしている人(イギリス人のマルコスとか)もいましたが、数週間程度の旅行者がほとんどでした。比べて日本人宿で出会った日本人旅行者は平均して、長期間の旅行をストイックにこなしている人が多いです。長く旅行をすればすごいっていう単純なものでもないとも思いますが、やはり長く旅行をするのは大変なことで、すごいことだと思います。
日本人は鮮魚の保存技術にしてもお茶やコーヒーの淹れ方にしても、どの国の人よりもこだわり、なんでもかんでも所謂○○道というレベルにまで持ち上げようとするように感じます。きっと歯の磨き方にしても日本人の磨き方はものすごいんじゃないかって思います。やっぱり日本は国民総ヲタク国家なんです。
ところで、「旅」と言うと、ちょっとストイックな感じがします。「旅行」と言うのとは少し違った印象を持つ言葉です。
これは「ハム人間」と「ハムの人」という言葉が持つ印象や意味が違うのと似ている気がします。「ハム人間」というのは悪魔の実の一つ「ハムハムの実」を食べた超能力人間で、触れた物をなんでもハムに変えてしまうという特殊能力を持っている人のことを言います。一方「ハムの人」というのはお歳暮に決まってハムも届けてくれる人、別所哲也のことを言います。「ハム人間」の方が「ハムの人」より凄まじく強そうです。
同じように「タビ」の方が「リョコウ」より凄まじく強そうな印象があります。辞書上は同じ意味を持つ言葉なのに、意味世界が大きく違うというのは不思議なもんだと思いますが、きっと映画や小説などを通じてそれぞれの言葉が持つ意味世界の住み分けが自然と出来上がったんでしょう。
カンクンの日本人宿で知り合った人々の話を聞いて、僕の旅行はやっぱり「旅行」だなと改めて思いました。いつか、「旅」に出掛けることができたらいいなぁと思います。まぁ同じくらい煩わしくも思うのですが…。
2010年3月27日土曜日
Day57 Joven Mundosの人々
メキシコシティーで滞在しているJoven Mundosというユースホステルは今まで滞在した世界中のユースホステルのなかで飛び抜けて良いホステルです。
まず宿泊費がドミトリーで1泊なんと12USD(約1050円)です。
しかも、2食付なのです!夕食もついて1泊12USDって、安すぎます。
朝食にはパンとシリアルだけでなく、スクランブルエッグやイタリアでいうところのブルスケッタのような温かい料理も出してくれるし、夕食は量こそ少なめですが、トルティーヤだとか、そういったメキシコ料理を出してくれます。
立地はソカロという歴史地区のど真ん中にある広場に面していて、部屋も、バスルームも、共有スペースも綺麗に掃除されています。セキュリティーもしっかりしていて、オートロックのカードキーが部屋と玄関に設置されていて、二重ロックになっているし、部屋の中にも一人一つずつの大きなロッカーがあります。ベッドもマットレスもかなりしっかりしていて快眠できました。シャワーも24時間、お湯がバッチリ出るし、水圧も充分でした。屋上にソカロを見渡せるテラスがあって、朝食と夕食はここで食べれます。日中、ぼーと本を読むのに最高の場所でした。
スタッフもみんな感じがよく、親切で、当初3泊の予定でいたのが、メキシコシティーが想像以上に面白かったのと、ホステルの居心地が良かったのとで結局6泊してしまいました。
そして、このホステルでいろいろな人と出会いました。
(全員分書いたので、かなり長くなります。)
まず、イギリス人のマルコス。
彼は40歳のイギリス人で、初日だけ僕は彼と同じ2段ベッドの上の段で寝たのですが、次の朝、僕が朝食を食べていると、ものすごい勢いで話しかけてきて「昨日は寝れたかい?眠りを邪魔しちゃったなんて事はないかな?」と言ってくるので、「大丈夫ですよ。こちらこそ上で動いちゃってうるさかったら申し訳ないなって思ってたんです。」と言うと「大丈夫、大丈夫。ところで隣のベッドの下の段が空いたから、そっちに移ってもらえない?ホテルの人には僕が言っておくから。」と言って、僕に違うベッドに移ってもらいたいみたいでした。僕も下の段の方が良かったので「良いですよ。」と言って、隣のベッドに移ることにしました。イギリス人にしてはかなりハイテンションで話しかけてくる人で、最初はちょっと苦手なタイプかもって思いました。
一日、観光して、夜、部屋に戻ると、マルコスがギターを弾きながら熱唱していました。同部屋の韓国人のヨンがそれを聞いて、拍手なんかしていたのですが、僕はちょっとだけ、やれやれって思いました。ギターは週に2、3回練習しているそうです。それでも歌唱力とギターの腕はかなりのものでした。自分で作った曲もあると言って、Traveling gameというタイトルの曲を聞かせてくれました。なかなかいい曲でした。彼が言うには、ずっと放浪しながら暮らしているそうで、イギリスにはあまり戻らず、旅先で仕事を見つけたり、時には路上でギターを弾いて、お金を稼いだりしていると言っていました。今はメキシコシティで英会話の先生をしていて、2ヶ月ほどこのホステルに滞在していると言っていました。メキシコ人の恋人もいるそうです。この後はもう5ヶ月ほどラテンアメリカの国々に滞在して、その後一旦帰国し、また旅行に出るそうです。イギリス人には珍しいタイプの人です。
一度、ホステルの屋上テラスで彼と一緒に夕食を食べ、コロナビールを飲んだのですが「いかに日本人とイギリス人は礼儀正しいか」ということについて話し合いました。彼はいままで各地で会った日本人のほとんどが礼儀正しいことに驚いているということ、僕はイギリスに留学した際に、イギリスでは間接話法と言われるフォーマルな表現(例えば道を尋ねる際に、How can I get to the cetre of London?と聞くのではなく、Could you tell me...とかWould you mind if I ask you...といった感じ)をするように教えられたことなどを話し合いました。いろんな国での体験やそこで会った人々のことなど、彼の話はなかなか面白いものでした。このころには最初の印象と違い、彼は他人のことを非常に気遣う、(ラテン化しているけれども)イギリス紳士だなという印象に変わっていました。
ある朝、彼が目を覚まして、先に起きてベッドの上でネットをしていた僕に話しかけてきたのですが「メキシコシティを離れなくちゃいけない。次に行かなくちゃいけない」と言い出しました。「なんで?」と尋ねると「それがなんでかはわからないんだ。でも行かなくちゃいけない。何かがそう僕に言うんだ。Something tells me I have to move.」と言い出しました。「恋人は?」と聞くと「そうなんだよ。彼女にはそのことは言い辛い。でも言わなくちゃ。」と言います。恋人と別れたくなったんじゃないかとも思ったのですが、そんな感じでもなく(それに別れたいなら別れたいって正直に言うだろう)不思議な人でした。ホステルの女の子達とも仲が良く(まぁ2ヶ月も滞在しているので)マルコスは格好良いとみんな言ってました。きっとこの人はどこの国に行っても、それなりにやってけるんだろうな、すごいなと思いました。最後にメールアドレスを交換したので、いつか日本で会うかも?です。
