ついに30日目を迎えました。
残すところ…、まだ50日もあります。
1ヶ月旅行をしていると、つい1ヶ月前まで毎日会社に行って、働いていたなんて信じられなくなります。
もう人間社会には戻れないのかも知れません、なんて思ったりもするのですが、また働き出したら、「つい数ヶ月前まで長い旅行をしていて、フィンランドにいたなんて、まったく信じられないよ。ふぅ、毎日忙しくって嫌になっちゃうね。」って言い出すんだと思います。
記憶とはいい加減で便利なものです。
記念すべき30日目はフィンランドで迎えました。
そう、禁断のフィンランドです。
フィンランドと聞いて思い浮かべるものに、
NOKIA、サウナ、キシリトール、ムーミン、SUUNTO、ヘルシンキ合意、マリメッコ、などがあります。
いわゆる北欧デザインも有名で、建築家のアアルトなんかはその先駆け的存在です。
僕はいまでこそiPhoneを使っているのです、以前はNokiaのNM705iを使っていましたし、旅行に来る前に買った時計もSUUNTO社のものです。別にムーミンもキシリトールガムもマリメッコもましてやサウナなんてぜんぜん好きじゃないんですが、とりあえず2つフィンランド製のものを使っている(た)ので、僕はフィンランドと何かの縁があるんじゃないかって勝手に思っています。
でもまじめな話、フィランドと日本はどことなく感覚が似ているような気がします。
例えば、レストランの注文のシステムなんかも、西ヨーロッパ諸国(フランス、イタリア、イギリスなど)ではランチタイムもディナータイムも関係なく、とにかくウエイターを通して注文をしたり勘定をしないといけません。古風な習慣を大切にしているような感じです。フランスではウエイターは店に雇われているというより、店と契約をしていて、働き具合に応じて歩合で給料を貰っているという話を聞いたことがあります。
それに比べフィンランドには例えばランチタイムはブッフェ形式のレストランがあったり、先にカウンターで注文をしてお金を払ってから席につくシステムのレストランなんかが多くあります。こういう合理性の感覚って日本に近いと思います。
また、西ヨーロッパでは水は有料(またはあえて水道水とかカラフェの水をくださいと言わないと持ってきてくれない)ことが多いのですが、フィンランドのレストランではまず間違いなく水は無料でコップに注いでくれます。日本と同じです。
あと、ヘルシンキ中央駅で駅弁が売られていました。思いっきりEKIBENって書いてありました。
他に僕が日本と感覚が近いなと思った一番の理由は、買い物をしたときに店員さんがありがとうと言いながら会釈のような頭を軽く下げる動作をしたことです。
DESIGN FORUMというフィンランドデザイン専門の雑貨屋で靴(これがなかなかお洒落で格好良い!)を買ったのですが、そのときに会計をしてくれた女性の店員さんが、商品を渡すと同時に、ありがとうと言って頭を下げました。
客に頭を下げるのは日本くらい(韓国もそうかな?)だと思っていたので、結構衝撃的でした。
フィンランドには西ヨーロッパには無い深い森が残っているので、きっと自然を畏れ、尊敬してきた文化がそういうところに現れているんじゃないかと思いました。日本のシャーマニズム的感覚がフィンランドにもあるんだと思います。
ちなみに現在のフィンランドはキリスト教徒が多いのですが、これは12世紀頃にスウェーデン国王が十字軍、十字軍、とにもかくにも十字軍じゃ!と言いまくって、フィンランドを侵略したときに入ってきたものです。もともとフィンランドにはカレワラという神話があって、えらく頭のいい9歳のおじいちゃんが主人公の物語なのですが、このカレワラ的感性がフィンランド人の精神の奥に宿っているんだと思います。
ただ日本と違うのは、フィンランドは禁断のフィンランドと言われるだけあって、極寒です。
ヘルシンキに来て一番感動したことは、海が凍りついていることです。
ヘルシンキ湾が凍りついているので、対岸の島まで歩いていくことができます。
今朝はジョギングで対岸の島まで行って来ました。
海軍本部大将青キジが数日前にやってきて、禁断のフィンランドの海を凍らせたみたいです。
砕氷船が出てきて、氷を砕き、出来た航路を馬鹿でかいフェリーがごごごごっと轟音をたてながら出向していきます。
冬のフィンランドはまさに禁断のフィンランドです。
今朝はホテルのサウナに入りそこねたので、明日の朝、早起きしてサウナに入ってみようと思います。
本格北欧式サウナ。
2010年2月28日日曜日
2010年2月27日土曜日
Day29 ミラネーゼ
ミラノにやってきました。
が、滞在は1泊だけです。
ミラノの友人には今回は会えません。仕事でドイツにいっているそうです。
ミラノの友人はニコロという名前の男なのですが、彼ともルカと同じくロンドンの英語学校で知り合いました。でも彼はルカとはまた違ったタイプのイタリア人で、まぁ早い話がルカは子供(ガキ)でニコロは大人ということなんですが、ニコロは誰に対してもジェントルマンで道の角に差し掛かると、すっと体を引いて「I go after you.」と言ってにこっと微笑みます、みんなでエレベーターに乗る時、レストランに入る時、とにかくいろんな場面ですっと体を引き、あるいはさっと扉を開けて「どうぞ」と言って微笑むのです。
くるくるしたパーマのかかった北イタリア人特有の髪と顔つきで身長も高く、絵に描いたような好青年(今では32歳くらいになっていると思いますが…)です。
当時20歳だった僕は彼の洗練されたヨーロッパ的な仕草から、西洋的に、男はいかに振舞わないといけないのか、ということを学び取ろうと思って、よく観察したものでした。
でも東洋人の顔と言語体系的に限界があるということは後々になって痛感するのでした。
とにかく仕事じゃあ仕方が無いので、今回はニコロと恋人のビビ(まだ付き合っていればですが)に会うことを諦めて、ミラノ滞在を1泊だけに減らし、ミラノの町をさっと見て回るだけにしました。
ミラノに着くと街行く人たちのお洒落度がぐぐっと上がります。
イタリア発の高級ブランドもミラノに拠点を置いていることが多いです。ミラノコレクションも毎年開催されています。
ミラノのお洒落度合いを100とすると、ローマが50、フィレンツェが25、ペルージャが15くらいだと思います。ちなみに東京は中年サラリーマンを封殺すると90くらいです。秋葉原は違うベクトルで2500くらいです。浜松は10くらいです。
そう、ミラノ(だけじゃなく、パリもそうでしたが)ではお洒落は若者のものではなく、おっさん達のものなのです。ミラノを歩く若きミラネーゼ達のモードなファッションも格好いいのですが、おっさん達のシックでエレガントなファッション、そして仕草がとにかく格好いいんです。特にミラノドゥオーモの北東にあるポンテナポレオーネという通りに入るとジローラモ氏顔負けの中年ミラネーゼ達がモデルのような娘?なのか若い女性を連れていたり、いかにも金を持っていそうな中年シニョリーナを連れて、超高級ブランド店の中に消えていきます。若い人たちもいつかはああいう中年の渋いファッションをしようと彼らを目標にしているようにも思えます。日本ではああはなりたくないなということの方がどちらかと言うと多いような気がします。笑
ジローラモ氏はナポリの出身なので、典型的な南イタリア人の顔をしています。
ニコロが前に教えてくれたのですが、南イタリアの人たちは昔からイタリア半島に住んでいた人たちで、北イタリアの人たちはあとからドイツやからやってきた人たちなんだと言っていました。南イタリア人は陽気で昼真っからワインを飲んでだらだら暮らしているのに対し、北イタリア人は一生懸命働いている、南イタリア人は小男が多く、仕草も安っぽく胡散臭い感じ(具体的にこんな感じ、とやって見せてくれたのですが、ロードオブザリングのゴラムみたいでした)なのに対し、北イタリア人は剛健で体も大きく、がっしりどっしりしてるんだよ、と、これまたにこっとしながら教えてくれました。確かになんとなくわかります。
この日はブレラ絵画館でマンテーニャの「死せるキリスト」を見て、ドゥオーモまで歩き、昼食にパニーノを食べ、市内をぶらぶら歩いて、道行く人たちを眺め、ミラネーゼに影響された兄がプラダスポーツのサングラスを買って、ジェラートを食べながらホテルまで戻りました。
イタリアはやっぱり何度来ても新鮮な国です。
今度来る時はまだ行ったことの無いナポリと南の海岸沿いの町に行ってみたいと思います。
次は北の閉ざされた大地、スカンジナビアの国々です。
健康ランド、禁断のフィンランドの本格北欧式サウナ、楽しみです。
Day28 イタリアの絵画について
ブリュッセルのベルギー王立美術館から始まって、今回の旅行ではかなりの量の絵画を見ました。
ベルギーではフランドル派の絵画を、アムステルダムではオランダ黄金時代の絵画、レンブラント、フェルメール、フランス・ハルス、他にもフィンセント・ファン・ゴッホの作品を、パリのルーブル美術館では西洋絵画の一連の流れとフランス絵画の一連の流れ、バルビゾン派、オルセー美術館では印象派、後期印象派などを、ポンピドゥー文化センターでは現代美術の流れと最新アートなどを見てきました。
フィレンツェにはイタリアを代表するウフィッツィ美術館があります。
ウフィッツィ美術館にはメディチ家から寄贈された初期ルネサンス時代から続くイタリア絵画を中心にイタリア美術史にとって重要な作品の数々が展示されています。
最も有名な作品はおそらく、ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」か「プリマヴェーラ」です。僕はあまり好きじゃないのですが、とにかく有名な作品です。
イタリア絵画史における重要人物を古い順に挙げていくと、中世ゴシック様式のジオット、アンブロージョ、初期ルネサンス様式のフラ・アンジェリコ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、マンテーニャ、ボッティチェルリ、盛期ルネサンス様式のレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、マニエリスムのラファエロ、バロック様式のカラヴァッジョなんかがいます。
どれも中学校の美術の教科書に載っているような、有名な作品を描いた人たちです。
けれども、僕はマンテーニャの一部の作品とダ・ヴィンチの一部の作品、カラバッジョを除いて、ほとんどのイタリア絵画を好きになれませんでした。
イタリアの友人達のことは大好きだし、イタリアの食事も大好きです。イタリアンブランド、特にプラダとミウミウも好きです。でもイタリアの宗教色が強すぎる芸術だけはどうしても好きになれないのです。
イタリア人はあんなにもいいかげんでで陽気で愛着溢れる人達ばかりなのに、堅牢なカトリックの歴史がイタリアにあるのか、不思議でなりません。
ここにはもう宗教画しかないんじゃないかってくらい、宗教画ばかりで、しかも人気のあるテーマはだいたいいくつかに絞られてくるのか、キリストの誕生の場面と十字架にかけられる場面、三位一体の絵画ばかりです。
他にも三賢王の礼拝だとか、十字架を担ぐキリストだとか、最後の晩餐だとか、キリストの足に香油を塗るマグダラのマリアだとか、他の場面の絵画もたくさんあるのですが、とにもかくにも宗教画、宗教画しかありません。
カトリック教会の総本山だから仕方が無いのですが、これっぽっちもキリスト教徒でない僕にとってはうんざりする以外にできることがありません。
その点、フランスとオランダは良かった。なんていったって、人間の生活について描いてあるんだから。
明日、ミラノにあるマンテーニャの作品を見たら、この旅行中はもうイタリア絵画は見ないようにしようと思います。
アリデヴェルチ。イタリア絵画。
2010年2月26日金曜日
Day27 フィオレンティーナ
過去に1度、フィレンツェを訪れたことがあるのですが、この時の僕はまだあまりにも若く、内気で控えめな青年だったため、夜、一人で素敵なレストランに入って、赤ワインを飲みながらフィオレンティーナを食べたり、昼間、一人で美術鑑賞を楽しんだり、ドゥオーモ広場に面した小洒落たカフェでコーヒー片手に読書をしながら行き交うイタリア人達を眺めて、過ぎ行くゆったりとした時間を楽しむなんてことができませんでした。
2回あった夕食はどちらもマクドナルドで済ませ、昼食にはお世辞にも美味しいとは言えない切り売りのピッツァを食べ、日中は少しだけ外を散歩したけれど、いくつかの名所を見た後、すぐにホテルに戻って、日本から持ってきたノートパソコンを開いて、ネットサーフィンをしたり、DVDを見たりして、時間を潰してしまいました。今思えばかなり苦い思い出です。
後になって、このときの失敗を繰り返さないために、僕は一人で素敵なレストランに入る練習をしたほどでした。
このときもペルージャの友達に会いに来ていて数週間をペルージャで過ごした後、ミラノから飛行機で日本へ帰るまでの間の数日間を一人で過ごさないといけなかったので、なんとなく有名なフィレンツェに立ち寄ったのでした。
ホテルに引きこもってしまったのは僕が内気だったせいもあるのですが、それと同じくらいフィレンツェの街も僕に対して冷たかったように感じました。人々はなんとなく無愛想で、足早に道を行き、寄ってくる連中はといえば、怪しげな客引きや物売り、募金活動の勧誘屋や物乞いだけでした。
このときは、ペルージャに戻りたい、ペルージャには友達も家族も美味しい食事もワインだってなんだって揃ってたんだからって何度も思いました。
今回もミラノからヘルシンキへ行く飛行機に乗る間の数日間をフィレンツェで過ごすことにしました。
一応ウフィッツィ美術館とアカデミア美術館を見ておきたかったというのがフィレンツェ滞在の主だった理由です。
でも、フィレンツェに到着した日は、6月の長い雨に打たれた後の地面のように体が疲れて重く、だるくて一歩だってホテルの外に出る気が起きませんでした。結局またしても、夕食は近くのマクドナルドでテイクアウトをして、ホテルの部屋で食べました。
なんだかフィレンツェが僕に意地悪をしているように思えました。この街は僕のことを歓迎していないんだ。なんだって、この街に来るたびに体調が悪くなったり、気が滅入るようなことが起こるんだ!って。
それでも、今日になると悪かった体調もいくぶんか戻り、日中は兄と二人で昼食を食べてからウフィッツィ美術館に行きました。
だけどもイタリアの美術館ってどこも宗教画しかないから面白みってもんがないです。
ウフィッツィ美術館を出た後、ジェラートを食べながら街を歩き、小さくて可愛らしい店を見たり、お土産物屋の屋台を冷やかしながらホテルに戻りました。
ホテルに戻ると、今度は兄がダウンしました。
兄は体調が悪く、夕食はいらないと言うので、一人で夕食を食べにでることにしました。
ここぞとばかりに、数年前に出来なかった、一いかにも一人では入りにくそうなレストランに入って、ワインを飲みながら旨いものをたらふく食べてやろうという気が起きました。日中、下見しておいたいかにも一人では入りにくそうなレストランへ足早に向かいました。
これはフィレンツェに対する僕のささやかな復讐です。
IL LATINIというレストランに行きました。