続いて、韓国人のヨン。
韓国人とはどこの国でも比較的仲良くなり易いです。やはり同じアジア人だということが一番の理由なのですが、他にも韓国人は(日本人もそうですが)あまり直接的な表現をせず、なにかと譲り合う習慣があるので(たとえ心の奥では反日であったとしても)気を使ってくれて仲良くなりやすいんだと思います。ちなみに日本人同士はなぜか仲良くなりにくいです。旅行先に来てまで日本人と話したくないと思っているのか、それとも単にシャイなのか。あとは日本語とそれが作り出す文化体系が仲良くなりにくい原因を作っているように思います。僕自身、英語で話している時の方が日本語で話している時よりもフレンドリーに振る舞い易く感じています。一度、マルコスと夕食を食べていたときに、日本人の女の子1人と香港人の女の子1人、メキシコ人の男の子1人と女の子1人のグループ(彼女はアメリカの大学に留学していて、そこでみんなと知り合ったらしい)が僕らの近くの席に座ったのですが、マルコスが「日本人?」と話しかけて、そこからその子達と少し話したのですが、日本人の彼女は僕が日本語で話しかけても、英語で話し返してきます。途中からは完全に日本語になったのですが、日本語のときはやけにぎこちなく、英語のときの方が、笑顔で感じが良い印象を受けました。
マルコスが「今、日本人が礼儀正しい(polite)だということについて話してたんだけど、君もそう思うでしょ?」とその子に聞くと「No.」と言いました。「なんで?みんな礼儀正しいじゃん?」と言うと、「日本人の男はジェントル(gentle)じゃない。アメリカ人はみんな優しい。」と言い出しました。おいおいちょっと待てよ!と思いましたが、僕はマルコスに「日本人の男だってもちろん女の子には優しいけど、表現の方法が違うんだ。いわゆるジェントルマンってのは日本的じゃないんだよ。でも最近は映画とかの影響で、西洋風なジェントルマンが人気なんだよ。」と日本人の男として一応の弁明をしておきました。そしてその女の子に「でも日本人の顔した男が日本国内でアメリカ人みたいに思いっきりジェントルに君の事を扱ったらどう?」と聞くと、「それはちょっと嫌かも。」と言っていました。女の子って難しいもんです。
話を戻して、ヨンはアメリカにある大学でマスターコースに通っているそうで、春休みでメキシコに遊びに来たそうです。僕より一足先にカンクンに行ってしまい、一足先にキューバに行くそうです。彼ともメールアドレスを交換したのですが、すでに韓国にはカン・キョンミンという親友(と向こうは言う)がいるので、ヨンとはそれほど仲良くなることはないと思います。国ごとに友人の定員数があるというのはおかしな話ですが、すでに友人がいる国の人とは(よほど意気投合しないかぎり)仲良くなりにくい気がします。だって韓国に3人も4人も友達がいたら、韓国に行く度にみんなに会わないといけないし、そのたびにスーツケース一杯の韓国海苔をお土産に持たされるわけですから。同様にイタリア人の友人も今後、よほどのことがない限り作らないような気がします。おかしな話ですが…。
次はアメリカ人のマカンジー。彼はバスでメキシコに入国し、バスでアメリカに帰るそうです。彼もギター弾きで、ギターを持って旅行することの良さを教えてくれました。ドミトリーの部屋とか、街中でギターを弾けば、いろんな人と仲良くなれると言っていました。確かに音楽に国境はありません。アメリカ人のゆとり世代なのかどうかはわかりませんが、(僕の勝手な)アメリカ人のイメージと違って、控えめで、日本人並みのコミュニケーション能力の男でした。どうやらスコットランド系の移民だそうで、彼の控えめな態度はかなり好印象でした。
もう一人、アメリカ人のおじさんがいたのですが、名前は忘れました。この人は60歳で、ひとりで旅行をしているそうです。すごく感じのいいおじさんで、「南部にあるプエルト・エスコンディートという漁村で釣りをしてきたんだ。船に乗って、ロッドも餌も全部込みで1日たったの60ドルで釣りが出来るんだよ。マグロを3匹釣って、カジキもヒットしたんだけど、バラしちゃったよ。」と嬉しそうに教えてくれました。僕に今後の予定を聞くので「カンクンに行って、キューバに行きます。」と言ったら「キューバ、お前さん、あんな危険な国に行くのか?」と言っていました。アメリカ人にとってキューバはやはり敵国なようです。
あと、バスク(ってフランス?スペイン?)のおっさんもいましたが名前は忘れました。この人はスペイン語しか話せないのですが、なんとかイタリア語とスペイン語で話をしていたら「俺はスペイン人じゃない!バスク人だ。」と言われました。きっとバスク地方の人達はブルターニュ地方の人達のように、民族意識がめちゃめちゃ強いんだなと感じさせられました。
あとアルゼンチン人のパブロ。
彼は僕がメキシコシティーを離れる前日の夜に来たので、あまり話はしなかったのですが、僕がキューバに行くと言うと、ちょうどキューバから来たところだから、キューバでお世話になったキューバ人の家を紹介してあげるよと言って、そこの住所と電話番号を教えてくれました。民泊的なことをやっているそうです。流石はラテンアメリカ人だけあって、彼は誰とでもすぐに仲良くなる上に、相手の肩や背中をやたらぽんぽん叩きながら話をします。ああいう人間が部屋に一人いると、みんなすぐに打ち解けられるんだなといった感じでした。将来日本に行くときのために、メールアドレスと電話番号を教えてくれと言うので、お互いに連絡先を交換しました。Facebookもやっているそうで、そっちでもコンタクトするよ。と言っていました。親切で良い人でした。
最後はフランス人のジュリアン。
この人もと同じタイミングでホテルに来たのですが、僕がチェックアウトする日の朝食を一緒に食べました。彼はパリに住んでいて、コンピューターのエンジニアをしていたのだけど、会社をクビになって時間が出来たので、旅行に来たと言っていました。「僕も、まぁクビになったわけじゃないけど、仕事を≪自ら≫辞めて、旅行に来てるんだ」と言っておきました。僕は大のパリとフランス料理好きなので、パリトークで盛り上がりました。彼もまた日本に大変興味があるみたいで、桜の季節に日本に行きたいと言っていました。フランスでは日本を特集するドキュメンタリー番組が人気で、多くのフランス人が日本文化(伝統文化からオタク文化まで)に興味を持っているそうです。「もしまたパリに来ることがあったら連絡してくれたら、It's my pleasureだ。」と言ってました。僕も日本に来たら花見に連れてってあげるよ。と言って連絡先を交換しました。
あとユースホステルで働いてる女の子達もみんな親切で良い人たちばかりでした。
メキシコにはどうやら気さくな空気が流れていて、みんな簡単に友達になれるみたいです。
ヨーロッパのホステルではもう少し人々はけん制しあっていたように思います。
いろいろな国の人と出会えるのって、やっぱり楽しいです。
日本にいるとき、僕は人見知りでひきこもり、低社会適応能力者だけど、外国でたまには羽を伸ばすのって面白いです。
さすがはメキシコ!ラテンの国!
まず宿泊費がドミトリーで1泊なんと12USD(約1050円)です。
しかも、2食付なのです!夕食もついて1泊12USDって、安すぎます。
朝食にはパンとシリアルだけでなく、スクランブルエッグやイタリアでいうところのブルスケッタのような温かい料理も出してくれるし、夕食は量こそ少なめですが、トルティーヤだとか、そういったメキシコ料理を出してくれます。
立地はソカロという歴史地区のど真ん中にある広場に面していて、部屋も、バスルームも、共有スペースも綺麗に掃除されています。セキュリティーもしっかりしていて、オートロックのカードキーが部屋と玄関に設置されていて、二重ロックになっているし、部屋の中にも一人一つずつの大きなロッカーがあります。ベッドもマットレスもかなりしっかりしていて快眠できました。シャワーも24時間、お湯がバッチリ出るし、水圧も充分でした。屋上にソカロを見渡せるテラスがあって、朝食と夕食はここで食べれます。日中、ぼーと本を読むのに最高の場所でした。
スタッフもみんな感じがよく、親切で、当初3泊の予定でいたのが、メキシコシティーが想像以上に面白かったのと、ホステルの居心地が良かったのとで結局6泊してしまいました。
そして、このホステルでいろいろな人と出会いました。
(全員分書いたので、かなり長くなります。)
まず、イギリス人のマルコス。
彼は40歳のイギリス人で、初日だけ僕は彼と同じ2段ベッドの上の段で寝たのですが、次の朝、僕が朝食を食べていると、ものすごい勢いで話しかけてきて「昨日は寝れたかい?眠りを邪魔しちゃったなんて事はないかな?」と言ってくるので、「大丈夫ですよ。こちらこそ上で動いちゃってうるさかったら申し訳ないなって思ってたんです。」と言うと「大丈夫、大丈夫。ところで隣のベッドの下の段が空いたから、そっちに移ってもらえない?ホテルの人には僕が言っておくから。」と言って、僕に違うベッドに移ってもらいたいみたいでした。僕も下の段の方が良かったので「良いですよ。」と言って、隣のベッドに移ることにしました。イギリス人にしてはかなりハイテンションで話しかけてくる人で、最初はちょっと苦手なタイプかもって思いました。
一日、観光して、夜、部屋に戻ると、マルコスがギターを弾きながら熱唱していました。同部屋の韓国人のヨンがそれを聞いて、拍手なんかしていたのですが、僕はちょっとだけ、やれやれって思いました。ギターは週に2、3回練習しているそうです。それでも歌唱力とギターの腕はかなりのものでした。自分で作った曲もあると言って、Traveling gameというタイトルの曲を聞かせてくれました。なかなかいい曲でした。彼が言うには、ずっと放浪しながら暮らしているそうで、イギリスにはあまり戻らず、旅先で仕事を見つけたり、時には路上でギターを弾いて、お金を稼いだりしていると言っていました。今はメキシコシティで英会話の先生をしていて、2ヶ月ほどこのホステルに滞在していると言っていました。メキシコ人の恋人もいるそうです。この後はもう5ヶ月ほどラテンアメリカの国々に滞在して、その後一旦帰国し、また旅行に出るそうです。イギリス人には珍しいタイプの人です。
一度、ホステルの屋上テラスで彼と一緒に夕食を食べ、コロナビールを飲んだのですが「いかに日本人とイギリス人は礼儀正しいか」ということについて話し合いました。彼はいままで各地で会った日本人のほとんどが礼儀正しいことに驚いているということ、僕はイギリスに留学した際に、イギリスでは間接話法と言われるフォーマルな表現(例えば道を尋ねる際に、How can I get to the cetre of London?と聞くのではなく、Could you tell me...とかWould you mind if I ask you...といった感じ)をするように教えられたことなどを話し合いました。いろんな国での体験やそこで会った人々のことなど、彼の話はなかなか面白いものでした。このころには最初の印象と違い、彼は他人のことを非常に気遣う、(ラテン化しているけれども)イギリス紳士だなという印象に変わっていました。
ある朝、彼が目を覚まして、先に起きてベッドの上でネットをしていた僕に話しかけてきたのですが「メキシコシティを離れなくちゃいけない。次に行かなくちゃいけない」と言い出しました。「なんで?」と尋ねると「それがなんでかはわからないんだ。でも行かなくちゃいけない。何かがそう僕に言うんだ。Something tells me I have to move.」と言い出しました。「恋人は?」と聞くと「そうなんだよ。彼女にはそのことは言い辛い。でも言わなくちゃ。」と言います。恋人と別れたくなったんじゃないかとも思ったのですが、そんな感じでもなく(それに別れたいなら別れたいって正直に言うだろう)不思議な人でした。ホステルの女の子達とも仲が良く(まぁ2ヶ月も滞在しているので)マルコスは格好良いとみんな言ってました。きっとこの人はどこの国に行っても、それなりにやってけるんだろうな、すごいなと思いました。最後にメールアドレスを交換したので、いつか日本で会うかも?です。
続いて、韓国人のヨン。
韓国人とはどこの国でも比較的仲良くなり易いです。やはり同じアジア人だということが一番の理由なのですが、他にも韓国人は(日本人もそうですが)あまり直接的な表現をせず、なにかと譲り合う習慣があるので(たとえ心の奥では反日であったとしても)気を使ってくれて仲良くなりやすいんだと思います。ちなみに日本人同士はなぜか仲良くなりにくいです。旅行先に来てまで日本人と話したくないと思っているのか、それとも単にシャイなのか。あとは日本語とそれが作り出す文化体系が仲良くなりにくい原因を作っているように思います。僕自身、英語で話している時の方が日本語で話している時よりもフレンドリーに振る舞い易く感じています。一度、マルコスと夕食を食べていたときに、日本人の女の子1人と香港人の女の子1人、メキシコ人の男の子1人と女の子1人のグループ(彼女はアメリカの大学に留学していて、そこでみんなと知り合ったらしい)が僕らの近くの席に座ったのですが、マルコスが「日本人?」と話しかけて、そこからその子達と少し話したのですが、日本人の彼女は僕が日本語で話しかけても、英語で話し返してきます。途中からは完全に日本語になったのですが、日本語のときはやけにぎこちなく、英語のときの方が、笑顔で感じが良い印象を受けました。
マルコスが「今、日本人が礼儀正しい(polite)だということについて話してたんだけど、君もそう思うでしょ?」とその子に聞くと「No.」と言いました。「なんで?みんな礼儀正しいじゃん?」と言うと、「日本人の男はジェントル(gentle)じゃない。アメリカ人はみんな優しい。」と言い出しました。おいおいちょっと待てよ!と思いましたが、僕はマルコスに「日本人の男だってもちろん女の子には優しいけど、表現の方法が違うんだ。いわゆるジェントルマンってのは日本的じゃないんだよ。でも最近は映画とかの影響で、西洋風なジェントルマンが人気なんだよ。」と日本人の男として一応の弁明をしておきました。そしてその女の子に「でも日本人の顔した男が日本国内でアメリカ人みたいに思いっきりジェントルに君の事を扱ったらどう?」と聞くと、「それはちょっと嫌かも。」と言っていました。女の子って難しいもんです。
話を戻して、ヨンはアメリカにある大学でマスターコースに通っているそうで、春休みでメキシコに遊びに来たそうです。僕より一足先にカンクンに行ってしまい、一足先にキューバに行くそうです。彼ともメールアドレスを交換したのですが、すでに韓国にはカン・キョンミンという親友(と向こうは言う)がいるので、ヨンとはそれほど仲良くなることはないと思います。国ごとに友人の定員数があるというのはおかしな話ですが、すでに友人がいる国の人とは(よほど意気投合しないかぎり)仲良くなりにくい気がします。だって韓国に3人も4人も友達がいたら、韓国に行く度にみんなに会わないといけないし、そのたびにスーツケース一杯の韓国海苔をお土産に持たされるわけですから。同様にイタリア人の友人も今後、よほどのことがない限り作らないような気がします。おかしな話ですが…。