このレストランはフィオレンティーナが有名なレストランで、この日は地元の人や観光客でごった返しでした。レストランに着くと、すでに入り口に人が溢れていて、中へ入っていく人や外でタバコをふかしている人、入り口近くのバーカウンターでお酒やコーヒーを飲んでる人など、いかにも地元の人気店といった様子です。
「一人だけど、席座れる?」と聞くと「一人?」と聞かれて「そうだよ。」と言うと奥へ続く通路の脇の角の席へ案内されました。6人がけの少し大きなテーブルで、すでに地元の人らしき客が二人席に着いていました。どうやら相席になるようです。先に座っていた客に「ボナセーラ」と言って、僕も席に座って、メニューを貰いました。
さすがに一人で1kgもあるステーキは食べられないので、豆とトマトのスープと牛ほほ肉の赤ワイン煮込みを注文しました。ウエイターのおじさんが、テーブルにおいてある、キアンティクラシコというワインを指差して「ワイン、飲んでいいからね。」と勧めてくれるので、「ありがとうございます。」と言って、一人でワインをコップに注いで、勝手に飲みました。
フィレンツェでは適当にワインを飲んで後から目分量でだいたいの料金を請求してくるらしいという情報を兄から聞いていたので、きっと、あとで適当に勘定してくれるんだと思って、テーブルに置いてあるワインを数杯飲みながら、食事を食べました。
途中で、僕の向かいの席にイタリア人の男が、彼もまた一人で食事に来たのですが、座って、常連客なのか、メニューも見ずになにやら適当に注文していました。
イタリア料理のメニューには大まかに言うと、アンティパスティと呼ばれる前菜とプリモピアッティ(第一の皿)と呼ばれるパスタやリゾット、ニョッキなどの料理とセコンドピアッティ(第二の皿)と呼ばれる肉料理、魚料理、そしてドルチェ(デザート)があります。
なんとなくですが、アンティパストとプリモピアット、アンティパストとセコンドピアットまたはプリモピアットとセコンドピアットというように、最低二皿(またはセコンドピアットなら一皿だけでも大丈夫な気もしますが?)頼まないといけないような気がします。別にプリモピアット一皿だけでもいいんだと思いますが、なんとなくプリモピアットだけ食べて出てくるのは気が引けます。
ちなみにスープはアンティパスト、牛のワイン煮込みはセコンドピアットでした。
そのイタリア人の男が注文を終えると、まずアンティパストが4皿出てきました。プロシュート、トスカーナサラミ(これが旨そう!)、ブルスケッタ、オイルサーディン。これだけでもかなりのボリュームで料金もたぶん25ユーロはしてると思います。僕は「あぁこういう頼み方もあるんだな。前菜を数種類つまんでワインを飲んで帰るんだな。」と思っていると、続いてパスタが運ばれてきました。これもなかなかのボリュームです。「それはそうか、アンティパスティだけなわけがないな。」と思っていると、彼はパスタもぺロっと食べ上げ、続いてなんと!フィオレンティーナ!が運ばれてきました。フィオレンティーナはフィレンツェ名物のTボーンステーキで骨を含めて1kgあります。お店によってまちまちですが、大体1kgで用意しているところが多いです。骨を抜いても800gはありそうです。この店では40ユーロくらいだったと思います。先に来ていた二人の客は二人でフィオレンティーナを一枚食べていました。僕も兄と二人でお腹が空いていたら挑戦したかもしれません。なんたって、我らが浜松が誇るハンバーグの名店、炭焼きレストランさわやかのげんこつハンバーグだって250gしかないんです。
でも、その男は運ばれてきたフィオレンティーナを一人でもくもくと食べ始めました。アンティパスティ4皿食べて、パスタを1皿食べた後に、1kgのステーキをもくもくと食べ始めるのです。
途中、何度かペースが落ちて、少し苦しそうにしていましたが、それでも順調にたいらげ、最後は骨に付いた肉をしゃぶっていました。
やっぱり西洋の奴らは食べる量が違います。体がでかいのも納得です。
食後にリモンチェッロを注文すると、リモンチェッロと一緒に、ウエイターのおじさんが「ビスコッティ」と言ってお酒とビスケットを「これは無料だから」と言って置いていきました。周りを見てみると、ビスケットをそのお酒に浸しながら食べているので、僕も見真似をして同じように食べてみました。調子にのってリモンチェッロなんか、頼まなければよかった。結局、アルコールを摂りすぎてしまいました。
いざ会計をお願いすると、ウエイターのおじさんと一緒に会計係の別のおじさんがやってきて、ウエイターのおじさんが会計係のおじさんに僕が食べたものを告げると、会計係のおじさんが勘定書を書いて、僕に渡すのですが、明らかにリモンチェッロとワインが入っていないので、「リモンチェッロは?ワインは?」と聞くと、片目をウインクして「ワインはもともとフリー、リモンチェッロは日本人だから無料にしとくよ。」と言ってサービスしてくれました。
ご馳走様でした。
フィオレンティーナの写真が無いのが残念です。
かなり旨そうなステーキだったので、次来るときには必ず食べたいと思います。
2010年2月25日木曜日
ここに来て…
風邪を引いてしまいました。
もうだめです。
体調が悪いだけで、すべてにおいてネガティブになってしまいます。
道行くイタリア人は全員、僕のことをF×c×ing Japだと蔑んでいるような気がします。
飛行機は飛ばず、バスは渋滞にはまり、地下鉄はストライキで止まってしまって、僕はどこにもたどり着けず、レストランに入れば昼食に300ユーロ請求され、かけこんだ警察は実は偽者でパスポートを盗られてしまう。そんな悪いイメージばかりが目つきの悪い密使によって次々に僕のところへ運ばれてきます。悪いイメージ連想大会を誰かが開いたらウソップが優勝で僕が準優勝です。
とりあえずは医者に貰った薬を飲んで、少し安静にしようと思います。
ブログの更新は少しずつ遅れています。
ご心配おかけしますが、ただの風邪です。
ペルージャで朝早くから夜遅くまでイタリア人ペースではしゃぎまくった疲れがここに来て風邪に変わってしまったみたいです。
旅行中、体調管理の重要さを痛感しました。
もうだめです。
体調が悪いだけで、すべてにおいてネガティブになってしまいます。
道行くイタリア人は全員、僕のことをF×c×ing Japだと蔑んでいるような気がします。
飛行機は飛ばず、バスは渋滞にはまり、地下鉄はストライキで止まってしまって、僕はどこにもたどり着けず、レストランに入れば昼食に300ユーロ請求され、かけこんだ警察は実は偽者でパスポートを盗られてしまう。そんな悪いイメージばかりが目つきの悪い密使によって次々に僕のところへ運ばれてきます。悪いイメージ連想大会を誰かが開いたらウソップが優勝で僕が準優勝です。
とりあえずは医者に貰った薬を飲んで、少し安静にしようと思います。
ブログの更新は少しずつ遅れています。
ご心配おかけしますが、ただの風邪です。
ペルージャで朝早くから夜遅くまでイタリア人ペースではしゃぎまくった疲れがここに来て風邪に変わってしまったみたいです。
旅行中、体調管理の重要さを痛感しました。
2010年2月24日水曜日
Day26 あまりにもせっかちなので…
イタリアには世界に誇る食文化があって、町には輝かんばかりのイタリアンブランドの名店が軒を並べ、多くの大聖堂や遺跡が世界遺産に登録され、ローマ帝国時代から続く歴史があって、高級スポーツカーが町を走り、カトリック教会の総本山バチカンもあります。
そんな素晴らしい国イタリアは当然のように日本でも人気の観光国となります。
今日はフィレンツェにいるのですが、アムステルダムやブリュッセル、パリ、ペルージャと比べてフィレンツェにはかなりの日本人観光客が来ています。
兄がネットで調べた文房具屋に入った時には、狭い店内に僕らを含めた8人くらいの日本人しかいませんでした。町のどこを歩いても、日本人用のメニューや日本の雑誌に紹介された時の切り抜き記事が掲示されていたりします。今日は兄がネットで調べたトラットリア、文房具店、ジェラッテリアに行ったのですが、そのすべてに日本語メニューや日本語ので書かれた案内や日本語の切り抜き記事がありました。
こういうのって、なんだか粋じゃないように感じます。
でも彼らも僕達日本人観光客のためを思って(あるいは僕達日本人観光客が持っているお金を思って)、こうして日本語の案内を作ってくれたり、日本語のメニューを用意してくれているのだから、これは彼らなりのホスピタリティーとして、ありがたく受け止めなければいけません。
僕は学生時代に、観光地と記号消費の関係性について勉強していたので、こういう利便性を追求したかに見えるサービスが実は観光地にとって致命的な失敗になりうることを知っています。
僕達日本人観光客は、フィレンツェのあちこちに掲げられた、日本語の案内に実はがっかりしてしまうのです。そしてメディチ家の壮大な歴史と富によって輝いていたフィレンツェの光も陳腐な観る価値の無い鈍い光に変わってしまうのです。
でも、僕が言いたいのはそんなことではありません。
イタリア人に言いたいのは、「なぜトイレには便座を付けないのか?」ということです。
あるいは、日本の旅行会社やガイドブックはなぜイタリアのトイレに便座がないということをなぜ教えてくれないのか?
どうやら理由は諸説あるらしく、
①イタリア人は他人と同じ便座に座るのは汚いと感じている。
②便座は別売りで、取り付けるにはコストがかかる。また盗難も多い。
③イタリア人はトイレに行く回数が少ないらしく、外のトイレのことなどは気にかけない。
でも僕個人的には、
イタリア人はせっかちなので、便座を取り付けるのを忘れてしまった。
のではないかと思っています。
イタリア人よ。日本語の案内を書く前に、トイレに便座を付けてくれ!!!
ちなみに、便座が無い場合には、
①トイレットペーパーを丸めて、便器をきれいに拭き、さらにトイレットペーパーを便器の上に敷いて、便座代わりにして用をたす。②空気椅子の要領で中腰になって用をたす。
③便器の上に足を乗せ、和式便所の要領で用をたす。
のどれかの方法で用をたさなければならないのですが、個人的には①以外は便器に落ちるリスクがあるので、オススメできません。
汚い話で失礼しました。
2010年2月23日火曜日
Day25 I FREGHI DI ELLERA (エッレラの人々)
ローマを出発した列車は時間通りにペルージャに到着せず、結局45分遅れての到着でした。
これがイタリアのクウォリティーです。
さて、24日目はペルージャの町に新しく出来たミニメトロに乗って、ペルージャ市街に行き、ウンブリア州立博物館やペルージャのドゥオーモを見学しました。昼食を食べて、一旦ルカの家に戻って一休みして、18時過ぎから再び外出しました。まずは近くのバーでアペリティーボです。イタリアでは食前に一杯ひっかける習慣があります。ただ、この日はアペリティーボに3時間!!かかりました。2時間くらいかけて徐々に友人達が集まり始め、久しぶりだね!と言い合い、全員が集まってからさらに1時間飲み続け、その後でみんなでレストランに移動しました。イタリアでは?多少の飲酒運転は問題ないようです。21時半からディナーが始まり、食事を終えた頃には24時を回っていました。さらにここから食後のリモンチェッロ(レモンのお酒)タイムが始まりました。久しぶりにみんなに会えた嬉しさもあって、調子に乗ってリモンチェッロ(30度くらい?)を立て続けに3杯、一気飲みしたところで、倒れました。よく覚えているような覚えていないような感じで、ルカと兄に連れられ、家に帰りました。
今日は11時から日本VSイタリアでサッカーの試合をやりました。
遊びでみんなディフェンスが適当だったせいもあって、かなり得点を決めてやりました。ダブルハットトリックはしたと思います。
イタリアのやつらは体がでかいので、ぶつかると確実に潰されます。一度、マーシモという熊みたいな奴とマッチアップになり、ぶつからないようにしてボールを奪ったら、次の瞬間、思いっきり吹っ飛ばされてボールを奪い返されてしまいました。
でも奴らは大きい代わりにスピードと足元のボールコントロールがあまり上手くないので、日本でやるフットサルよりも比較的簡単に抜いて点を決められます。
サッカーの後、みんなで昼食を食べに行って、午後からルカの運転でプラダのアウトレットに行きました。
5年前くらいに買ったmiumiuの財布がかなりぼろくなっていたので、買い替え時だと思い、プラダの財布を買いました。120ユーロでしたので、かなりお買い得でした。これは特別会計からの支出です。あとはルカの姉のベアトリーチェのお腹にいる赤ちゃんのガブリエッリ用に靴を買って、プレゼントしてあげました。これは本会計からの支出です。彼らは嬉しいことに僕のことを日本の叔父さんだと呼んでくれました。プレゼントした子供靴は2才から3才児用なので、そのころになったら靴を履いて日本に来ると言っていました。
夜は夜で再びみんなで集まり、ルカの家でピッツァパーティで盛り上がりました。
実は今までルカの家はペルージャにあると思っていたのですが、正しくはコルチャーノ市のエッレラという町にあるそうです。ペルージャの市街までは車で20分、コルチャーノの市街までは車で15分の位置です。彼らは幼い頃の友達のグループでいまだに集まっていて、この日は15人くらい集まったのですが、そのうちの5人がルカの幼稚園からの友達で、その5人を中心に高校の友達や大学の友達がそこに加わり、さらに彼らのガールフレンドたちもそのグループに加わって、多いときは25人くらい集まります。イタリアの友人関係は日本の友人関係とはかなり違うようです。
ロンドンでルカと友達になれたことで、エッレラに20人近く友人が出来たので、ルカとの出会いは本当に幸運なことでした。
彼らのWebsite:I FREGHI DI ELLERA
ペルージャでの写真:ウェブアルバム Perugia2010
今日はなんだか体調が非常に悪く、うまく文章が書けないので、この日記はまたどこかで書き直ししたいと思います。
これがイタリアのクウォリティーです。
さて、24日目はペルージャの町に新しく出来たミニメトロに乗って、ペルージャ市街に行き、ウンブリア州立博物館やペルージャのドゥオーモを見学しました。昼食を食べて、一旦ルカの家に戻って一休みして、18時過ぎから再び外出しました。まずは近くのバーでアペリティーボです。イタリアでは食前に一杯ひっかける習慣があります。ただ、この日はアペリティーボに3時間!!かかりました。2時間くらいかけて徐々に友人達が集まり始め、久しぶりだね!と言い合い、全員が集まってからさらに1時間飲み続け、その後でみんなでレストランに移動しました。イタリアでは?多少の飲酒運転は問題ないようです。21時半からディナーが始まり、食事を終えた頃には24時を回っていました。さらにここから食後のリモンチェッロ(レモンのお酒)タイムが始まりました。久しぶりにみんなに会えた嬉しさもあって、調子に乗ってリモンチェッロ(30度くらい?)を立て続けに3杯、一気飲みしたところで、倒れました。よく覚えているような覚えていないような感じで、ルカと兄に連れられ、家に帰りました。
今日は11時から日本VSイタリアでサッカーの試合をやりました。
遊びでみんなディフェンスが適当だったせいもあって、かなり得点を決めてやりました。ダブルハットトリックはしたと思います。
イタリアのやつらは体がでかいので、ぶつかると確実に潰されます。一度、マーシモという熊みたいな奴とマッチアップになり、ぶつからないようにしてボールを奪ったら、次の瞬間、思いっきり吹っ飛ばされてボールを奪い返されてしまいました。
でも奴らは大きい代わりにスピードと足元のボールコントロールがあまり上手くないので、日本でやるフットサルよりも比較的簡単に抜いて点を決められます。
サッカーの後、みんなで昼食を食べに行って、午後からルカの運転でプラダのアウトレットに行きました。
5年前くらいに買ったmiumiuの財布がかなりぼろくなっていたので、買い替え時だと思い、プラダの財布を買いました。120ユーロでしたので、かなりお買い得でした。これは特別会計からの支出です。あとはルカの姉のベアトリーチェのお腹にいる赤ちゃんのガブリエッリ用に靴を買って、プレゼントしてあげました。これは本会計からの支出です。彼らは嬉しいことに僕のことを日本の叔父さんだと呼んでくれました。プレゼントした子供靴は2才から3才児用なので、そのころになったら靴を履いて日本に来ると言っていました。
夜は夜で再びみんなで集まり、ルカの家でピッツァパーティで盛り上がりました。
実は今までルカの家はペルージャにあると思っていたのですが、正しくはコルチャーノ市のエッレラという町にあるそうです。ペルージャの市街までは車で20分、コルチャーノの市街までは車で15分の位置です。彼らは幼い頃の友達のグループでいまだに集まっていて、この日は15人くらい集まったのですが、そのうちの5人がルカの幼稚園からの友達で、その5人を中心に高校の友達や大学の友達がそこに加わり、さらに彼らのガールフレンドたちもそのグループに加わって、多いときは25人くらい集まります。イタリアの友人関係は日本の友人関係とはかなり違うようです。
ロンドンでルカと友達になれたことで、エッレラに20人近く友人が出来たので、ルカとの出会いは本当に幸運なことでした。
彼らのWebsite:I FREGHI DI ELLERA
ペルージャでの写真:ウェブアルバム Perugia2010
今日はなんだか体調が非常に悪く、うまく文章が書けないので、この日記はまたどこかで書き直ししたいと思います。
2010年2月21日日曜日
Day23 パリからペルージャへ
2005年の冬にロンドンに6週間の短期留学をしたことがあります。
ほとんど遊び感覚だったので、このとき英語が上達したかどうかはかなり怪しかったのですが、いまだに交友のある大切な友人に出会いました。
彼の名はルカ・チェーチリ, Luca Ceciliと言います。
ペルージャに住んでいる弁護士志望の学生で、僕より3つ年上でした。イタリア人を絵に描いたような陽気な男で、すぐに打ち解けて仲良くなりました。一度は学校をサボって二人でロンドンの街中に遊びに行ったこともありました。
2005年の夏と2006年の夏に彼のペルージャの実家に遊びに行き、1ヶ月弱ずつくらい居候をさせてもらっていました。ルカの友達もみんないい奴ばかりで、日本の友人と同じくらいイタリアにも友人ができました。ルカとルカの家族にはとんでもなくお世話になってしまいました。夏だったので、皆でバーベキューをしたり、サッカーの試合に出させてもらったり、あれは本当に輝いていた夏でした。
今はローマからペルージャに向かう列車の中でこの日記を書いています。
12時過ぎにパリのオルリー空港に行き、easyJetに乗って、ローマのチャンピーノ空港に15時過ぎに到着しました。イタリアには慣れてるからと高をくくって、ガイドブックを持ってこなかったので、何一つ情報がなく、チャンピーノからローマテルミニ駅行きの列車がないことを知りませんでした。テルミニ駅まではバスに乗って45分かかるそうですが、ローマ市内が酷い渋滞だったので、1時間以上かかりました。
テルミニ駅に着くとすぐに券売機に向かい、ペルージャ行きの列車の時間をチェックすると17:30発の早い列車があり、これに乗ると2時間でペルージャに着きます。時計を見ると17:29。この列車は諦めました。17:45発の遅い列車があって、これに乗るとペルージャに着くのは3時間後です。遠い。ルカに電話して、20:40にペルージャの駅に着くからと伝えて、列車のホームに向かいました。が、列車のホームがわかりません。出発まであと10分です。その辺にいた駅員に場所を聞くと、ホームの隅を進むとかなり奥の方にもう一つホームがあると言います。歩いて5分くらいかかるから急げと言われました。チケットをスタンプ機に通して、そのホームに着いたのが、出発の3分前でした。列車に乗り込み、適当な席に座ると列車が出発しました。イタリアの列車が定刻通りに出発するなんて思ってもなかったので、びっくりしました。パニーノを買ってから列車に乗りたかったのですが、そんな時間はありませんでした。携帯を見ると、ルカからの着信があって、なんだろうと思って掛けなおすと、「列車のホームが遠くてわかりにくいんだけど大丈夫?」と言います。ルカの友人で列車の運転手をしているマーシモが心配してくれたそうです。やはりイタリア人はいい奴ばかりです。
電車の中でたまっていた日記をいくつか書いていると、何度も列車が止まります。3回目に止まったときに、定刻通りに到着しないんじゃないかと思って、ルカに電話し「列車が止まっちゃったよ。これで3回目。遅れるかもしれないんだけど、ネットでそういう情報わからない?」と聞くと、「ネットではわからない。で、何分くらい止まってるんだ?」と聞くので、「最初が10分くらいで次も同じくらい、でも今回は20分はたってるかな。」というと「イタリアでは普通だから心配ないよ。」と言われました。イタリアでは普通だそうです。でもあと20分で本当にペルージャに着くんでしょうか?イタリアでは普通というのは、「列車が止まるのは普通だよ。時間通りに着くから気にしないで。」という意味なのか、「列車が止まるのは普通だよ。時間通りに着かないのも普通だから気にしないで。」という意味なのでしょうか?
あと20分でペルージャに着いたかどうかは、次の日記の最初に書きます。
あ、また止まりました。
ほとんど遊び感覚だったので、このとき英語が上達したかどうかはかなり怪しかったのですが、いまだに交友のある大切な友人に出会いました。
彼の名はルカ・チェーチリ, Luca Ceciliと言います。
ペルージャに住んでいる弁護士志望の学生で、僕より3つ年上でした。イタリア人を絵に描いたような陽気な男で、すぐに打ち解けて仲良くなりました。一度は学校をサボって二人でロンドンの街中に遊びに行ったこともありました。
2005年の夏と2006年の夏に彼のペルージャの実家に遊びに行き、1ヶ月弱ずつくらい居候をさせてもらっていました。ルカの友達もみんないい奴ばかりで、日本の友人と同じくらいイタリアにも友人ができました。ルカとルカの家族にはとんでもなくお世話になってしまいました。夏だったので、皆でバーベキューをしたり、サッカーの試合に出させてもらったり、あれは本当に輝いていた夏でした。
今はローマからペルージャに向かう列車の中でこの日記を書いています。
12時過ぎにパリのオルリー空港に行き、easyJetに乗って、ローマのチャンピーノ空港に15時過ぎに到着しました。イタリアには慣れてるからと高をくくって、ガイドブックを持ってこなかったので、何一つ情報がなく、チャンピーノからローマテルミニ駅行きの列車がないことを知りませんでした。テルミニ駅まではバスに乗って45分かかるそうですが、ローマ市内が酷い渋滞だったので、1時間以上かかりました。
テルミニ駅に着くとすぐに券売機に向かい、ペルージャ行きの列車の時間をチェックすると17:30発の早い列車があり、これに乗ると2時間でペルージャに着きます。時計を見ると17:29。この列車は諦めました。17:45発の遅い列車があって、これに乗るとペルージャに着くのは3時間後です。遠い。ルカに電話して、20:40にペルージャの駅に着くからと伝えて、列車のホームに向かいました。が、列車のホームがわかりません。出発まであと10分です。その辺にいた駅員に場所を聞くと、ホームの隅を進むとかなり奥の方にもう一つホームがあると言います。歩いて5分くらいかかるから急げと言われました。チケットをスタンプ機に通して、そのホームに着いたのが、出発の3分前でした。列車に乗り込み、適当な席に座ると列車が出発しました。イタリアの列車が定刻通りに出発するなんて思ってもなかったので、びっくりしました。パニーノを買ってから列車に乗りたかったのですが、そんな時間はありませんでした。携帯を見ると、ルカからの着信があって、なんだろうと思って掛けなおすと、「列車のホームが遠くてわかりにくいんだけど大丈夫?」と言います。ルカの友人で列車の運転手をしているマーシモが心配してくれたそうです。やはりイタリア人はいい奴ばかりです。
電車の中でたまっていた日記をいくつか書いていると、何度も列車が止まります。3回目に止まったときに、定刻通りに到着しないんじゃないかと思って、ルカに電話し「列車が止まっちゃったよ。これで3回目。遅れるかもしれないんだけど、ネットでそういう情報わからない?」と聞くと、「ネットではわからない。で、何分くらい止まってるんだ?」と聞くので、「最初が10分くらいで次も同じくらい、でも今回は20分はたってるかな。」というと「イタリアでは普通だから心配ないよ。」と言われました。イタリアでは普通だそうです。でもあと20分で本当にペルージャに着くんでしょうか?イタリアでは普通というのは、「列車が止まるのは普通だよ。時間通りに着くから気にしないで。」という意味なのか、「列車が止まるのは普通だよ。時間通りに着かないのも普通だから気にしないで。」という意味なのでしょうか?
あと20分でペルージャに着いたかどうかは、次の日記の最初に書きます。
あ、また止まりました。
2010年2月20日土曜日
Day22 今度はちゃんと予約してくるのよ、坊や。
なぜか朝から体調が優れず、8時に起きて、僕と兄の分の朝食を作って食べ終えた直後、深夜に襲ってくる耐え難い空腹に似た耐え難い絶対的な眠気に襲われ、そこから2時間ほど眠ってしまいました。11時過ぎにようやくベッドから抜け出し、歯を磨いたり、顔を洗ったり、身支度を整え、12時少し前にアパルトマンを出発しました。
旅行の22日目にして、疲れがたまっていたのか、朝の体調の悪さは、原因不明でした。
こういうものは気を付けようにも気を付けどころがわからないので、出たとこ勝負でやってきたときに即座に対応するしかありません。今日は朝食の後だったので、かなりラッキーなケースだったと思います。とりあえず近所のスーパーに行って、レッドブルを2缶買いました。
(またしても)パリの情報サイト、カイエ・ド・パリで調べた、クレープリーに出かけ、昼食にガレットとシードルをとることにしました。モンパルナスの近くにあるクレープリーだったので、歩いて行きました。僕は定番のハムと卵とチーズと玉ねぎのガレットを注文し、兄はトゥールーズソーセージのガレットを注文しました。玉ねぎがかなり濃い飴色に炒めあげられていて、美味しかったです。お店の名前はクレープリー・デュ・ヴュー・ジュルナル, Creperie du Vieux Journalと言います。
一度、アパルトマンに戻って、午後の予定を立て直し、夕食に行くビストロの候補を2つピックアップして、オルセー美術館に行くことにしました。まったくパリにはカフェとビストロと美術館しかないんじゃないかって気になります。
オルセー美術館はもともと印象派美術館だったので、印象派の画家達(モネ、マネ、ルノワール、ピサロなどなど)の作品が多く展示されています。印象派好きにはたまらない美術館なのですが、不幸にも僕はあまり印象派絵画が好きではないので、スルーです。一番古いのがバルビゾン派で、印象派、そしてゴッホ、ゴーギャン、セザンヌを経て、象徴主義の画家あたりまでが展示されています。他にもロダンの彫刻やアールヌーヴォー家具などが展示されています。インテリア好きにたまらないのがアールヌーヴォーのコーナーです。詳細を一つずつ取り上げていくとまたしても長くなってしまうので、オススメを一つだけ書いてこの美術館についてはお終いにします。僕の一番のオススメはギュスターヴ・クールベの「画家のアトリエ」です。大きなキャンバスの右側にクールベの画家仲間や自由恋愛を象徴する男女など、理想の生活を送る人々が描かれ、画面の左側には金持ちや貧乏人、お金や社会に縛られる人々が悲惨な姿で描かれています。真ん中に絵を描いているクールベ自身が描かれていて、画家がこの二つの相反する世界を繋ぐ役割を演出しているそうです。かなり挑戦的で示唆的な作品です。大きな作品なので、見ごたえもあります。
オルセー美術館を出ると夕方の6時過ぎになっていて、たそがれ時でした。遠くの空が橙と紫色に染まり、上空の厚い雲が黒い陰になってパリの街に襲いかかろうとしているところでした。セーヌ川沿いを散歩し、僕のより少しだけ高性能な兄のカメラでパリの街を撮影しました。兄のカメラはソニーで、僕のパソコンはSDカードしか読み込めないので、どこかでコネクタを買って、撮った写真をアップしたいと思います。
セーヌ川をエッフェル塔方面に歩き、探しておいたビストロへ向かいます。
一軒目はシェ・ラミ・ジャン, Chez L'Ami Jeanというお店で(またしてもカイエ・ド・パリで探したのですが)こう紹介されています。
”今パリで一、二を争うビストロと聞いて、7区にあるシェ・ラミ・ジャンに行ってきました。 ~中略~ バスク料理がスペシャリテだというので素朴な地方料理を想像してメニューを開いたら、洗練された内容のようでびっくり。しかも3品とも6種類以上の選択肢があり、あれもこれも食べたいと迷ってしまうほどです。でもそれで驚くのはまだ早かった・・・時としてメニューの文章からは想像がつかない姿でやってくるその料理は、創造性と意外性でいっぱい。見た目の美しさも完璧です。庶民的とも言える価格で、こんなレベルの高い料理を提供するシェフには頭が下がります。 ~再び中略~ 今回注文した料理 前菜1:ブイヨンでゆでたラビオリ、仔牛肉の煮込み 前菜2:かぼちゃのラザニア、オマール海老添え メイン1:豚の胸肉、頬肉、耳とレンズ豆の煮込み メイン2:ヒメジのグリル、クロックマダム風、クスクスサラダ添え(付け合せのマッシュドポテトがまた美味!) デザート1:レモンのクリーム、ピスタチオのジュレ デザート2:チョコレートとバニラのマーブル”
パリで1、2を争うビストロ!!!だそうです。ここは行っておくしかありません。
エッフェル塔から5分くらい歩いた裏路地(カイエ・ド・パリの取材力には驚かされます。ほとんどのお店が一本は入った裏路地にあるのです。そして例外なく旨い!)にあって、外はすりガラスで中の様子が見えないようになっています。メニューをチェックして、勇気を出していざ店内へ。外観に比べ、内装はアットホームな感じです。席に着けないかと思って、店員さんを探すと飛び切り綺麗なフランス人マドモアゼルがやってきて、「ブゥ…なんとか…リザヴェ?」と聞いてきます。リザヴェ?きっと予約のことだと思って、「ノン」と言うと、彼女は少し目線を上に上げて、真冬の月ような無表情な笑いを浮かべ、さっと後ろを振り向いてお店の名刺を2枚取り、僕に渡しながらフランス語で何か言いました。フランス語はわからないのですが「今日は満席よ。今度はちゃんと予約してから来るのよ、坊や」と言われたことはわかりました。あしらわれるように、食事を断られたのですが、彼女があまりに美しかったことと、ジェームス・ボンドの傍らにでもいそうな洗練された仕草のせいで、嫌な気なんてこれっぽっちも起こらなかったどころか、なんだかすごく貴重な体験が出来たような気分にすらなってしまいました。自分で自分が気持ち悪いです。