次はアメリカ人のマカンジー。彼はバスでメキシコに入国し、バスでアメリカに帰るそうです。彼もギター弾きで、ギターを持って旅行することの良さを教えてくれました。ドミトリーの部屋とか、街中でギターを弾けば、いろんな人と仲良くなれると言っていました。確かに音楽に国境はありません。アメリカ人のゆとり世代なのかどうかはわかりませんが、(僕の勝手な)アメリカ人のイメージと違って、控えめで、日本人並みのコミュニケーション能力の男でした。どうやらスコットランド系の移民だそうで、彼の控えめな態度はかなり好印象でした。
もう一人、アメリカ人のおじさんがいたのですが、名前は忘れました。この人は60歳で、ひとりで旅行をしているそうです。すごく感じのいいおじさんで、「南部にあるプエルト・エスコンディートという漁村で釣りをしてきたんだ。船に乗って、ロッドも餌も全部込みで1日たったの60ドルで釣りが出来るんだよ。マグロを3匹釣って、カジキもヒットしたんだけど、バラしちゃったよ。」と嬉しそうに教えてくれました。僕に今後の予定を聞くので「カンクンに行って、キューバに行きます。」と言ったら「キューバ、お前さん、あんな危険な国に行くのか?」と言っていました。アメリカ人にとってキューバはやはり敵国なようです。
あと、バスク(ってフランス?スペイン?)のおっさんもいましたが名前は忘れました。この人はスペイン語しか話せないのですが、なんとかイタリア語とスペイン語で話をしていたら「俺はスペイン人じゃない!バスク人だ。」と言われました。きっとバスク地方の人達はブルターニュ地方の人達のように、民族意識がめちゃめちゃ強いんだなと感じさせられました。
あとアルゼンチン人のパブロ。
彼は僕がメキシコシティーを離れる前日の夜に来たので、あまり話はしなかったのですが、僕がキューバに行くと言うと、ちょうどキューバから来たところだから、キューバでお世話になったキューバ人の家を紹介してあげるよと言って、そこの住所と電話番号を教えてくれました。民泊的なことをやっているそうです。流石はラテンアメリカ人だけあって、彼は誰とでもすぐに仲良くなる上に、相手の肩や背中をやたらぽんぽん叩きながら話をします。ああいう人間が部屋に一人いると、みんなすぐに打ち解けられるんだなといった感じでした。将来日本に行くときのために、メールアドレスと電話番号を教えてくれと言うので、お互いに連絡先を交換しました。Facebookもやっているそうで、そっちでもコンタクトするよ。と言っていました。親切で良い人でした。
最後はフランス人のジュリアン。
この人もと同じタイミングでホテルに来たのですが、僕がチェックアウトする日の朝食を一緒に食べました。彼はパリに住んでいて、コンピューターのエンジニアをしていたのだけど、会社をクビになって時間が出来たので、旅行に来たと言っていました。「僕も、まぁクビになったわけじゃないけど、仕事を≪自ら≫辞めて、旅行に来てるんだ」と言っておきました。僕は大のパリとフランス料理好きなので、パリトークで盛り上がりました。彼もまた日本に大変興味があるみたいで、桜の季節に日本に行きたいと言っていました。フランスでは日本を特集するドキュメンタリー番組が人気で、多くのフランス人が日本文化(伝統文化からオタク文化まで)に興味を持っているそうです。「もしまたパリに来ることがあったら連絡してくれたら、It's my pleasureだ。」と言ってました。僕も日本に来たら花見に連れてってあげるよ。と言って連絡先を交換しました。
あとユースホステルで働いてる女の子達もみんな親切で良い人たちばかりでした。
メキシコにはどうやら気さくな空気が流れていて、みんな簡単に友達になれるみたいです。
ヨーロッパのホステルではもう少し人々はけん制しあっていたように思います。
いろいろな国の人と出会えるのって、やっぱり楽しいです。
日本にいるとき、僕は人見知りでひきこもり、低社会適応能力者だけど、外国でたまには羽を伸ばすのって面白いです。
さすがはメキシコ!ラテンの国!
Day56 ティオティワカン
ティオティワカンは紀元前2世紀ごろから紀元8世紀ごろまで、現在のメキシコシティーから北部へ50Kmほど離れたところで栄えていた古代文明です。
最盛期の5世紀から6世紀ごろにかけては人口20万人を超える世界一の大都市でもありました。
これほどの都市・文明がなぜこの中央アメリカにあったのか、彼らがどこからやってきて、なぜ突然、消滅してしまったのかといったことに関しては、いまだに多くの謎が残されていて、地球上にいくつかある太古のロマンの一つになっています。
その昔、ティオティワカンにはケツァルコアトルと呼ばれる蛇に象徴される神がいました。
また、ケツァルコアルトルは白い顔に長 いあご髭を蓄えた男性であったという伝承も多く残されています。
ティオティワカンのあまりにも壮大な街と圧倒的なピラミッド建造物を前に、このケツァルコアルトルと呼ばれる白人男性がはるか昔にあった(例えばアトランティスのような)超古代文明の出身者で、海を越えてこの地へやってきて、ティオティワカンの原住民達に文明を与え、文化を育んだのではないか、という説を唱える人もいるようです。
例えば、エジプトやメソポタミアに伝わる神話と、当時まったく交流が無かったはずの中南米に伝わる神話があらゆる点で酷似しているなど、超古代文明出身の第三者がこれらの地に別々に赴いて、それぞれに文明を与えたという説を肯定できる要素がいくつもあるそうです。
まぁ神話研究というものに対しては、こういった第三者説の他に、普遍的無意識によって神話の構造やシンボルは似通ったものになるという有力なユングの神話研究などもあるのですが。
今日はそんな古代ロマン溢れる、ティオティワカンに行ってきました。
でも、ティオティワカンに溢れていたのは古代ロマンではなく、地元メキシカン小学生の修学旅行生達でした。
面白いことに、メキシコ人の修学旅行生達はそろいもそろって弓矢(のおもちゃ)を買っていました。日本の修学旅行生が京都で木刀を買うのとまったく同じ行動です。
このことを考えると、やはり普遍的無意識を提唱しているユングの神話研究に歩があるのでしょうか。
そんな子供達にカメラを向けると、みんな笑顔で撮影に応じてくれました。
さらに、僕を取り囲むように集まってきて「どこから来たの?何人?」と聞いてきます。「日本人だよ。」と言うと「東京?東京?」と聞いてきて「東京じゃないんだ。」と言っても「東京でしょ?東京でしょ?」としつこく言ってくるので最後には「うん東京だよ」と言ってしまいました。東京だと言うと、なぜかみんな満足そうに「あぁ、この人は東京の人だ。東京の人だ。」と言い合っていました。メキシコの小学生は日本と言っても東京しか知らないみたいでした。
メキシコの小学生達はすれているところがなくて、みんな良い子ばかりでした。日本でたまに見かけるクソガキみたいな子はメキシコには一人もいませんでした。
今日はティオティワカンの歴史とメキシコの未来を感じた一日でした。
2010年3月26日金曜日
Day55 メキシカンアート
メキシコ国立美術館に行ってきました。
メキシコの芸術には、メキシコ革命以前と以後とで大きな違いが見られます。
革命以前の作品はヨーロッパ的な宗教画や風景画が多く、宗教界がにはスペイン絵画の特徴が、風景画にはフランス写実主義やオランダ黄金期などの特徴がよく見られます。ヨーロッパの美術館でみる絵画と大して変わらないなというのが印象でした。
一方、革命以降の作品(1920年頃以降)はメキシコ独自のアイデンティティを絵画の中に見出そうとする姿勢がよく見られました。