結局二軒目のお店にはすんなり入れました。オー・ボン・アキュイユ, Au Bon Accueilというビストロです。かなりシックなお店でした。ビストロ?レストランじゃないのかという印象です。
お店のドアを開けて、立っていた中東系のウエイターに「ヌ パール パ フランセ メ(フランス語話せないんですが)」と言うと、日本語で「大丈夫ですよ。どうぞ」と迎えいられました。かなり流暢な日本語で、尊敬語や謙譲語も使いこなすところには脱帽の思いでした。メニューを一通り説明してもらって、僕は前菜に栗とセロリのポタージュ、兄はサーモンのタルタルを、メインに僕はタラのポワレ、兄は子牛のステーキ、赤ワインソース、デザートに僕はクレープのフランベ、兄はミルフィーユを注文しました。僕の食べたタラのポワレと兄の食べたサーモンのタルタルがかなり美味しかったです。特にサーモンのタルタルには青海苔が使われていて、卵で作ったムースの味と青海苔の風味が最高にマッチしていました。どうも少し前から日本料理ブームで日本食材を使うところが多くなってるそうです。このビストロは味ももちろん美味しいのですが、料理の出し方がまたお洒落です。最初に出てきたスープは、まずクルトンとパンチェッタとハーブだけが載ったスープ皿が出てきて、ウエイターがボナペティ(召し上がれ)と言った後に、別のウエイターが大きな鍋を抱えて、スープを注ぎに来てくれたり(危うく、クルトンとパンチェッタを先に食べてしまうところでした)、デザートのクレープも先に何の変哲もないクレープが運ばれてきて、後からウエイターが火のついたブランデーかカルヴァドスのようなお酒をひしゃくのような銅のレードルに入れて持ってきて、火がついたままのお酒をクレープにかけてくれました。
アペリティフにキールを、食事をしながらシャブリを飲んで、デザートと一緒にコーヒーまで注文して、一人44ユーロでしたので、料理内容を考えるとかなりリーズナブルだったと思います。
今日はパリ最後の夜だったのですが、最後の夜にふさわしい食事でした。
これで今度から「パリの美味しいレストランを知ってるから、旅行に行こうよ」と好きな女の子を誘うことができます。
もう少し大人になって、顔が渋くなったら、一軒目のシェ・ラミ・ジャンに行こうと思います。今度はちゃんとリザヴェってから行かないといけません。
Day21 夜のルーブル美術館
パリ、いやフランスきっての美術館といえば、誰もが知るルーブル美術館です。
毎週、水曜日と金曜日は21:30まで開館しています。この日の18:00以降の入館料は6ユーロと通常より3.5ユーロ安くお得に利用できます。
今日は水曜日、ということで、18時過ぎからルーブル美術館に行ってきました。
実は今回のパリ滞在でルーブル美術館に行くのは2回目です。前回と前々回を入れるともう4回目になります。かなりのルーブル美術館マニアと疑われても反論できません。
水曜の夜のルーブル美術館は昼間よりも少しだけ空いていて、スムーズに入館することができました。
それでもガラスピラミッドのある正面入り口はセキュリティーチェックの行列が出来ていたので、地下鉄の駅の方の入り口から入館しました。もう4回目なので、どこから入ればいいのかもお手の物なのです。ちなみに地下鉄の駅がある入り口にはガラスの逆さピラミッドがあります。
ルーブル美術館は3つの展示館、シュリー翼 (Aile Sully)、ドゥノン翼、(Aile Denon)、リシュリュー翼 (Aile Richelieu)から構成されています。シュリーを正面に右手にドゥノン、左手にリシュリューが配置されていて、建物はどれも半地下、地上階、2階(フランスでは1階)、3階(フランスでは2階)の4層になっています。
大雑把に区分けすると、半地下にはフランスの彫刻と中世ルーブルの歴史資料、地上階には古代エジプトや、古代ギリシャ、ローマ帝国時代の彫刻など、2階には14世紀から17世紀ごろまでのフランス絵画の大作、イタリア絵画、一部イギリス絵画やスペイン絵画、3階には17世紀以降のフランス絵画の歴史順展示、オランダやベルギーのフランドル派の絵画が展示されています。
兄はルーブルについてまだまだ素人のようだったので、前嶋スペシャル2時間半コースを案内することにしました。
まず半地下にあるエントランスから正面のシュリー翼に入り、ルーブル宮の歴史の部屋を通過して左側にある階段を登り、地上階に上がります。階段の左手の部屋に進むと両腕のない「ミロのヴィーナス」が出迎えてくれます。「ミロのヴィーナス」の部屋を出て、ドゥノン翼方面に進み、次の階段を上がると、踊り場に両腕と頭部のない「サモトラケのニケ」があります。この2体の像はとにかく有名です。なぜ有名なのかはよく知りませんが、とにかく有名なので一応チェックしておきます。この2体とモナリザがルーブル美術館の中で突出して有名です。ニケの像を左手に見ながら、続く階段を上ると、中世のイタリア絵画が展示されている長い廊下に出ます。この廊下は400メートル走コースが直線でとれるくらいの長さです。中世のイタリア絵画の主題はとにもかくにもキリスト教です。イエスの生誕だとか、最後の晩餐だとか、十字架にかけられるイエスだとか、十字架から降ろされたイエスだとか、聖書の中の有名な場面の絵ばかり展示されています。同じ場面や、同じような構図の絵が多いので、見比べながら見ると面白いです。すこし歩くと左手に人だかりがあり、ここには天才レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」と他の作品が展示されています。その少し先の右側にある小部屋にはいると、今度は黒山の人だかりです。小部屋の奥にダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が展示されています。初めてパリに来たとき、ちょうどダン・ブラウンのダ・ヴィンチ・コードを読んだ後だったので、かなり興奮したのを覚えています。当時はかなりミーハーでした。「モナ・リザ」小部屋を出て、元のイタリア絵画の展示廊下に戻り一番奥まで進みます。イタリア絵画が時代ごとに展示されているので、技法の上達から描き方の違いなどを順を追ってみることができます。面白いのは宗教改革が起こりカトリック教会の勢力が弱まり始めた17~18世紀頃の絵画です。カトリック信者を獲得するためか、絵画の描かれ方が急にドラマチックで荘厳な、少女漫画のようなタッチに変わります。バチカンの焦りと企みが見て取れます。さらに先の部屋にはスペインとイギリス絵画のコーナーがあります。サー・トーマス・ローレンスなどの作品が展示されています。すこし引き換えして、左手に入り、もう一つの廊下に出ると、今度はフランス絵画の大作のコーナーです。ばかでかいキャンバスに描かれたフランス革命の様子やナポレオン・ボナパルトの肖像画などが展示されています。これでドゥノン翼の2階は終わりです。来た道をシュリー翼まで引き返します。
同じフロアの違う建物にはエジプトの遺跡資料の展示やルネッサンス時代のイタリア芸術の展示などもあるのですが、時間がないので、ここはパスします。
シュリー翼に戻り、今度は3階に上がります。シュリー翼の3階には17世紀から19世紀までのフランス絵画が時代順に展示されています。バロック様式、ロココ様式、写実主義などその時代時代の有名な作品が展示されています。最後にフランスのバルビゾン派の絵画のコーナーがあります。バルビゾン派は時代が印象派に移る前の時代の作風で、パリ南部にあるバルビゾン地方の田園風景を描いた画家たちの流派です。森が濃く深く書かれていて、どちらかというと全体的に暗い色調の作品が多いのが特徴です。僕はこのコーナーが一番好きで、中でもテオドール・ルソーの作品が気に入っています。「落穂ひろい」を描いたミレーがこの流派の中で一番有名な画家ではないでしょうか。ちなみに「落穂ひろい」は隣のオルセー美術館に展示されています。
このコーナーを見終わるといよいよ最後、リシュリュー翼の3階に展示されているオランダ、ベルギー、フランドル派の絵画コーナーです。見逃してはいけないのが、フェルメールの「糸を紡ぐ女」の絵です。フェルメールはもう一点展示されています。その奥にレンブラントやフランス・ハルスといったオランダ黄金時代の黄金世代の絵画が展示されています。あとはベルギーのルーベンスのコーナーなどが見所です。レンブラントやフランス・ハルス、フェルメールに関しては、ルーブル美術館にもかなりの数が所蔵されているのですが、やはりアムステルダムのオランダ国立美術館、ライクスミュージアムの方が量も質も圧倒的でした。地元強しです。
これだけ見ると大体2時間半かかります。言葉も出ないくらい疲れ果てます。
ルーブル美術館はすべての部屋を見ようと思ったら1日はかかるんじゃないでしょうか。真剣に見れば1週間は軽くかかると思います。
僕は前にパリに来たときに西洋美術史について少し勉強をしてから来たので、さわり程度であればルーブル美術館のガイドを務めることができます。
後は今回の旅行でオランダのライクスミュージアムとゴッホミュージアムでは音声ガイドを借りて、すべて聞いたので、オランダ黄金時代の芸術とゴッホに関してもかなり詳しくなりました。
兄は僕の無料のガイドツアーに満足していた様子でした。
ルーブル美術館は世界3大美術館と言われるだけあって、かなり見ごたえがあります。映画一本より安い入場料でこれだけの美術品を見れるなんて、パリの人たちは幸せ者です。
これから先、まだまだ超有名な美術館、博物館に行けるので、がっつり勉強しようと思います。
でも僕の美術の成績は5段階中3で(しかもお情けの3です)、絵心は壊滅的です。
2010年2月18日木曜日
Day20 ドラ息子あらわる
昨日の日記の続きになりますが、今日から僕の兄がこの旅行に合流しました。
パリのアパルトマンまで来てくれればいいものを、ガイドブックを持ってないから、空港まで迎えに来てくれと言われ、仕方がないので、シャルルドゴール空港まで迎えに行きました。
昨日、友人を送りに空港まで行き、今日は兄を迎えに空港に行ったので、シャルルドゴール空港についてはかなり詳しくなりました。そこら辺の旅行会社の添乗員よりもシャルルドゴール空港については詳しいと思います。
彼も仕事を1月末で辞め、次の仕事(一緒に働くことになるのですが)までに時間があるので、一緒に旅行に行こうということになりました。それと、僕らは今まであまり兄弟らしいことをしてこなかったように思うので、まぁ最後に長期の旅行に行くのもいいだろうということになったのです。
今日からちょうど1ヶ月間、ヨーロッパとモロッコを一緒に旅行します。
彼はもうすぐ結婚することが決まって、4月11日に結婚式を挙げることになり、挙式や新生活の準備が忙しいので、3月の中旬で旅行をやめて、日本に帰らないといけません。
実はこの旅行の最後は彼らの結婚式なのです。ハワイで結婚式を挙げるので、4月10日にハワイでみんなと合流です。なんともめでたいことです。
僕の友人に僕のことをドラ息子呼ばわりする男がいます。
この友人はこう言いました。
「…にも関わらず、彼は間違いなくドラ息子だ。 その理由を一言で言うならば、それは彼の「スタイル」に由来するものだと思う。 お金を使う総量は僕らと大した違いがなかったとしても、その使うスタイルがもうドラ息子なのだ。 」
彼に言わせると、どうやら僕のお金の使い道が僕をドラ息子たらしめているらしいのです。
僕がドラ息子なら兄である彼もドラ息子に違いありません。
でも僕と彼のお金の使い方には決定的な違いがあります。
僕は形あるものにお金を使い、兄は形ないものにお金を使います。
例えば、競馬、パチンコ、マージャン、オートレースなどなど。
僕は一切ギャンブルをしないのに対し、彼はかなり若いころから、おそらくまだ法に触れる頃から、こういった遊びをしていたように思います。それを思うとまったくもって嫌らしい奴です。
とにかく、そんな兄が今日合流しました。もういい歳なので、もめることもないとは思いますが、スタイルの違う二人なので、喧嘩しないように譲り合いながら旅行を楽しもうと思います。
ところで、今日の昼食には大勝軒のラーメンを食べました。
オペラ地域の北側を歩いていくと、日本人街のようなエリアに迷い込み、寿司屋やラーメン屋、和定食屋などが軒をならべている通りに出ました。
でも、今日はビストロで何か肉料理でも食べたいなと思って、歩いていたので、この辺りで日本食を食べるのももったいないなと思っていると、なんと大勝軒と書かれたラーメン屋にぶつかりました。
東池袋の大勝軒?あつもりとかいうあの旨いつけ麺が食べられるのか!!と思い、さっきまでの迷いを一気に投げ捨て、入ってみました。
でも、メニューにつけ麺ありません。
ねぎラーメン、ねぎチャーシュー麺、コーンバターラーメンなんかがメニューにあるだけです。
味も日本ならサービスエリアで出てくるレベルのラーメンでした。池袋の大勝軒とは関係のない味です。7ユーロなので、日本なら高いな、という値段です。ちょっとがっかりしたのですが、それでも久しぶりに食べる日本のラーメンには感動してしまい、普段ならスープは飲み干さないのですが、スープもすべて飲みきってやりました。
気になっていたあの質問を店員さんにぶつけてみると。
「いやー池袋の大勝軒とは、まったく関係がないんですよ。暖簾分けとかそういうんじゃないです。」と言い、「でもまったく関係ないってわけでもないんですがね。微妙なところでして。」となんとも曖昧な答えでした。
日本に帰ったら、ラーメン、牛丼、寿司、ぺヤングソース焼きそばをたらふく食べたいです。
2010年2月17日水曜日
Day19 友人の帰国
アムステルダムで合流した友人が、先ほど帰国してしまいました。
つかの間の6日間でした。
わかったことは、やはり旅行はどこに行くかではなく誰と行くかだ、ということです。
一人の旅行はそれはそれは気楽で、誰にも気兼ねすることなく、毎日を過ごせるので、なかなかいいもんですが、やはり旅行には相棒がいたほうがいいです。
旅行のベストパートナーと呼べる男が一人いて、大学時代はよく彼と二人で旅行をしたものでした。ロンドンから列車でパリを抜けて、北イタリアまで行ったり、スコットランドからイギリスの湖水地方を抜けてロンドンまで旅行したり、国内を車で旅行したこともありました。
その男とは、まぁ当然旅行以外でも仲良くしているのですが、こと旅行となると、ペースが完璧に合うのです。僕らはどちらもいい加減な男で、旅行先でここだけは絶対に行かないと気が済まないというようなこだわりもなく、またお互いに体力不足なのか、2時間も歩けば、「おっあそこによさそうなカフェがあるぞ。ちょっとお茶していこう。」と休憩ばかりとります。
また、僕らは時間を楽しむというとても大人な趣向を持っているので、旅行に来たからといって、きつきつのスケジュールの中、名所をひたすら回って終えるなんていう、素人のようなことは決してせず、素敵なカフェ、バーや公園を見つけて、フランスならフランスの、イギリスならイギリスの、日本なら日本の、その地方特有の時間の楽しみ方を探しては実践してみるのです。そしてくだらない新しい冗談を考え、お互いに披露しあうのです。