描写のタッチこそ西洋の手法を用いているのですが、書かれているモチーフや色使いが中米的な印象を与えています。やはり西洋絵画をベースにしている作品がほとんどを占めている様子で、ゴーギャン的なタッチの作品やキュビズムを取り入れた作品、僕が敬愛しているシャガール先生(この人はぶっ飛んでいます)の作風を思わせるような作品が展示されていました。
※ここに思いっきり作品の写真を載せるのは気が引けるので、興味がある人はウェブアルバム「MexicoCity2010」を見てみてください。
革命以降のメキシコの画家として有名なのは、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラ、シケイロス、ルフィーノ・タマヨなどです。ちなみにフリーダ・カーロとディエゴ・リベラは夫婦だったそうです。ウェブアルバムにある画面手前に朽ちた舟が描かれている作品の空の描き方がすごくいいなと思いました。ディエゴ・リベラの作品です。骸骨人間がキュビズムのタッチで描かれている作品はルフィーノ・タマヨの作品です。ちなみにタマヨはタマヨでも男です。
また、これらの革命時代のメキシコの画家達はメキシコ壁画運動の画家としても有名です。1920年代から30年代にかけてメキシコではメキシコ人のアイデンティティについて考える文化運動のようなものが起こりました。当時はまだまだ識字率が低かったため、字の読めない庶民でもメキシコの歴史を理解できるよう、また一部の特権階級だけでなく、誰もが目にすることができるように、公共建造物の壁が画家達に解放されました。
メキシコには古代からこの地に住み着いていたメソアメリカのインディアンと、侵略者のスペイン人、そしてスペイン人が連れてきた黒人奴隷の血が混ざり合って今のメキシコ人と呼ばれてる人達が形成されているので、彼らのアイデンティティはなんなのか、どこにアイデンティティを見出すべきなのか、ということが非常に難しい問題となっています。ティオティワカンやマヤ、アステカなどのインディアン文化を大切にするべきか、スペインによって持ち込まれたヨーロッパ的な文化を大切にするべきか、黒人奴隷と一緒に入ってきたアフリカの文化を大切にするべきか、大きな葛藤があったようです。侵略者のスペインを否定しようとしても、すでに自分の体の中にもスペインのDNAが混ざっているし、かといってインディアンの文化を捨てることもできず、当時のメキシコ人達はきっと苦しんだんじゃないかと思います。でも現代のメキシコ人は歴史は歴史として受け入れているらしく、スペインのことを毛嫌いしているわけでもなく、インディアンの誇りを失うわけでもなく、みんな穏やかに暮らしているような印象を持ちました。
ディエゴ・リベラはこのメキシコ壁画運動でもっとも成功した画家で、ニューヨークでも個展を開いたり、デトロイト美術館に壁画を提供したりと海外でも注目を集めた画家でした。メキシコシティ市内にはディエゴ・リベラ壁画館があり、ここに展示されている「アラメダ公園の日曜の午後の夢」という作品は非常に見ごたえのある作品でした。壁画の前にピアノが置かれていて(演奏はありませんでしたが)、壁画を一望できる場所にソファが設置されていて、座りながらのんびりこの巨大な壁画を鑑賞することができます。ここはオススメです。
ソカロと呼ばれる旧市街の中心地にある王宮の中の壁面にも巨大な壁画が描かれていて、メキシコの歴史や文化について説明しています。
メキシコのアートには単にお金持ちの道楽だとか、新しいアートの探求といった理由だけでなく、メキシコ人の民族アイデンティティの探求と復興を目的としたものが多く、そういう側面を意識しながら眺めると非常に奥深いものでした。
メキシコ、思ってた以上にかなり面白いです。
Day54 メソアメリカ文明
マヤ、インカ、アステカ文明などの中米から南米にかけての古代文明を総称してメソアメリカ文明と呼びます。
メソアメリカ文明で最も有名なのはマヤ文明、インカ文明、アステカ文明の3つの文明ですが、そのほかにもティオティワカン文明、オルメカ文明、トルテカ文明といった、いくつかの文明も含まれます。
これらの文明についてはいまだに不明な部分が多く、例えば紀元前2世紀頃から起源8世紀頃まで存在したティオティワカン文明は最盛期の5、6世紀ごろには20万人が住む世界最大の都市(ヨーロッパでは当時2万人を越える都市はコンスタンティノーブルだけ)であったのに、8世紀頃にはなぜか消滅してしまい、しかもティオティワカンの人達はどこからやってきて、どこに行ってしまったのか、未だによくわかっていないそうです。その後アステカ人達がその地にやってきて、ティオティワカン時代に建造されたピラミッドや神話を引き継いで、その地に住み、アステカ文明を作ったそうです。
メソアメリカ文明はいくつかの大小様々な文明の総称のため、簡単にはまとめられないのですが、特徴を列挙すると、例えば
農耕民文化
ピラミッド信仰
生け贄信仰
多神教
高度な天文学・数学技術
などがあります。
当時のメソアメリカ文明の人々は高度な天文学や数学の技術を用いて、正確な暦を作り、暦に則って農業を営み、また巨大なピラミッド建造物を造り、生け贄を奉げながら神々を崇めたそうです。
また、ヨーロッパ、アジア、アフリカから完全に隔離された地で発展した文明のため、きわめて独自の文化が形成されているそうです。
その独自で高度な(また不可解な)文明のため、宇宙人がやってきて、この地に文明を残していった説が未だにささやかれています。
今日はそんなメソアメリカ文明研究がまとめられているメキシコ国立人類学博物館に行ってきました。
でも日本語の音声ガイドの貸し出しが無かったので、良くわかりませんでした。結局あとでwikipediaでいろいろ調べる羽目になってしまいました。
なので、メキシコ国立人類学博物館に展示されている展示品の中で有名なもの、特徴的なものを紹介して終わりたいと思います。
まずは、アステカ文明の雨の神チャルチウィトリクエの像。
これはティオティワカン遺跡にある月のピラミッドの前に置かれていたものを、国立人類学博物館に運び、保存しているそうです。これはレプリカではなく、本物だそうです。
チャルチウィトリクエは現在の前の時代(っていつだ?)を大洪水で滅ぼし、当時の人間達を全て魚に変えてしまったが、この洪水の結果、大地が潤い、肥沃になって新しい時代の命をはぐくんだそうです。
つづいて、ティオティワカンにあるケツァルコアトル神殿のレプリカです。
ケツァルコアトルはティオティワカンやアステカの神々の一つで一般に羽毛の生えた蛇をかたどり、水と農耕の神として崇められていました。また時には白い顔の人として地上に現れたとも考えられており、1519年にスペインのエルナン・コルテスの軍が攻め込んできたとき、アステカの人々は当初、スペイン人達をケツァルコアトルの化身がやってきたと勘違いしてしまい、対応を遅らせてしまったともいわれているそうです。1519年は奇しくもアステカカレンダーで1世紀にあたる52年の最後の年、一の葦の年だったそうです。
最後はアステカンカレンダーです。
当時、高い天文学の知識と数学の知識を持っていたアステカの人々は1年を365日に分ける太陽の暦と1年を260日に分ける月の暦を使い分け、農耕を営んだり、生け贄を伴う祭事を行っていたそうです。このカレンダーには5つの太陽伝説が刻まれているそうです。すでに4番目までの太陽は消滅していて、現代は5番目(最期)の太陽の時代だそうです。最近テレビなどで取り上げられている、2012年世界消滅説も、この5番目の太陽の寿命が西洋暦の2012年で終わることになっているから、だそうです。
でも、メキシコ人は誰もそんなこと信じていなさそうでした。
中南米には当時のメソアメリカ文明を感じさせる、独特の文化がいまだに残っているようです。
僕は別段、考古学マニアではないのですが、なんだか胸がわくわくするような心躍る感覚を覚えました。
明日か明後日はティオティワカン遺跡に行ってこようと思います。
おまけ:ジョジョの石仮面?by 荒木先生?
メソアメリカ文明で最も有名なのはマヤ文明、インカ文明、アステカ文明の3つの文明ですが、そのほかにもティオティワカン文明、オルメカ文明、トルテカ文明といった、いくつかの文明も含まれます。
これらの文明についてはいまだに不明な部分が多く、例えば紀元前2世紀頃から起源8世紀頃まで存在したティオティワカン文明は最盛期の5、6世紀ごろには20万人が住む世界最大の都市(ヨーロッパでは当時2万人を越える都市はコンスタンティノーブルだけ)であったのに、8世紀頃にはなぜか消滅してしまい、しかもティオティワカンの人達はどこからやってきて、どこに行ってしまったのか、未だによくわかっていないそうです。その後アステカ人達がその地にやってきて、ティオティワカン時代に建造されたピラミッドや神話を引き継いで、その地に住み、アステカ文明を作ったそうです。
メソアメリカ文明はいくつかの大小様々な文明の総称のため、簡単にはまとめられないのですが、特徴を列挙すると、例えば
農耕民文化
ピラミッド信仰
生け贄信仰
多神教
高度な天文学・数学技術
などがあります。
当時のメソアメリカ文明の人々は高度な天文学や数学の技術を用いて、正確な暦を作り、暦に則って農業を営み、また巨大なピラミッド建造物を造り、生け贄を奉げながら神々を崇めたそうです。
また、ヨーロッパ、アジア、アフリカから完全に隔離された地で発展した文明のため、きわめて独自の文化が形成されているそうです。
その独自で高度な(また不可解な)文明のため、宇宙人がやってきて、この地に文明を残していった説が未だにささやかれています。
今日はそんなメソアメリカ文明研究がまとめられているメキシコ国立人類学博物館に行ってきました。
でも日本語の音声ガイドの貸し出しが無かったので、良くわかりませんでした。結局あとでwikipediaでいろいろ調べる羽目になってしまいました。
なので、メキシコ国立人類学博物館に展示されている展示品の中で有名なもの、特徴的なものを紹介して終わりたいと思います。
まずは、アステカ文明の雨の神チャルチウィトリクエの像。
これはティオティワカン遺跡にある月のピラミッドの前に置かれていたものを、国立人類学博物館に運び、保存しているそうです。これはレプリカではなく、本物だそうです。
チャルチウィトリクエは現在の前の時代(っていつだ?)を大洪水で滅ぼし、当時の人間達を全て魚に変えてしまったが、この洪水の結果、大地が潤い、肥沃になって新しい時代の命をはぐくんだそうです。
つづいて、ティオティワカンにあるケツァルコアトル神殿のレプリカです。
ケツァルコアトルはティオティワカンやアステカの神々の一つで一般に羽毛の生えた蛇をかたどり、水と農耕の神として崇められていました。また時には白い顔の人として地上に現れたとも考えられており、1519年にスペインのエルナン・コルテスの軍が攻め込んできたとき、アステカの人々は当初、スペイン人達をケツァルコアトルの化身がやってきたと勘違いしてしまい、対応を遅らせてしまったともいわれているそうです。1519年は奇しくもアステカカレンダーで1世紀にあたる52年の最後の年、一の葦の年だったそうです。
最後はアステカンカレンダーです。
当時、高い天文学の知識と数学の知識を持っていたアステカの人々は1年を365日に分ける太陽の暦と1年を260日に分ける月の暦を使い分け、農耕を営んだり、生け贄を伴う祭事を行っていたそうです。このカレンダーには5つの太陽伝説が刻まれているそうです。すでに4番目までの太陽は消滅していて、現代は5番目(最期)の太陽の時代だそうです。最近テレビなどで取り上げられている、2012年世界消滅説も、この5番目の太陽の寿命が西洋暦の2012年で終わることになっているから、だそうです。
でも、メキシコ人は誰もそんなこと信じていなさそうでした。
中南米には当時のメソアメリカ文明を感じさせる、独特の文化がいまだに残っているようです。
僕は別段、考古学マニアではないのですが、なんだか胸がわくわくするような心躍る感覚を覚えました。
明日か明後日はティオティワカン遺跡に行ってこようと思います。
おまけ:ジョジョの石仮面?by 荒木先生?
2010年3月23日火曜日
Day53 日曜日のメキシコシティ
今日は日曜日でした。
メキシコ人にとっても日曜日は家族サービスをする日だそうで、街には大勢の人が溢れ、ストリートパフォーマーやアステカンダンサー、露天商などがいたるところにいました。
まず驚かされたことは親が子を、まるで犬の散歩でもするかのように腰に紐を縛って連れ歩いてることです。つい笑ってしまいました。
今日はチェプルテペック公園というところに行って、そんなメキシコ人達の様子をぼーと眺めていたり、持ってきた本を読んだり、ネットで調べたメキシコの歴史や文化についての記事を読んだりして、ただただだらだら過ごしていました。
ずーっと旅行をしている僕にとって、曜日なんて関係ない(毎日が日曜日です)のですが、今日は日曜日だということで、一応僕も日曜日らしく、だらだらすることにしたのです。
日曜日のメキシコシティはすごく活気があって、面白く、人々を眺めているだけでも飽きることが無く、あっという間に日が暮れてしまいました。
だらだらしていただけなので、取り立てて書くこともなく、困っています。
こんなアステカンダンサーや
こんな感じの露天商を冷やかしたりしていました。
あと、国立人類学博物館にも行ったのですが、日本語のオーディオガイドが無かったので、また勉強できていません。ちゃんと調べて、次の日記で書きたいと思います。
メキシコ人にとっても日曜日は家族サービスをする日だそうで、街には大勢の人が溢れ、ストリートパフォーマーやアステカンダンサー、露天商などがいたるところにいました。
まず驚かされたことは親が子を、まるで犬の散歩でもするかのように腰に紐を縛って連れ歩いてることです。つい笑ってしまいました。
今日はチェプルテペック公園というところに行って、そんなメキシコ人達の様子をぼーと眺めていたり、持ってきた本を読んだり、ネットで調べたメキシコの歴史や文化についての記事を読んだりして、ただただだらだら過ごしていました。
ずーっと旅行をしている僕にとって、曜日なんて関係ない(毎日が日曜日です)のですが、今日は日曜日だということで、一応僕も日曜日らしく、だらだらすることにしたのです。
日曜日のメキシコシティはすごく活気があって、面白く、人々を眺めているだけでも飽きることが無く、あっという間に日が暮れてしまいました。
だらだらしていただけなので、取り立てて書くこともなく、困っています。
こんなアステカンダンサーや
こんな感じの露天商を冷やかしたりしていました。
あと、国立人類学博物館にも行ったのですが、日本語のオーディオガイドが無かったので、また勉強できていません。ちゃんと調べて、次の日記で書きたいと思います。
Day52 Incredible Mexico!!
朝5時にホテルを出発し、ニューヨークJFK国際空港に7時に到着し、9時の飛行機に乗って、、メキシコシティーに12時半に到着しました。ニューヨークとメキシコの時差は-2時間です。朝から大変でした。
余談ですが、ジョン・F・ケネディー国際空港という名前の響きは世界に数ある空港の中でも屈指の格好良さだと思います。パリのシャルル・ド・ゴール国際空港、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ(フィウミチーノ)国際空港なんかと肩を並べる響きです。日本の成田国際空港、関西国際空港、中部国際空港(セントレア)とは比較にもなりません。あと僕の地元静岡県が誇る富士山静岡空港はなかなか格好良い名前だと思います。まぁ名と実があまりにもかけ離れていて、かわいそうに思える空港ですが…。
話を元に戻して、前の会社にメキシコから帰ってきた同僚がいて、今回は彼のメキシコの友人(日本人)の方にいろいろお世話になります。
夜、食事やバーに連れて行ってもらったり、メキシコ&キューバ滞在中の計画のアドバイスをもらおうと思っています。
メキシコ到着前に、到着便とホテルをその元同僚から友人の方に伝えてもらっていたのですが、なんと!大変親切なことに空港まで迎えにきてくれました。ありがとうございます。
空港で無事に合流し、タクシーに乗って、一度ホテルまで行き、チェックインをして、簡単に昼食を食べた後、市内を少し案内してくださり、その後もう一人別の友人も合流して、3人でビルの屋上にある洒落たカフェでお茶をしました。
メキシコシティーの中心部(特に歴史地区と呼ばれるエリア)を案内してもらったのですが、メキシコって僕が持っていた印象と少し違いました。メキシコシティーの人口は700万人程度なのですが、700万という数字を思うと、大都会のような感じがするのですが、あまり高いビルも無く(歴史地区だからかもしれませんが)そんなに大きな街のような感じがしませんでした。というよりも都会的ではないと言った感じです。
人々も、もっとラテン系で情熱的でアグレッシブ(攻撃的というか積極的というか…)な感じなのかと思っていたのですが、どちらかというと大人しく、控えめで素朴で親切な感じがしました。
心配していた治安も(夜遅く人通りが少ない道は別ですが)そんなに恐いなという印象ではありません。地下鉄に乗っても目つきの悪そうな人達ってあまり見ませんでした。
そして何よりメキシコ人は思っていたよりも背が小さく、どことなくアジア人とも顔つきが似ているので、親近感が沸きました。笑 なかなか楽しそうな街です。
夕方からコーヒーを飲み始めたのですが、あたりが暗くなってきた時、事件が起きました!!