でも、彼と長期間の旅行に行くことはもうないんじゃないかなと思います。
そう考えると大学で過ごした4年間はなんて有意義な時間だったのだろうか。
もう数人くらいは友人と呼べる人達がいるのですが、日常生活では仲が良くても、いざ旅行に、それも長期間、一緒に行けるかと考えると難しいような気がします。少なくとも半分は僕の側に責任があるのですが、なかなか長期間2人で旅行にいける友人って少ないなって思います。
アムステルダムで合流した友人をシャルルドゴール空港まで送り、パリへ戻ってくる列車に乗ると、またしても僕は一人になりました。
と言っても、明日から新たな登場人物が現れます。
続きは次の日記「Day20 ドラ息子あらわる」に書きます。
とりあえず、一緒に旅行してくれた友人へ
「ありがとう。」
つかの間の6日間でした。
わかったことは、やはり旅行はどこに行くかではなく誰と行くかだ、ということです。
一人の旅行はそれはそれは気楽で、誰にも気兼ねすることなく、毎日を過ごせるので、なかなかいいもんですが、やはり旅行には相棒がいたほうがいいです。
旅行のベストパートナーと呼べる男が一人いて、大学時代はよく彼と二人で旅行をしたものでした。ロンドンから列車でパリを抜けて、北イタリアまで行ったり、スコットランドからイギリスの湖水地方を抜けてロンドンまで旅行したり、国内を車で旅行したこともありました。
その男とは、まぁ当然旅行以外でも仲良くしているのですが、こと旅行となると、ペースが完璧に合うのです。僕らはどちらもいい加減な男で、旅行先でここだけは絶対に行かないと気が済まないというようなこだわりもなく、またお互いに体力不足なのか、2時間も歩けば、「おっあそこによさそうなカフェがあるぞ。ちょっとお茶していこう。」と休憩ばかりとります。
また、僕らは時間を楽しむというとても大人な趣向を持っているので、旅行に来たからといって、きつきつのスケジュールの中、名所をひたすら回って終えるなんていう、素人のようなことは決してせず、素敵なカフェ、バーや公園を見つけて、フランスならフランスの、イギリスならイギリスの、日本なら日本の、その地方特有の時間の楽しみ方を探しては実践してみるのです。そしてくだらない新しい冗談を考え、お互いに披露しあうのです。
でも、彼と長期間の旅行に行くことはもうないんじゃないかなと思います。
そう考えると大学で過ごした4年間はなんて有意義な時間だったのだろうか。
もう数人くらいは友人と呼べる人達がいるのですが、日常生活では仲が良くても、いざ旅行に、それも長期間、一緒に行けるかと考えると難しいような気がします。少なくとも半分は僕の側に責任があるのですが、なかなか長期間2人で旅行にいける友人って少ないなって思います。
アムステルダムで合流した友人をシャルルドゴール空港まで送り、パリへ戻ってくる列車に乗ると、またしても僕は一人になりました。
と言っても、明日から新たな登場人物が現れます。
続きは次の日記「Day20 ドラ息子あらわる」に書きます。
とりあえず、一緒に旅行してくれた友人へ
「ありがとう。」
2010年2月16日火曜日
Day18 パリの友人に会う
今日はパリに滞在している大学時代の友人と会いました。
朝11時に僕のアパートの、もとい、僕のアパルトマンの最寄駅、Sevres Babylone(セーブルバビロン)で待ち合わせました。
大学の卒業式以来、久しぶりに会ったというのに、彼女は3年前からほとんど変わっていない様子で、彼女との間に3年間なんて時間はまったく感じませんでした。
彼女がなぜパリにいるかというと、大学を卒業後、どこかのウェディングの会社に勤め、2年勤めてその会社を辞めようかどうか悩んだ時に、会社側から1年間のパリ行き仕事を引き合い条件に提案され、そのまま会社に残り、パリに滞在しているということでした。今年の6月には日本へ戻ってくるそうです。パリでの仕事はずいぶん楽しそうでした。
僕達はSevres Babyloneの駅で待ち合わせた後、とりあえず、地下鉄に乗り込み、どこに行こうか?と考えて、僕がまだ行ったことのない、ポンピドゥー芸術文化センターに行くことにしました。ポンピドゥー芸術文化センターの中には国立近代美術館があります。
パリには多くの美術館があるのですが、その中でも3大美術館といわれるところが、ルーブル美術館、オルセー美術館、そして国立近代美術館です。
大まかに言ってしまうと、古代文明からバルビゾン派(テオドール・ルソーやミレーなど)までの美術品はルーブルに所蔵され、印象派絵画(モネ、マネ、ルノワールなど)からモダンアートに入る一歩手前(ゴッホ、ゴーギャンなど)までがオルセーに、ちなみにオルセー美術館はもともとは印象派美術館と呼ばれていました、そして主に20世紀以降のモダンアートがポンピドゥーの国立近代美術館に所蔵されています。
他にもマルモッタン美術館、オランジェリー美術館、ケ・ブランリー美術館、ロダン美術館などなど、著名な美術館がパリには多くあるのですが、まぁとりあえず、3大美術館で行けていなかったポンピドゥーに行きました。
ただ、モダンアートはいかんせん良くわからない上に、ちょうど入館したのがお昼少し前でお腹が減り始めたので、さーっと有名な人の作品だけを流し見て、出てきてしまいました。
ピカソ、シャガール、ダリ、ミロ、マティス、カディンスキーなどなどが展示されていました。
どれも意味不明なものばかりで、困ってしまいます。
ニューヨークにあるモダンアート美術館の方が展示方法が面白く、また椅子や家具などのプロダクツの展示も充実していて、ポンピドゥーよりも見ていて楽しかったように思います。
午後はポンピドゥーの近く、パリ3区のマレ地区をぶらぶら歩き、彼女の行きつけのカフェでかなり遅めの昼食をデザートも一緒に食べました。
どうやらかなりの人気店のようで、お店の中は人、人、人。人がひしめき合っていて、スペースが足りないのか、隣のテーブルとテーブルの間の隙間が5センチくらいしかとられていない席もありました。奥のベンチ席に座るためには一度テーブルを一つ分後ろに引き出し、中に入ってから、テーブルを押して元の位置に戻さないといけません。トイレに立つのに不便でなりませんが、なんだかこういった不便さもパリでは素敵なことのように思えてしまうから不思議です。
でもよく考えると、日本でも席が狭くて不便だけど、美味しくて行列ができてる通なラーメン屋なんかがあるかぁと思いました。
香港の屋台もそうだけど、人がごちゃごちゃしている中で食事を食べるのって、なんだか楽しい気分になって、好きです。
食事の後は、昔行ったことのあるCoton Douxというお店で梅の花柄のとびきりお洒落なストールを買って、パリジャンになりきり(パリの人はストールをまいています。イタリアの人はサングラスをしています。ロンドンの人と東京の人はスキニーパンツを穿いています)、シテ島を通り、カルチェラタンを抜け、ソルボンヌ大学やパンテオンを横切り、リュクサンブール公園で一休みして、セーブルバビロンのアパルトマンまで歩いて戻ってきました。
途中、漫画のワンピースの話で盛り上がったり、僕らは久しぶりに会ってもくだらない話しかしませんでした。なかなか素敵な友人なのですが、実は大学外で会ったことがあるのは、今回のパリと、前回のパリの2回だけです。前回は男3人の卒業旅行中に、彼女も彼女の女友達と2人でパリに来ていて、偶然にも予定があって、パリで会うことになりました。彼女は僕のパリの友人という位置づけにしておいて、彼女が日本に帰ってきてからも敢えて会わないようにして、そして、またいつかパリで会おうと思います。
Day17 La Table de Claire
La Table de Claire(ラ ターブル ドゥ クレール)
3年前に大学を卒業したときに友人と3人でパリに旅行に来たことがありました。
そのときにパリのレストランや観光情報などを調べていて偶然見つけたお店がここです。
カイエ・ド・パリというパリの観光情報から、レストラン、ホテル、ショッピング情報まで紹介しているパリの観光ポータルサイトの中に紹介されていました。このサイトはかなり編集の手が込んでいて、レストラン紹介やホテル紹介も独自の取材に基づいて書いてあったり、常にパリの最新情報が掲載されていたり、面白い特集記事を組んでいたり、パリに来なくても読むだけでも面白いサイトです。
レストラン紹介のページも、実際に取材をして書いてあるのでしょう。また、編集部の人の舌もしっかりしているのでしょう。外れがないように思います。
La Table de Claireは夫婦で経営しているようなこじんまりとしたブラッスリーなのですが、奥さんが調理場にいて、旦那さんがフロアを担当しています。なんだかそういうところも素敵だと思いました。しかも定休日が日、月、火と3連休なのです。ゆるすぎる。
3年前に来たときは、僕の料理仲間であるシェ・イチモトとコダマという男と3人だったのですが、3人ともそこで出てきたスープの旨さにびっくりして、唸ってしまったほどです。豆をペースト状にして作ったポタージュのようなスープだったので、おそらく数種類のハーブが入っていたと思うのですが、何が入っているのかまったく予想できないような複雑なのに完璧にまとまっている味でした。
3コースメニュー(前菜、メイン、デザート)で16ユーロと(パリではかなり)安い(らしい)値段でとびきり上質なものを食べさせてくれます。驚くような斬新な味付けというようなところではないのですが、慎重に食材を選んで、丁寧に丁寧に調理したということがわかるお店です。Charonneという地下鉄の駅の近くにあるのですが、裏道を入っていって、え?こんなところにあるんだといった悪立地に立っています。
今回も再び行ってきました。
3年前と同じおじさんが接客してくれて、今回も3コースメニューを食べました。
前菜はスープかテリーヌで3年前と同じです。ただスープの内容もテリーヌの内容も変わっていました。
メインはウサギのローストかスズキのポアレでした。僕はウサギを、友人はスズキを取りました。
デザートはクレームブリュレかちょっと変わった味のケーキでした。
注文した後に、実は昔一度来たことがあるんだとおじさんに言うと、なんと!!「覚えてるよ。たしか学生さんで男友達何人かと一緒だったよね?」と言うのです。「え?本当ですか?3年前くらいですよ。」と言うと、「そんなに前か?たぶん覚えてるよ、なんとなくね。」と言うのです。
話の感じからして、どうやら本当に覚えていてくれたみたいでした。「あまり日本人のお客さんは来ないからね。しかもあの時みんな美味しそうに食べてたから、なんとなく覚えてるんだ」と言っていました。
びっくりしました。こんなに嬉しいことってそう滅多にありません。
今回も味は文句なく旨かったです。
La Table de Claireは僕のパリで一押しのブラッスリーです。
実は今回パリに来てから、すでに2度、アパートで料理を作りました。
ペンネクワトロフォルマッジョ、ミネストローネ、アクアパッツァ、ズッキーニのペンネトマトソースなどです。フランスに来て、イタリア料理ばかり作って食べています。フランス料理は面倒なので、作らないと思います。
2010年2月14日日曜日
Day16 ナイス、ナイス、ナイス!!!
五日間のアムステルダムの滞在も終わり、これからパリに向かいます。
実は、友人にもブリュッセルの素敵な街並みを見せてあげようと思い、もう一度ブリュッセルに立ち寄りました。今は、ブリュッセルからパリへ向かう列車の中で書いています。
アムステルダムは田舎っぽさの残る大都市。
ブリュッセルは洗練された都会的な小都市。
パリは文句なく世界に名を馳せるメトロポリス。
パリには過去に2回来たことがあるので、今回は3回目ということになります。
2005年の冬と2007年の冬、そしてまたしても冬のパリです。
セーヌ川から吹き込む風が冷たく、凍える寒さのパリです。
今回のパリ滞在では、実はアパート(フランスではアパルトマンというそうです)を借りています。ドミトリーと比べると、すこし宿泊費が高くつきますが、プライベートの部屋ほどではありません。兄とシェアをすること、立地なんかの条件も考えると、アパート住まいは有効な手段です。
これから1週間は「パリ7区にアパルトマンがあるから、遊びにおいでよ。」と言って歩けます。
楽しみです!!
ブリュッセルでは忘れていた、ベルギーワッフルを食べに行きました。
グランプラス広場から小便小僧へと続く道のホテルアミーゴの近くに、いかにも古くからやっている感じのワッフル屋があったので入ってみました。DANDOYというお店です。
お店に入ると、めちゃめちゃなお洒落をした黒人の店員(2、3センチのショートドレッドヘアで一つ一つのドレッドの色が変えてありました)がいて、こちらに「ボンジュール!コンニチワ!」と声をかけてきました。僕らも「こんにちは。ボンジュール!」といって、席に着きました。
僕はベルギーワッフルにアイスクリームを乗せたものを注文し、友人はベルギーワッフルにキャラメルがかかっているものを注文すると、その店員が「アイスクリームのフレーバーは何にする?」といって、早口に「バニラ、ストロベリー、チェリー、ショコラ、ピスタチオ、ラズベリー、クランベリー、ミルク、、、エトセトラエトセトラ」と言います。少し悩んで「ピスタチオ」を注文すると、一気に笑顔になって「ナイス、ナイス、ナイス!!!」と言って、手をたたき出しました。どうやら「ピスタチオ」という選択が通だったようです。そして、ノリの良い店員でした。その後、僕がトイレにたっている間に、他の客がチェリーやらバニラを注文しても「ナイス、ナイス、ナイス」は彼の口から出なかったと友人が言っていました。「ピスタチオ」はやはり通な注文だったようです。僕は少し嬉しくなりました。
このお店にはやたら日本人観光客がいて、僕らのほかに4組くらいいたように思います。僕の持っているガイドブックには載っていなかったので、きっとどこかで大きく取り上げられた有名店なのだろうと思いました。雰囲気も味も(ノリも)良い、素敵なワッフル店でした。
ベルギーで食べるのワッフルは日本で食べられるワッフルとは別物だというくらいに美味しかったです。新潟で食べる白米と東南アジアの田舎で出てくる白米くらいの差はあると思います。
やはりベルギーは素敵な国です。
実は、友人にもブリュッセルの素敵な街並みを見せてあげようと思い、もう一度ブリュッセルに立ち寄りました。今は、ブリュッセルからパリへ向かう列車の中で書いています。
アムステルダムは田舎っぽさの残る大都市。
ブリュッセルは洗練された都会的な小都市。
パリは文句なく世界に名を馳せるメトロポリス。
パリには過去に2回来たことがあるので、今回は3回目ということになります。
2005年の冬と2007年の冬、そしてまたしても冬のパリです。
セーヌ川から吹き込む風が冷たく、凍える寒さのパリです。
今回のパリ滞在では、実はアパート(フランスではアパルトマンというそうです)を借りています。ドミトリーと比べると、すこし宿泊費が高くつきますが、プライベートの部屋ほどではありません。兄とシェアをすること、立地なんかの条件も考えると、アパート住まいは有効な手段です。
これから1週間は「パリ7区にアパルトマンがあるから、遊びにおいでよ。」と言って歩けます。
楽しみです!!