西の空に不自然な動きをする光の物体が現れたのです。ご存知の通り、メキシコはUFOの目撃が世界でも一、ニに多いところです。まさか来て初日に未知との遭遇をするなんて、僕はラッキーなのか?不幸なのか?(とりあえず今夜はホテルに迎えは来ませんでした。)
ばっちり映像を撮りましたので、(僕の驚きと興奮を隠せない声と一緒に)お楽しみください。
最後に燃えるようにして落ちていくのは、やはりあれがUFOだという証拠だと思います。映像の中では「これ、燃えてるよ?あ、じゃあUFOじゃなかったのかな?」なんてとぼけたことを言ってしまいましたが、あれは、スターウォーズで言うところのミレニアムファルコン号がハイパードライブモードにして超高速航行をするときに発生する光の衝撃派が大気に引火して機体自体が燃えたように見えるだけなのです。あのUFOは僕が呑気にも、UFOじゃないのかもしれないという疑問を浮かべている間に、はるか何万光年先の宇宙空間へと超高速移動をしていたのでした。
でも、興奮する僕達3人をよそに、周りでコーヒーを飲んでいた、現地メキシコ人や白人観光客は、一切動じず、会話を続けていました。それだけメキシコではUFOが日常的に出現するのか、それとも明らかにUFOではなかったのか…
UFOなんて信じない、神様も僕と関係ない。だけど目には見えない物を僕ら抱きしめる~♪と歌っていた桜井さんだって、これを自分の目で見たら興奮するに違いないと思います。
宇宙人は確実に地球にやってきています。
もしかすると2012年、本当に何かが起こるかもしれません。
余談ですが、ジョン・F・ケネディー国際空港という名前の響きは世界に数ある空港の中でも屈指の格好良さだと思います。パリのシャルル・ド・ゴール国際空港、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ(フィウミチーノ)国際空港なんかと肩を並べる響きです。日本の成田国際空港、関西国際空港、中部国際空港(セントレア)とは比較にもなりません。あと僕の地元静岡県が誇る富士山静岡空港はなかなか格好良い名前だと思います。まぁ名と実があまりにもかけ離れていて、かわいそうに思える空港ですが…。
話を元に戻して、前の会社にメキシコから帰ってきた同僚がいて、今回は彼のメキシコの友人(日本人)の方にいろいろお世話になります。
夜、食事やバーに連れて行ってもらったり、メキシコ&キューバ滞在中の計画のアドバイスをもらおうと思っています。
メキシコ到着前に、到着便とホテルをその元同僚から友人の方に伝えてもらっていたのですが、なんと!大変親切なことに空港まで迎えにきてくれました。ありがとうございます。
空港で無事に合流し、タクシーに乗って、一度ホテルまで行き、チェックインをして、簡単に昼食を食べた後、市内を少し案内してくださり、その後もう一人別の友人も合流して、3人でビルの屋上にある洒落たカフェでお茶をしました。
メキシコシティーの中心部(特に歴史地区と呼ばれるエリア)を案内してもらったのですが、メキシコって僕が持っていた印象と少し違いました。メキシコシティーの人口は700万人程度なのですが、700万という数字を思うと、大都会のような感じがするのですが、あまり高いビルも無く(歴史地区だからかもしれませんが)そんなに大きな街のような感じがしませんでした。というよりも都会的ではないと言った感じです。
人々も、もっとラテン系で情熱的でアグレッシブ(攻撃的というか積極的というか…)な感じなのかと思っていたのですが、どちらかというと大人しく、控えめで素朴で親切な感じがしました。
心配していた治安も(夜遅く人通りが少ない道は別ですが)そんなに恐いなという印象ではありません。地下鉄に乗っても目つきの悪そうな人達ってあまり見ませんでした。
そして何よりメキシコ人は思っていたよりも背が小さく、どことなくアジア人とも顔つきが似ているので、親近感が沸きました。笑 なかなか楽しそうな街です。
夕方からコーヒーを飲み始めたのですが、あたりが暗くなってきた時、事件が起きました!!
西の空に不自然な動きをする光の物体が現れたのです。ご存知の通り、メキシコはUFOの目撃が世界でも一、ニに多いところです。まさか来て初日に未知との遭遇をするなんて、僕はラッキーなのか?不幸なのか?(とりあえず今夜はホテルに迎えは来ませんでした。)
ばっちり映像を撮りましたので、(僕の驚きと興奮を隠せない声と一緒に)お楽しみください。
最後に燃えるようにして落ちていくのは、やはりあれがUFOだという証拠だと思います。映像の中では「これ、燃えてるよ?あ、じゃあUFOじゃなかったのかな?」なんてとぼけたことを言ってしまいましたが、あれは、スターウォーズで言うところのミレニアムファルコン号がハイパードライブモードにして超高速航行をするときに発生する光の衝撃派が大気に引火して機体自体が燃えたように見えるだけなのです。あのUFOは僕が呑気にも、UFOじゃないのかもしれないという疑問を浮かべている間に、はるか何万光年先の宇宙空間へと超高速移動をしていたのでした。
でも、興奮する僕達3人をよそに、周りでコーヒーを飲んでいた、現地メキシコ人や白人観光客は、一切動じず、会話を続けていました。それだけメキシコではUFOが日常的に出現するのか、それとも明らかにUFOではなかったのか…
UFOなんて信じない、神様も僕と関係ない。だけど目には見えない物を僕ら抱きしめる~♪と歌っていた桜井さんだって、これを自分の目で見たら興奮するに違いないと思います。
宇宙人は確実に地球にやってきています。
もしかすると2012年、本当に何かが起こるかもしれません。
2010年3月22日月曜日
Day51 海外で活躍する日本人
ニューヨークでは多くの日本人が活躍しています。
10th street周辺、2nd Avから東側のエリアはちょっとした日本人街になっていて、日本食レストラン、日本人経営の美容室、日本語学校などが目に付きます。
今日は、ニューヨークにいながら、日本人の方々に大変お世話になった一日でした。
まず、昼食を食べた後、ニューヨーク事情通の友人が教えてくれたCHIKALICIOUSというパティスリーでデザートを食べました。一人で。笑
その友人曰く「ここは予約が全然とれないらしい。」とのことでしたが、とりあえずお店の前にだけでも行ってみようと思って、14時に行くと、まだ閉まっていました。開店は15:00~22:30だそうです。お店の向かいに、CHIKALICIOUSのデザートの持ち帰りができる姉妹店が出ていたので、15:00の開店で入れなかったら、そっちで何か買って帰ろうと思って、一度その場を離れ、15時にもう一度、戻ってきました。
15時に戻ると、8人くらいの人達が並んでいて、ちょうどお店の中に入っていくところでした。
「予約してない上に一人なんだけど、席ありますか?」と聞くと、ウエイターの方が笑顔で「大丈夫ですよ。」と言ってくれ、中に通してくれました。15、6人程度しか入れない小さな店なのですが、僕が入店した後、すぐに満席になっていました。
僕は古風な男なので「九州男児が一人で甘味処に行くとはどーゆーこったい。断固反対するばい。」と普段は思うところなのですが、今はニューヨークにいるので「パリのカルチェラタンのカフェで一人物思いにふけりながらデザートを食べる白人男性」のイメージを持って、思い切って入店してみました。
世の中には男一人では行きづらいところが結構多くあるもんなんです。