ブリュッセルでは忘れていた、ベルギーワッフルを食べに行きました。
グランプラス広場から小便小僧へと続く道のホテルアミーゴの近くに、いかにも古くからやっている感じのワッフル屋があったので入ってみました。DANDOYというお店です。
お店に入ると、めちゃめちゃなお洒落をした黒人の店員(2、3センチのショートドレッドヘアで一つ一つのドレッドの色が変えてありました)がいて、こちらに「ボンジュール!コンニチワ!」と声をかけてきました。僕らも「こんにちは。ボンジュール!」といって、席に着きました。
僕はベルギーワッフルにアイスクリームを乗せたものを注文し、友人はベルギーワッフルにキャラメルがかかっているものを注文すると、その店員が「アイスクリームのフレーバーは何にする?」といって、早口に「バニラ、ストロベリー、チェリー、ショコラ、ピスタチオ、ラズベリー、クランベリー、ミルク、、、エトセトラエトセトラ」と言います。少し悩んで「ピスタチオ」を注文すると、一気に笑顔になって「ナイス、ナイス、ナイス!!!」と言って、手をたたき出しました。どうやら「ピスタチオ」という選択が通だったようです。そして、ノリの良い店員でした。その後、僕がトイレにたっている間に、他の客がチェリーやらバニラを注文しても「ナイス、ナイス、ナイス」は彼の口から出なかったと友人が言っていました。「ピスタチオ」はやはり通な注文だったようです。僕は少し嬉しくなりました。
このお店にはやたら日本人観光客がいて、僕らのほかに4組くらいいたように思います。僕の持っているガイドブックには載っていなかったので、きっとどこかで大きく取り上げられた有名店なのだろうと思いました。雰囲気も味も(ノリも)良い、素敵なワッフル店でした。
ベルギーで食べるのワッフルは日本で食べられるワッフルとは別物だというくらいに美味しかったです。新潟で食べる白米と東南アジアの田舎で出てくる白米くらいの差はあると思います。
やはりベルギーは素敵な国です。
Day15 オランダ料理について
どうもオランダにはオランダ料理というものがないらしい。
アムステルダム来てから、僕が食べたものを順にあげていくと、ピッツァマルゲリータ、炒飯、パンケーキ(オランダのパンケーキは、日本で言うものとは違って、クレープ生地の中に具材を挟んで、または乗せて食べるものです。フランスのガレットに近いようなものです)、炒飯、スパゲッティカルボナーラ、アルゼンチンリブロースステーキ、フィッシュ&チップス、ハンバーガー、炒飯です。
イタリアンが2回、中華が3回、アルゼンチン料理が1回、イギリス料理が1回、アメリカ料理?が1回、オランダ料理?が1回です。
ただ、パンケーキをオランダ料理と呼ぶかどうかということには少し疑問があります。確かにアムステルダムにはパンケーキハウスと呼ばれるパンケーキ専門店(といってもピッツァや肉料理、魚料理なんかも置いてあります)が数多くあります。パンケーキ料理という呼び方もオランダ独特のような気がします。ベルギーやフランスであれば、同じものをクレープ料理と呼んで、クレープリーというクレープ専門店で食べれるでしょう。イタリアならピッツェリアでピッツァになって出てくると思います。
ですが、オランダのパンケーキのメニュー表には例えば、マルゲリータ、カルボナーラ、カルツォーネ、フンギ(イタリア語でキノコ)、クワトロフォルマッジォなどとイタリアのピッツァやパスタの名前が並んでいて、もちろん味付けはイタリア風になっています。ピッツァの具材をパンケーキに挟んだだけという感じです。
ガイドブックを見てみても(地球の歩き方/オランダ・ベルギー・ルクセンブルク編)、オランダ料理のページに紹介されているオランダ料理はかなり怪しいものばかりです。
例えば、「アイツマイター, Uitsmijter」というものがあり、これはどこからどう見てもクロックムッシューです。説明にも「2切れの食パンの上にチーズやハムをのせ、さらに目玉焼きをのせたオランダ風オーブンサンドイッチ。云々…ボリュームたっぷり、栄養満点」と書かれています。食パンにチーズやハムをのせ、目玉焼きをのせて、どうしたらオランダ風になるのか、よくわかりません。きっとオランダで食べるからオランダ風なんでしょうか。
他にも、「ズールコール, Zuurkool」というものが紹介されており、「ドイツではザウワークラウトとして有名な、少し酸味のあるキャベツの酢漬け、オランダでもソーセージなどの付け合せに、よく登場する。ビタミンCが多く含まれているため、旅行中の野菜不足には欠かせない一品といえそう。」とあります。これは間違いなくドイツ料理のザウワークラウトです。
さらに度肝を抜かれるのが、オランダ料理というタイトルのページにこれらの料理とならんで、「インドネシア料理」と書かれていることです。「焼き鳥のようなサテや目玉焼きなどがのったチャーハンのナシゴレンなど親しみやすい料理も多い。」と説明されています。これは完全にインドネシア料理と言ってしまっています。
このようにガイドブックも苦肉の策を取らざるを得ないのがオランダの食事情なのです。
でも、なぜオランダには食文化が育たなかったのか、不思議でなりません。
17世紀の黄金時代に経済面や芸術面では世界中を圧倒していたのにもかかわらず、食文化がこれほど乏しいのはなぜなのでしょうか?
ネット上でみたある記事には、オランダ人にとっての食事は労働を終えた後に食べ、栄喜を養うためのものであったので、味付けにこだわるというよりも、栄養価の高い食事が優先されてきたというようなことが書いてありましたが、よくよく考えると、それはどこの国も同じことであるし、貴族階級と平民階級で食べるものが同じであるはずがないので、おかしなことです。
もしかすると食文化というものはもっと後の時代、例えば19世紀とかから注目され、洗練されていったのでしょうか?17世紀の栄華を最後に立ち直れずにいるオランダには食文化が育たなかったということでしょうか?でもやはりそれもおかしな気がします。
海もあって、チーズも有名、ビールも有名な国、オランダ。
でもなぜかオランダ料理がないのです。
※オランダには美味しいレストランがないというわけではありません。炒め物系ファストフードチェーンのWOK TO WALKには感動して3回も行きましたし、景色のいい洒落たレストランやカフェでも洗練された味の料理を食べる事だってもちろんできます。
さて、これからもう一度ブリュッセルに立ち寄って、パリに行きます。
パリでは世界3大料理の内の一つであるフランス料理が僕を待っていてくれます。
個人的には日本料理とフランス料理だけが、他の料理と絶対的な違いを有していると思っています。それは引き算の料理(出汁の抽出)だからです。
行きたいレストランもいくつかあります。
パリでは美味しいレストランについて、いくつかの日記を書こうと思います。
それでは。
アムステルダム来てから、僕が食べたものを順にあげていくと、ピッツァマルゲリータ、炒飯、パンケーキ(オランダのパンケーキは、日本で言うものとは違って、クレープ生地の中に具材を挟んで、または乗せて食べるものです。フランスのガレットに近いようなものです)、炒飯、スパゲッティカルボナーラ、アルゼンチンリブロースステーキ、フィッシュ&チップス、ハンバーガー、炒飯です。
イタリアンが2回、中華が3回、アルゼンチン料理が1回、イギリス料理が1回、アメリカ料理?が1回、オランダ料理?が1回です。
ただ、パンケーキをオランダ料理と呼ぶかどうかということには少し疑問があります。確かにアムステルダムにはパンケーキハウスと呼ばれるパンケーキ専門店(といってもピッツァや肉料理、魚料理なんかも置いてあります)が数多くあります。パンケーキ料理という呼び方もオランダ独特のような気がします。ベルギーやフランスであれば、同じものをクレープ料理と呼んで、クレープリーというクレープ専門店で食べれるでしょう。イタリアならピッツェリアでピッツァになって出てくると思います。
ですが、オランダのパンケーキのメニュー表には例えば、マルゲリータ、カルボナーラ、カルツォーネ、フンギ(イタリア語でキノコ)、クワトロフォルマッジォなどとイタリアのピッツァやパスタの名前が並んでいて、もちろん味付けはイタリア風になっています。ピッツァの具材をパンケーキに挟んだだけという感じです。
ガイドブックを見てみても(地球の歩き方/オランダ・ベルギー・ルクセンブルク編)、オランダ料理のページに紹介されているオランダ料理はかなり怪しいものばかりです。
例えば、「アイツマイター, Uitsmijter」というものがあり、これはどこからどう見てもクロックムッシューです。説明にも「2切れの食パンの上にチーズやハムをのせ、さらに目玉焼きをのせたオランダ風オーブンサンドイッチ。云々…ボリュームたっぷり、栄養満点」と書かれています。食パンにチーズやハムをのせ、目玉焼きをのせて、どうしたらオランダ風になるのか、よくわかりません。きっとオランダで食べるからオランダ風なんでしょうか。
他にも、「ズールコール, Zuurkool」というものが紹介されており、「ドイツではザウワークラウトとして有名な、少し酸味のあるキャベツの酢漬け、オランダでもソーセージなどの付け合せに、よく登場する。ビタミンCが多く含まれているため、旅行中の野菜不足には欠かせない一品といえそう。」とあります。これは間違いなくドイツ料理のザウワークラウトです。
さらに度肝を抜かれるのが、オランダ料理というタイトルのページにこれらの料理とならんで、「インドネシア料理」と書かれていることです。「焼き鳥のようなサテや目玉焼きなどがのったチャーハンのナシゴレンなど親しみやすい料理も多い。」と説明されています。これは完全にインドネシア料理と言ってしまっています。
このようにガイドブックも苦肉の策を取らざるを得ないのがオランダの食事情なのです。
でも、なぜオランダには食文化が育たなかったのか、不思議でなりません。
17世紀の黄金時代に経済面や芸術面では世界中を圧倒していたのにもかかわらず、食文化がこれほど乏しいのはなぜなのでしょうか?
ネット上でみたある記事には、オランダ人にとっての食事は労働を終えた後に食べ、栄喜を養うためのものであったので、味付けにこだわるというよりも、栄養価の高い食事が優先されてきたというようなことが書いてありましたが、よくよく考えると、それはどこの国も同じことであるし、貴族階級と平民階級で食べるものが同じであるはずがないので、おかしなことです。
もしかすると食文化というものはもっと後の時代、例えば19世紀とかから注目され、洗練されていったのでしょうか?17世紀の栄華を最後に立ち直れずにいるオランダには食文化が育たなかったということでしょうか?でもやはりそれもおかしな気がします。
海もあって、チーズも有名、ビールも有名な国、オランダ。
でもなぜかオランダ料理がないのです。
※オランダには美味しいレストランがないというわけではありません。炒め物系ファストフードチェーンのWOK TO WALKには感動して3回も行きましたし、景色のいい洒落たレストランやカフェでも洗練された味の料理を食べる事だってもちろんできます。
さて、これからもう一度ブリュッセルに立ち寄って、パリに行きます。
パリでは世界3大料理の内の一つであるフランス料理が僕を待っていてくれます。
個人的には日本料理とフランス料理だけが、他の料理と絶対的な違いを有していると思っています。それは引き算の料理(出汁の抽出)だからです。
行きたいレストランもいくつかあります。
パリでは美味しいレストランについて、いくつかの日記を書こうと思います。
それでは。
2010年2月13日土曜日
Day14 Dank u wel! AMSTERDAM!!!!!
アムステルダムは北ヨーロッパのベニスとも呼ばれています。
地図を見てみても、目に付くのは環状道路ではなく、環状運河です。
運河はアムステルダム中央駅を囲むように扇状に広がっていて、主に5本の大きな運河とそれを結ぶ数々の運河によって形成されています。
アムステルダムの街を歩くには大きな広場と運河を覚えておき、さらに方位磁石を持っていれば、地図なんか見なくてもだいたいのところには行けてしまいます。
扇状に広がる運河は中心から、シンゲル, Singel、へーレン運河, Herengracht、カイゼル運河, Keizersgracht、プリンセン運河, Prinsengracht、シンゲル運河, Singelgrachtの順になっています。シンゲルというのは「取り囲む」という意味で、内側のシンゲルは16世紀当時の城壁の外堀で、外側のシンゲル運河は17世紀に新しくできた城壁の外堀だそうです。
あとは有名な広場である、ダム広場、ムント広場、ライツェ広場の位置を頭に入れておけば、どこにだって行けてしまいます。
まずアムステルダムに到着した日に、トラムに乗ってホテルまで行き、夕食を食べに出かけながら、ホテルから駅までをトラムの線路沿いに歩いてみました。このときに5本の運河と3つの広場を通りました。ムント広場からダム広場への道が少しわかりにくく、何度かここで迷いましたが、そのかいもあって、もうアムステルダムの街はどこにだって自由に歩き回ることができます。トラムの路線もわかりやすいし、地下鉄もバスも簡単です。こんなわかりやすい街ってなかなかないです。
あとは友人が到着してから(10日から6日間、日本から友人が来ています。今は一人旅ではなく二人旅です)その日の夜にカナルクルーズに行きました。
地図を見ながらどこの運河を回って、どういうコースを辿っているか、運河沿いにはどんな建物や協会があるかといったことを見ながら(もちろん運河から眺めるライトアップされたアムステルダムの綺麗な街並みも!)90分のクルーズを終えるころには、もうアムステルダムに2年10ヶ月は住んでいるような感覚になります。アムステルダムのことだったら何だって聞いてくれって言いふらしながら歩きまわりたいです。
アムステルダムのいいところは、オランダのいいところでもあるのですが、人がみんな親切だということです。アジア人に対する差別的感覚がないのでしょうか?イギリスに行った時も、イタリアに行った時も、フランスに行った時も、みんな基本的には親切なのですが、やはりどことなくアジア人に対する見下し感のようなものを感じました。それは僕のネガティブで偏狭な性格のせいかもしれませんが、やはりヨーロッパにはアジアを侵略した歴史とともに、アジア人に対する人種差別的感覚が洗っても落とせないコーヒーカップの底にごびりついた茶色い滲のように無意識の奥に残っているような気がするのです。
でも、オランダに関しては、そういった感覚を一切感じませんでした。道行く人に道を尋ねても(もっとも僕はもうアムステルダムで道に迷うことなんてもうないのですが)、レストランの店員も、ホテルのスタッフも、駅にいる駅員もみんながみんな親切に接してくれました。
アムステルダムにはアンネ・フランクがドイツから亡命し、2年ほど隠れ住んでいたといういう家があります。ここは今ではアンネフランクミュージアムとして、アンネの日記と共に当時の様子が展示されていています。また、ユダヤ人だけにとどまらず、世界中かの人種差別撤廃運動の拠点にもなっているそうです。
アムステルダムは他の国や都市よりも早く、17世紀にはすでに超国際都市になっていたため、人種や宗教観、生活習慣の違いといったことを受け入れるモラルが蓄積され、そういった文化、見識面では他の都市を一歩も二歩もリードしているのではないかと感じました。
アムステルダム!電燈の灯りがちょっと暗くて、コーヒーショップの近くを歩くのは少し怖いけど、優しくて、温かく、気取らない、素敵な街!
またいつかこの街を訪れようと思います。
Dank u wel! Amsterdam!!!!!