このお店は名前の通りチカさんという女性がパティシエールをしているのですが、「あぁここの味は間違いないな」と思わせるような職人的なオーラのある顔つきの方でした。メニューは(洒落ていて)3コースのプリフィックスメニューしかありません。AmuseとChoice of Dessert(リストから好きなものを選びます)とPetits Foursの3部構成です。デザートメニューはどれも想像力を掻きたてられるような洗練された言葉で構成されていて、なかなか一つに絞れなかったのですが、結局(ニューヨークなので)チーズケーキにしました。それにコーヒーをプレスで注文しました。確かプリフィックスが14ドルでコーヒーが5ドルくらいだったと思います。チップを含めて21ドル(約2,000円)でした。
ドーム型のチーズケーキの味は言うまでもなく美味しかったのですが、外がふわっとしていて、中にいわゆるレアチーズケーキのような(微妙に違うのですが、表現しにくい!)チーズがはいっている2層構造になっていました。普通と違いすぎるチーズケーキだったので、説明できません。気になる方は機会を見つけて、是非行ってみて下さい。
※コーヒーカップはロンドンのビクトリア&アルバートミュージアムのものでした。
デザートを食べた後、一度ホステルに戻って、少し休んだ後、同部屋の韓国人男性とフランス人姉弟の3人を誘って、IPPUDO in New Yorkに夕食を食べに行きました。IPPUDO in New Yorkはあの博多ラーメンの超有名店のニューヨーク支店です。実は昨日の夕食にも僕は一人で一風堂ニューヨーク店に行きました。ロンドンで別れた兄から、ニューヨークには一風堂が支店を出してて、味は間違いないと言われていたので、ニューヨークに来たら一度は必ず行こうと決めていました。でも食べてみたら、あまりの旨さに感動して、ホステルに帰ってルームメイトにその話をしたら、行きたいと言い出し、僕ももう一度食べたかったので、二日連続ラーメンを食べに行きました。
ニューヨークの一風堂は日本で食べる料金の約1.5倍の価格なのですが、それでも食べる価値のある味でした。店内は日本のラーメン屋とは思えないような、モダンでスタイリッシュな空間になっていて、驚いたことに、エントランス付近にはバースペースもあります。ここでSAKEを飲みながら入店を待つのが通みたいです。フランス人姉弟はSAKEにちょっと感動していました。
もう一つ驚いたことに、入店まで1時間待ちでした。現地に住んでいる日本人だけでなく、アメリカ人や韓国人、中国人にも人気な様子で、店の前はまさに黒山の人だかりといった感じで人々がごったがえしていました。(アメリカ人は行列は作らないみたいです)
全員でしっかり替え玉をして、ごちそうさまと言ってお店を出てきました。
一風堂さん、マジで!!ありがとう。旨かったです。
その後は、近くのパブに入って、夜遅くまでだらだらビールを飲み、お互いの旅行の話や故郷の話なんかをして楽しみました。
ニューヨーク、想像以上に面白いところでした。
またいつか(ここも!)遊びに来たいと思います。
明日は早朝からメキシコシティーに出発です。
2010年3月20日土曜日
Day50 NYC
ニューヨークにやって来ました。
まず驚いたのは、ロンドンで買い換えたデジタルカメラの性能です。
今まで使っていたものはNicon社のFinepixというラインのデジカメだったのですが、数年前の正月のワゴンセールで1万円程度で購入したものでした。Nicon社はカメラ業界の大手でデジカメの質にも定評があるので、淡い期待をしていたのですが、やはり安物買いの性能はイマイチでした。当時は何万画素かということしか見ていなかったのですが、シャッター速度とか高感度とかレンズ角度など、そういうところも気にしなければいけないなと思いました。
今回買い換えた新しいデジカメはPanasonic社のLumixというラインのDMC-TZ 65という製品です。少し大振りなデジカメなのですが、光学ズーム12倍、1010万画素、ライカレンズ、25mm広角レンズなどなど、なかなかの高性能です。そして日本語ももちろん対応しています。
前のデジカメから数年後のモデルなので、当然性能は高くなっているはずですが、まず写真を一枚撮ってみて、驚くべき性能の飛躍を感じました。12倍光学ズームの威力は凄まじいものです。(僕の写真センスは問わないでください)
一人になると、写真を撮って過ごす時間が多くなるので、この新しいデジカメを使うのが楽しくなりそうです。
次に驚いたのが、ヨーロッパとの違いです。
ニューヨークには5年前に一度来たことがあるのですが、そのときはただ単にロンドンもニューヨークも外国という一括りで見ていました。でも今回、ヨーロッパを長く旅行してきたせいもあって、ニューヨークがこんなにもヨーロッパと違うのか!と感じさせられました。
一言で表現することは難しいのですが、あえて一言で表現してしまうと、「ヨーロッパは堅くて、アメリカはカジュアルだ」といった感じです。
アメリカはヨーロッパと比べると全てがカジュアルです。もちろん良い意味で。
税関の職員も笑顔でジョークを交ぜながら入国審査をしていたし(もちろん見るところはしっかり見ていましたが)、タイムズスクエアの警官は観光客と一緒に記念撮影しているし、道行く人達もみんな気さくでフレンドリーです。ニューヨークの人達はとにかく親切です。
ヨーロッパは少し違います。堅くて、伝統を重んじていて、個人個人はお互いを尊重しながらも別々にに暮らしています。
さすが新世界は旧世界とは違うなって感じました。
もう一つ驚いたのが、ストリートパフォーマーの多さとレベルの高さです。
セントラルパークや街角にあるスクエアに行くと、かなりレベルの高いストリートパフォーマンスを見ることが出来ます。JAZZバンド、バイオリン弾き、サクソフォン奏者、ダンサー、その他各種なんでも揃っています。今日はセントラルパークの北西にあるホステル(名をJAZZ on the Parkと言います)からセントラルパークを抜けて、歩いてSOHOというダウンタウンまで行ったのですが(結構歩きました)、ストリートパフォーマー達のおかげで、ただぶらぶらしていただけなのに一度も飽きることがありませんでした。
ワシントンスクエアというところで黒人のパフォーマー集団が体技を生かしたパフォーマンスをやっていました。ダンスを織り交ぜながらバック転をやったり、前宙前回りをやったり、そういう種類のものです。オーディエンスもかなりの人数で、広場を囲むように集まっていました。
僕も人々に混ざって、写真をカシャカシャとりながら見ていたら、その黒人パフォーマーに捕まってしまい、”6人の各人種の女性とアジア人男性1人の上をジャンプで飛び越えるというパフォーマンス”のアジア人男性1人に選ばれてしまいました。
「全員、両手を後頭部に当てて、首を保護して」と言われたので、頭に手を添えると、そのパフォーマーがそのまま腰を振るダンスをやってみろと冗談で言い出して、女の子達はみんな断ったのですが、お前は男だからやれ!みたいな空気になったので、 要望に応えて、さらにマイケルジャクソンみたいな声を出してみたら、取り巻きのオーディエンスから拍手と喝采をいただきました。恥ずかしかったですが、嬉しかったです。笑 いい思い出になりました。
もしロンドンのコヴェントガーデンで同じことを要求されたら、きっと断っていたと思います。東京だったら、指名されても断固拒否して、空気を読めよ!みたいな態度を取ると思います。
ニューヨークの女神が人々を開放的な気分にさせているんだと思いました。
知り合いの一人が「ニューヨークは歩いているだけでパワフルになれる街」と言っていたのですが、本当にその通りだと思いました。
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