2010年2月10日水曜日
Day13 アムステルダム美術館廻り
アムステルダムの2大美術館にいっきに行ってきました。
朝11時の開館を待ち、まずは国立ミュージアムとして知られるRijiks museumに行きました。ここにはフェルメールが3点、レンブラントが十数点、フランス・ハルスが数点所蔵されています。この3人はオランダ黄金時代の3大巨匠と呼ばれています。
オランダは1600年代半ばオランダ東インド会社を通じて得た莫大な富を背景にいっきに黄金時代へと駆け上ります。一時的にではあれ、当時の州提督であったウィレム3世はイギリスの王位を奪ったほどでした。今のニューヨークももともとはニューアムステルダムと呼ばれ、日本との貿易もこのころは盛んで、陶磁器や版画などが多く日本から輸入されていました。当時、世界の海(7つの海)を制していたのはオランダでした。
この黄金時代のオランダ共和国(ナポレオンに征服されてから、オランダ王国になります)の有力者達が、海軍力と貿易力を駆使して築いた莫大な富を使って贅を尽くした美術品、調度品などがこの国立ミュージアムに多く残されています。
当時はギルドという同業者組合のようなものがあって、各ギルドが自分達の建物に飾るための絵画を、例えばレンブラントなどの画家に描かせていました。
よほど当時のオランダ商人たちは裕福で浮かれていたのか、残されている作品の端々に余裕や笑い、浮かれた様子などが見て取れます。普通ポートレイト画に描かれている大人の男や女が白い歯を見せて笑っているなんてことは、大人の嗜みとしては恥ずかしい行為であったため、まず見られないそうですが、この時代の絵画に描かれている人物達は笑いを抑えるのに必死な様子です。
まぁ、そのとき浮かれすぎてしまったのでしょう。
この国立ミュージアムはあまり広くないので、2時間もあれば充分すぎるほどじっくり鑑賞することができます。
レンブラントの有名な「夜警」もここに収蔵されています。
またしてもWOK TO WALKでチャーハンを食べて、午後から、今日はかなり調子が良かったので、ゴッホ美術館に行きました。
美術館に行くと、小説の中の世界をじっくり考えながら読むのに似た疲労感を感じます。
ゴッホ美術館も意外と小さく、5年ほど前に東京で開かれたゴッホ展の方が、展示作品数も多かったように思います。それでもゴッホの生涯について、ゴッホが27歳の時に画家になってから、オランダでの出発から、アントワープ時代、パリ時代へと、ゴッホの画風がいっきに色彩に富んだ印象派的なものに変化していく様子が展示されています。その後、アルルへ行き、ゴーギャンとの決裂、耳を切り落としサンレミでの病院生活中に描かれた、感情付きの作品が展示され、1890年に亡くなるまでの最期の期間を過ごしたオーヴェールでの悲しいタッチの作品が最後に展示されています。オーヴェールで描かれた鳥のいる麦畑は精神状態に悪影響を及ぼすほど、悲しくて寂しいイメージを連想させる一枚でした。
僕が一番気に入った作品はサンレミ時代に弟のテオに息子(フィンセントという名前)が生まれたときに送ったアーモンドの木の花の絵でした。
今日は二つの美術館を見学して、芸術とオランダの歴史について少し勉強になりました。
今日もかなり寒かったのですが、がんばって何枚か写真を撮りましたので、アルバムにアップします。
書きませんでしたが、ベルギーでの写真もすでにアルバムにアップしてありますので、良ければ見てください。
◆アルバム(アムステルダム2010-1)
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Amsterdam20101#
2010年2月9日火曜日
Day12 WOK TO WALK
今日のアムステルダムはかなり冷え込みました。
朝、耳あてを忘れてジョギングに出かけてしまったため、ホテルに戻るときにはかなり頭が痛くなっていました。
朝食を食べて、シャワーを浴びてから、近くのコインランドリーに行ったのですが、生乾きだった髪の毛が凍りました。浜松ではありえない。
手袋と耳あてをつけないないと手と耳が痛くなるような寒さで、それでも風がないので、温かい格好さえしてしまえば、そんなに苦ではないです。でも寒さのせいもあって、写真を一枚も撮りませんでした。
旅行に来てから、何を食べても美味しく、今のところ食事でストレスを感じることは一度もありませんでした。ただ、ヨーロッパに来てから(毎回そうなのですが)、便がゆるくなります。汚い話ですみません。多分、食べるものと水のせいだと思うのですが、なぜでしょう?お腹を下しているというわけではないのですが、なぜか調子が悪いのです。
僕はこの不調の原因を①水、②米を食べていない、③食物繊維不足だと思い、今日は野菜と米を食べようと思って、WOK TO WALKに行きました。
WOK TO WALKはアムステルダム発の炒め物ファストフードチェーンで、チャーハンや焼きそば、焼きうどんなどを食べさせてくれます。
HP:http://www.woktowalk.com/en/
面白いのが注文方法です。
まず、メニュー表の左の欄にベースのメニューが載っています。
米にするのか、ソバにするのか、うどんにするのか、ビーフンにするのかなどが選べます。ここでは何を選んでも一律4.9ユーロです。
次に真ん中の欄にトッピングメニュー載っています。
豚肉1.8ユーロとか、蝦2ユーロとか、ブロッコリー1ユーロ、きのこ1ユーロ といった具合です。
最後に、右の欄に載っているソースを選びます。
TOKYO(てりやき)、BEIJIN(オイスター)、BANGKOKなどが書かれています。
しかもかなり旨い。そしてロゴがお洒落。
厨房が見えるようになっていて、3人がかりでどんどんチャーハンを炒めていきます。出来上がると名前を呼んでくれて、受け取ったら好きなところで食べます。
値段は少し高めですが、我らが吉野家に匹敵するレベルのファストフード店です。
ベースを選んで、トッピングを選んで、ソースを選ぶというアイディアが素晴らしいと思いました。
Facebookに公式ファンページもあって、そこではどんな組み合わせが旨いのかなどの、意見交換が行われています。ファン同士でどんどん掘り下げていくいい仕組みができています。
ヨーロッパの食事も美味しいのですが、やはりときどき醤油味の和食が食べたくなります。途中で合流する兄貴にぺヤングを一つ持ってきてもらおうかな。
朝、耳あてを忘れてジョギングに出かけてしまったため、ホテルに戻るときにはかなり頭が痛くなっていました。
朝食を食べて、シャワーを浴びてから、近くのコインランドリーに行ったのですが、生乾きだった髪の毛が凍りました。浜松ではありえない。
手袋と耳あてをつけないないと手と耳が痛くなるような寒さで、それでも風がないので、温かい格好さえしてしまえば、そんなに苦ではないです。でも寒さのせいもあって、写真を一枚も撮りませんでした。
旅行に来てから、何を食べても美味しく、今のところ食事でストレスを感じることは一度もありませんでした。ただ、ヨーロッパに来てから(毎回そうなのですが)、便がゆるくなります。汚い話ですみません。多分、食べるものと水のせいだと思うのですが、なぜでしょう?お腹を下しているというわけではないのですが、なぜか調子が悪いのです。
僕はこの不調の原因を①水、②米を食べていない、③食物繊維不足だと思い、今日は野菜と米を食べようと思って、WOK TO WALKに行きました。
WOK TO WALKはアムステルダム発の炒め物ファストフードチェーンで、チャーハンや焼きそば、焼きうどんなどを食べさせてくれます。
HP:http://www.woktowalk.com/en/
面白いのが注文方法です。
まず、メニュー表の左の欄にベースのメニューが載っています。
米にするのか、ソバにするのか、うどんにするのか、ビーフンにするのかなどが選べます。ここでは何を選んでも一律4.9ユーロです。
次に真ん中の欄にトッピングメニュー載っています。
豚肉1.8ユーロとか、蝦2ユーロとか、ブロッコリー1ユーロ、きのこ1ユーロ といった具合です。
最後に、右の欄に載っているソースを選びます。
TOKYO(てりやき)、BEIJIN(オイスター)、BANGKOKなどが書かれています。
しかもかなり旨い。そしてロゴがお洒落。
厨房が見えるようになっていて、3人がかりでどんどんチャーハンを炒めていきます。出来上がると名前を呼んでくれて、受け取ったら好きなところで食べます。
値段は少し高めですが、我らが吉野家に匹敵するレベルのファストフード店です。
ベースを選んで、トッピングを選んで、ソースを選ぶというアイディアが素晴らしいと思いました。
Facebookに公式ファンページもあって、そこではどんな組み合わせが旨いのかなどの、意見交換が行われています。ファン同士でどんどん掘り下げていくいい仕組みができています。
ヨーロッパの食事も美味しいのですが、やはりときどき醤油味の和食が食べたくなります。途中で合流する兄貴にぺヤングを一つ持ってきてもらおうかな。
2010年2月8日月曜日
Day11 Amsterdam
今はアントワープからアムステルダムへ向かう列車の中にいます。
ヨーロッパは森を切り開き、大地を作ってきた歴史があるので、車窓の外にはずっと大地が広がっていて、ときどき森が現れてもも、深い森ではなく、木々の隙間からかなり奥まで見渡すことができます。日本やアジアには深い森があって、ヨーロッパには深い森がないことと、日本人やアジア人に比べて欧米人の頭が薄いことにはなにかの因果関係があるのでしょうか。
アムステルダムは世界中からバックパッカーがあつまるエキサイティングな街です。
世界中のドミトリーや安ホテルを予約できるHostelbookers.comの人気都市ランキングでロンドンについで2位になっています。Inner Amsterdamというドミトリーをそのサイトから予約し、今日から5連泊する予定です。1泊10ユーロという格安のドミトリーなので、少し不安もありますが、過去に1泊8ポンドで泊まったエディンバラのドミトリーではAlexというスペイン人との素敵な出会いもあったし、こういうところならではの、楽しみがあるのではないかと思っています。
ところで、アムステルダムは世界中の若者が集まる国際都市であると共に、すこし危険な町でもあるそうです。マリファナなどのライトドラッグの使用が黙認され(厳密には使用は違法だそうです。2gmまでの所持は合法)、街中にあるCoffee Shopというところではライトドラッグが売られていたり、使用している人がいるそうです。また飾り窓地帯という売春街が街のど真ん中にあったりもします。
僕がInner Amsterdamを予約したときにも、そのサイトに“No Smoking, No Drug is allowed in our hostel.”と書かれていました。やはりドラッグが多く蔓延しているということなのでしょうか?
また、ガイドブック、地球の歩き方にも結構厳しいコメントが載っています。(もっとも地球の歩き方は少々主観的に過ぎるところもあるので、なんとも言えませんが)例えば、アムステルダムの治安についてというコラムがあって、そこには
“いわゆる飾り窓地域は観光名所にもなっているし、アメリカ人などは女性同士でケラケラ笑いながら見ていて実にアッケラカンとしている。しかし、だから安全とは限らない。この地域は麻薬売春のある地域になっていて、ピストルやナイフなど凶器を使った犯罪も起こる危険地帯だ。特に日本人は現金を持っているのが有名になってしまっているので、とりあえず現金欲しさで麻薬常習者に狙われやすい。こうした地域には近づかないのが賢明。言葉もろくにしゃべれないというのなら、なおさらのこと。ここは自分のことは自分で責任を負う国オランダだ。日本にいるときのような甘い考えは捨てなければならない。”
と書かれています。
どうやら日本人はバブルの時に豪遊しすぎてしまったのか、おかしな偏見を持たれているようです。オランダ語なんてしゃべれるはずもないので、とりあえず近づかないように(少なくとも夜間は)しなければいけません。
あと、こんな記述もありました。これについては僕はより批判的に意見をしたいと思っています。飾り窓地帯のまじめなお話というコラムには下記のように書かれています。
“波止場として栄えたアムステルダム。水夫たち相手の安酒場や売春宿が集中したのが中央駅から旧教会、ニューマルクトの計量所へ抜ける地区。俗に「飾り窓地帯」や「Red Light District」と呼ばれ、今もポルノショップ、セックスミュージアム、ポルノ映画館、ストリップ劇場、そして飾り窓がひしめいている。”
~中略(飾り窓地帯についての記述、そして)~
“アムステルダムはまた、「ゲイ・シティ」としてももうひとつの顔を持つ。ホモ・ゲイスポットも数多く、週末には革ジャンスタイルのマッチョなお兄さんたちのカップルが仲良く手をつないで歩く姿も見られる。この地帯は、市内でも最も危険な場所で麻薬の売人などが路上で取り引きしたりしている。”
~後略、云々。
これでは、まるでアムステルダムで革ジャンを着ているマッチョなやつはゲイだと言っているような気がしてしまいます。もしかすると本当にそうなのかもしれまんが、見た目でひとくくりにするべきではないと思うのです。つまり求められるべきモラルの問題として。また、ゲイが集まる地域あるといういう記述のすぐ後に、この地域は犯罪も多いなんて、まるでゲイが集まる街と犯罪率の高さに関連性があるかのような書き方です。飾り窓のことは飾り窓のことで書いて、ゲイのこと(どうしても書きたいなら)は別に書けばいいのだ!と思います。
確かに僕らの国ではゲイに対する偏見があるのは間違いないことだと思うし、僕自身もゲイに対して曇り一つない透き通った見方をしてるかと聞かれれば、そうではないと思います。でも個人的なレベルではなく、こういう全国的なガイドブックに偏見に繋がるような記述を載せるのは非常に無神経なことではないでしょうか。
願わくば訂正してもらいものです。
さて、そろそろアムステルダムに到着です。
どんな街なのか5日間かけてゆっくり見聞してみたいです。
とりあえず、たまった洗濯物を洗わなくちゃ!!
ヨーロッパは森を切り開き、大地を作ってきた歴史があるので、車窓の外にはずっと大地が広がっていて、ときどき森が現れてもも、深い森ではなく、木々の隙間からかなり奥まで見渡すことができます。日本やアジアには深い森があって、ヨーロッパには深い森がないことと、日本人やアジア人に比べて欧米人の頭が薄いことにはなにかの因果関係があるのでしょうか。
アムステルダムは世界中からバックパッカーがあつまるエキサイティングな街です。
世界中のドミトリーや安ホテルを予約できるHostelbookers.comの人気都市ランキングでロンドンについで2位になっています。Inner Amsterdamというドミトリーをそのサイトから予約し、今日から5連泊する予定です。1泊10ユーロという格安のドミトリーなので、少し不安もありますが、過去に1泊8ポンドで泊まったエディンバラのドミトリーではAlexというスペイン人との素敵な出会いもあったし、こういうところならではの、楽しみがあるのではないかと思っています。
ところで、アムステルダムは世界中の若者が集まる国際都市であると共に、すこし危険な町でもあるそうです。マリファナなどのライトドラッグの使用が黙認され(厳密には使用は違法だそうです。2gmまでの所持は合法)、街中にあるCoffee Shopというところではライトドラッグが売られていたり、使用している人がいるそうです。また飾り窓地帯という売春街が街のど真ん中にあったりもします。
僕がInner Amsterdamを予約したときにも、そのサイトに“No Smoking, No Drug is allowed in our hostel.”と書かれていました。やはりドラッグが多く蔓延しているということなのでしょうか?
また、ガイドブック、地球の歩き方にも結構厳しいコメントが載っています。(もっとも地球の歩き方は少々主観的に過ぎるところもあるので、なんとも言えませんが)例えば、アムステルダムの治安についてというコラムがあって、そこには
“いわゆる飾り窓地域は観光名所にもなっているし、アメリカ人などは女性同士でケラケラ笑いながら見ていて実にアッケラカンとしている。しかし、だから安全とは限らない。この地域は麻薬売春のある地域になっていて、ピストルやナイフなど凶器を使った犯罪も起こる危険地帯だ。特に日本人は現金を持っているのが有名になってしまっているので、とりあえず現金欲しさで麻薬常習者に狙われやすい。こうした地域には近づかないのが賢明。言葉もろくにしゃべれないというのなら、なおさらのこと。ここは自分のことは自分で責任を負う国オランダだ。日本にいるときのような甘い考えは捨てなければならない。”
と書かれています。
どうやら日本人はバブルの時に豪遊しすぎてしまったのか、おかしな偏見を持たれているようです。オランダ語なんてしゃべれるはずもないので、とりあえず近づかないように(少なくとも夜間は)しなければいけません。
あと、こんな記述もありました。これについては僕はより批判的に意見をしたいと思っています。飾り窓地帯のまじめなお話というコラムには下記のように書かれています。
“波止場として栄えたアムステルダム。水夫たち相手の安酒場や売春宿が集中したのが中央駅から旧教会、ニューマルクトの計量所へ抜ける地区。俗に「飾り窓地帯」や「Red Light District」と呼ばれ、今もポルノショップ、セックスミュージアム、ポルノ映画館、ストリップ劇場、そして飾り窓がひしめいている。”
~中略(飾り窓地帯についての記述、そして)~
“アムステルダムはまた、「ゲイ・シティ」としてももうひとつの顔を持つ。ホモ・ゲイスポットも数多く、週末には革ジャンスタイルのマッチョなお兄さんたちのカップルが仲良く手をつないで歩く姿も見られる。この地帯は、市内でも最も危険な場所で麻薬の売人などが路上で取り引きしたりしている。”
~後略、云々。
これでは、まるでアムステルダムで革ジャンを着ているマッチョなやつはゲイだと言っているような気がしてしまいます。もしかすると本当にそうなのかもしれまんが、見た目でひとくくりにするべきではないと思うのです。つまり求められるべきモラルの問題として。また、ゲイが集まる地域あるといういう記述のすぐ後に、この地域は犯罪も多いなんて、まるでゲイが集まる街と犯罪率の高さに関連性があるかのような書き方です。飾り窓のことは飾り窓のことで書いて、ゲイのこと(どうしても書きたいなら)は別に書けばいいのだ!と思います。
確かに僕らの国ではゲイに対する偏見があるのは間違いないことだと思うし、僕自身もゲイに対して曇り一つない透き通った見方をしてるかと聞かれれば、そうではないと思います。でも個人的なレベルではなく、こういう全国的なガイドブックに偏見に繋がるような記述を載せるのは非常に無神経なことではないでしょうか。
願わくば訂正してもらいものです。
さて、そろそろアムステルダムに到着です。
どんな街なのか5日間かけてゆっくり見聞してみたいです。
とりあえず、たまった洗濯物を洗わなくちゃ!!
Day10 音楽に言葉はいらない
ベルギー楽器博物館に行きました。
ブリュッセル初日の夜に外を散歩していたら、アールヌーヴォー風の洒落た建物があったので、おぉこれが噂に聞くブリュッセルのアールヌーヴォー建築かぁと思い、とりあえず写真に収めておきました。ホテルに戻って、翌日の計画をしているときに、先ほど写真に収めた建物がガイドブックに載っていて、楽器博物館だと紹介されていました。
僕の地元、浜松にも東洋一と言われる楽器博物館(ここは一度行く価値のある博物館です)があるので、見比べてみようと思い、今日、行くことにしました。
4ユーロ(26歳からは5ユーロ)を支払って、中に入ると、いかにも音楽家風な格好をした初老の(さらに小太りの)おじさんが、ヘッドフォンを渡してくれて、音声ガイドの説明をしてくれます。英語でいいかい?と聞くので、どうせ日本語なんてないだろうと思って、ええ大丈夫です。と答えたのですが、やっぱり英語の説明を聞くのは疲れるし、わからないことが多いので、一応借りるだけ借りて使わないなと思っていると、おじさんの説明では、展示されている楽器の前に立てば、ヘッドフォンからその楽器を使った音楽が流れてくるというのです。どうやら音楽に言葉なんて関係なかったみたいです。なんて素晴らしいアイディアなんだ!と感激しました。
展示されている楽器の前に立つと天井から電波をヘッドフォンが拾って、音楽が流れます。古代の楽器から、現代の楽器までいろいろな音色が流れ、小さい子供から若いカップル、年寄り夫婦までみんなヘッドフォンをつけてリズムに乗って体を揺すりながら流れる音楽を楽しんでいる様子でした。
僕が一番気に入った楽器は、名前はなんて言うんでしょうか、木製の笛の吹込口と吹出口の間に皮袋があって、演奏するときはあらかじめ皮袋を膨らませて、ときどきその皮袋の中の空気を押し出しながら演奏する管楽器です。おそらく中世ヨーロッパの時代に良く使われていた楽器だと思うのですが。FF5のBGMに使われていそうな音楽でした。
驚いたのは、最初の展示室の一番奥に任天堂のWiiが置かれていることです。オーケストラの指揮をするゲームがセットされていて、小さい男の子が母親に連れられ、必死にタクトを振っていました。コントローラーを上下左右に振ると、音楽が流れます。近くにいる人のヘッドフォンに彼の指揮するオーケストラが流れ、みんな顔をあわせて笑い合っていました。Wiiは偉大なゲームだと思いました。
この楽器博物館は博物館の展示方法や所蔵品だけでもお勧めできる素晴らしい博物館なのですが、もう一つお勧めできるポイントがあります。
入館するときにヘッドフォンの説明をしてくれたおじさんが「10階にはミュージアムレストランがあります、ここの眺めはとても良いから是非行ってみてね。」と勧めてくれました。実はガイドブックにも、“100年前、展望台として人気のあった最上階のレストランは、今でもブリュッセルの下町を一望できるとっておきのスポットだ。”と書かれています。
お昼ちょっと前にお腹が空いたので、いったん見学を中断して、ミュージアムレストランに食事をとりに行きました。La Plate de Jour(本日の一皿)10ユーロと炭酸水3.5ユーロを注文して、外の景色を眺めながら、ゆっくり食事ととりました。味も申し分なく、景色も素晴らしい!最高に贅沢な時間です。コーヒーも注文して、合計16ユーロ(約2000円)でした。2000円で手に入れられる贅沢を競い合う大会を開いたら見事に入賞できるような贅沢な時間でした。
ただ、荷物をクロークに預けないといけなかったので、カメラがなく、写真を取れなかったのが残念です。
女性を連れて行くには絶好の場所ですので、もしブリュッセルに行くことがあれば、是非行ってみてください。
今は夜の10:30なのですが、この旅行を始めてから、かなり規則正しい生活を送っています。一人なので、遅くまでお酒を飲みに行くなんてこともなく(もともとお酒はそんなに飲まないのですが)、さらに、どこにも僕の生活を邪魔する人がいないので、朝7時にはきちんと起きて、夜12時に寝ているというどこまでも健全な日々を送っています。
僕はミツバチのようにまじめな人間なので、もともと規則性や統一性といったものが好きなのです。旅行が終わってからも、ちゃんと規則正しい生活を送りたいものです。
一つ問題があるとすれは、重度のWiFi依存症だということでしょうか。WiFiが使えず、ネットに接続できない時は、ストレスを感じ、不安になります。
※アントワープのユースホステルでWiFiが有料だったため、次のアムステルダムのホステルでこの日記を投稿しました。
2010年2月6日土曜日
Day9 Mooooooooooules au Vin Blanc!!!!!
6時30分に目が覚めてから、朝食を食べ、新着メールのチェックをし、いくつかに返信して、Googleでニュースをいくつか読み、ブリュッセル公園までジョギングして、腕立て伏せを合計40回して、シャワーを浴び、歯を磨き、髭を剃り、髪をセットして、10時にホテルを出発しました。
ホテルを出発して、まずは王立美術館に行きました。王立美術館と新しくできたマグリット美術館の共通入場券を買い、両方の美術館を見学しました。王立美術館にはフランドル派のルーベンスやファンダイク、ブリューゲルなんかの作品が多く所蔵され、レンブラントも1点あり、その他にもバロック派の絵画からモダンアートまで幅広く所蔵されていました。隣にあるマグリット美術館はその名の通り、マグリットの作品がかなりの数、所蔵されていました。ルネ・マグリットは「印象の魔術師」と呼ばれているらしく、まさに世界に魔法をかけたような作品ばかりでした。首のない男の胴体部分がくりぬかれ、中に青空が描かれていたり(その作品の名はThe Therapistでした)、空から無数のマグリット本人(と思われる人物)が雨のように降り注いでいたり(Golconde)、空は青々と晴れ渡っているのに、地上は暗く、その中で電燈の灯りが闇を照らしている作品(The Empire of Lightsというタイトルで、僕はこの作品が一番気に入りましたが)、など、シュルレアリスム、意味不明な作品ばかりでした。シュルレアリスムの作品(他のモダンアートなんかもそうだけど)を見ると、何か意味を探ろうとしてしまうので、必要以上に疲れます。
そして意味は何一つ読み解けない。
GolcondeとThe Empire of Lightsのポストカードをミュージアムショップで買ったので、運のいい友人(或は運の悪い友人)が近々受け取ることになります。
その後、街行く人々をよく観察し、どこのレストラン、ブラッスリー、タベルナ(タベルナとは食べるな!!ではなく、軽食堂のことをいいます)が旨いのかを見極め、一軒のタベルナに入りました。知らない土地で旨いレストランを探すのには、①写真つきのメニューが出ていない、②観光地として一等地にあるところは避ける、③裏道、または少し離れたところで客の出入りが激しいところを選ぶ、④観光客と地元の人の割合が2:8くらい(これは僕の経験則ですが)などです。あとは道行く地元の人、数人に旨いところはないかと聞くのもありだと思います。僕はじっくり時間さえかければ、どの街に行っても旨いレストランにありつける自信があります。
そんなことをして、旨いタベルナで遅めの昼食をタベ、午後は街をふらふらして過ごしていました。観光名所のグランプラス広場や小便小僧など、とりあえずひととり見ておきました。
さて、ここからがこの日記の本題(やっと本題です)に入ります。
僕が好きな料理のトップ10に入っている、Moules au Vin Blanc(ムール貝のワイン蒸)がベルギーをはじめとするベネルクス地方の名物だと知ったのはフランクフルトからアムステルダムに向かう飛行機の中でした。それを知ったとき、僕は小さく声を出してしまうほど、興奮し、必ず食べなくては!と決めていました。
学生のころ住んでいた8畳ほどの小さなアパートで友人を呼んでホームパーティーをしたとき、近所のスーパーでよくムール貝を買ってきて、ワイン蒸にして振舞ったことを思い出します。そのときは残ったスープを使って、エビやアサリを入れてリゾットを作ったっけ。
昨晩は少し疲れていたので、ムール貝は今日に取っておくことにして、そして今日、念願の念願のMoules au Vin Blancを食べてきました。
一つ目のムール貝は身をフォークでほじくり出して食べ、二つ目からは一つ目のムール貝の殻をハサミのように使ってばくばく食べていきます。中にバレーボールがすっぽり入るくらいのバケツのような鍋(ムール貝専用鍋)にあふれんばかりのムール貝が入って運ばれてきたときの感動と興奮は言いようもありません。こんなにムール貝ばっか食べられないよぉと思いながら、もくもくとムール貝を食べ進んでいきます。最後の貝がなくなるころには、なぜもっとゆっくり食べなかったのか!と後悔が始まりますが、実は殻からこぼれ落ちたムール貝の身達が白濁のスープのなかに(まさに文字通り)身を潜めているので、最後の殻がなくなってからも、まだいくつか食べることができるのですっ!!
僕は適当にハーブを入れるのですが、ここではハーブとさらに玉ねぎとセロリも一緒に蒸してありました。セロリが効いていたのがさらに旨かったです。
アムステルダムやパリでも食べられるので、あともう一回くらいは食べに行こうと思います。
今日は幸せをお腹にいっぱい入れて早々に寝ようと思います。
2010年2月5日金曜日
Day8 疲れたー!!!
3日の現地時間19:30発(日本時間21:30)の飛行機でシェムリアップを後にし、バンコクでルフトハンザ航空に乗り継ぎ、一気にフランクフルトに着いたのが、現地時間4日の5:30(日本時間13:30)でした。そこからもう一度飛行機に乗ってアムステルダムに着いたのが、現地時間9:30(日本時間の17:30)、バーガーキングで遅めの昼食を食べた後、アムステルダム スキポール空港から電車に乗って、ブリュッセルに到着したのが、現地時間13:30(日本時間21:30)でした。
今日は丸一日移動でした。
めちゃめちゃ疲れたーーー!!!
バンコクからルフトハンザ航空に乗ると、日本人は僕一人になりました。
シェムリアップからバンコクまでは結構沢山日本人もいて、となりに座った男性が旅行会社勤務の方で、格安旅行なんかにもめちゃめちゃ詳しく、いろいろお勧めを教えてもらいました。
彼は仕事をしながらも休みをとって、今回は6日間でシェムリアップとバンコクに遊びに来ているといっていました。ジャマイカなんかにも行ったことがあると言っていました。すごい。
話を戻して、ルフトハンザ航空の中で、僕は隣に座ったドイツ人の悪そうなおっさんとの肘掛取り合戦に敗れてしまい、狭い思いをしながら、12時間ほどのフライトに耐えなければなりませんでした。
しかもさらに悪いことにそのおっさんが風邪を引いているのか、インフルエンザなのか知りませんが、マスクもつけずに思いっきり咳をしてました。インフルエンザはおろか、風邪さえもうつされては困るのに、飛行機はほぼ満席で逃げ場もなく、とにかく毛布に包まって反対側を向いていました。
周りにアジア系の人が沢山いれば、こっちも少しは強気になれるのに、白人ばかりだと少し及び腰になってしまいます。良くないことです。
まぁ何はともあれ、無事にブリュッセルまで着いて、疲れはあるものの、体調はまずまずです。
今17:00頃になります。もうすぐ日が沈みそうです。
これから広場を見に行って、そのまま何か美味いものでも食べに行こうと思います。
それでは、また。
今日は丸一日移動でした。
めちゃめちゃ疲れたーーー!!!
バンコクからルフトハンザ航空に乗ると、日本人は僕一人になりました。
シェムリアップからバンコクまでは結構沢山日本人もいて、となりに座った男性が旅行会社勤務の方で、格安旅行なんかにもめちゃめちゃ詳しく、いろいろお勧めを教えてもらいました。
彼は仕事をしながらも休みをとって、今回は6日間でシェムリアップとバンコクに遊びに来ているといっていました。ジャマイカなんかにも行ったことがあると言っていました。すごい。
話を戻して、ルフトハンザ航空の中で、僕は隣に座ったドイツ人の悪そうなおっさんとの肘掛取り合戦に敗れてしまい、狭い思いをしながら、12時間ほどのフライトに耐えなければなりませんでした。
しかもさらに悪いことにそのおっさんが風邪を引いているのか、インフルエンザなのか知りませんが、マスクもつけずに思いっきり咳をしてました。インフルエンザはおろか、風邪さえもうつされては困るのに、飛行機はほぼ満席で逃げ場もなく、とにかく毛布に包まって反対側を向いていました。
周りにアジア系の人が沢山いれば、こっちも少しは強気になれるのに、白人ばかりだと少し及び腰になってしまいます。良くないことです。
まぁ何はともあれ、無事にブリュッセルまで着いて、疲れはあるものの、体調はまずまずです。
今17:00頃になります。もうすぐ日が沈みそうです。
これから広場を見に行って、そのまま何か美味いものでも食べに行こうと思います。
それでは、また。
2010年2月4日木曜日
Day7 アジアよさらば
今日は郊外の遺跡、ベンメリアに行くことを諦め、近くのマーケットでゆっくり過ごすことにしました。
ホテルで自転車を借りて、15分くらい漕ぐと、オールドマーケットというエリアに到着します。
特に買いたいものがあるわけでもなく、ぶらぶらとお店を眺めながら歩いていると、店員から声をかけられます。ちょっと気になったものがあって、値段を聞いてみると、結構高い値を言ってきます。特に買いたいわけでもないので、ふーんと言って、立ち去ろうとすると、幾らなら買うんだ?と聞いてきます。幾らでも買うつもりはないんだけど、とりあえず問答に乗ってみようと思って、7割引くらいの値段を言ってみます。すると、それじゃあ無理だ、と言って、最初の言い値の半額くらいの金額を提示してきます。おいおいいきなり半額になるのかと思って、すこし面白くなり、6割半引きくらいでどう?と聞くと、今度は6割引くらいになります。あっさり値段を下げるところをみると、まだまだこれくらいの値段で売れればかなり儲けがあるようです。立ち去ろうとすると、僕の提示した6割半引きでいいと言ってきます。でも、もともと欲しくもなんともないヒンドゥー教の人形だったので、いらないよと言って、その場を立ち去りました。
特にすることもなかった上に、最初の問答が少し面白かったので、次のお店では最初は8割引くらいでふっかけてみようという気になり、次のお店では言い値の8割引を提示してみました。同じような問答があって、最後に僕がお店を去ろうとすると7割引くらいまで下がります。
あるお店ではTシャツが1枚5ドルというので、うーんと顔をしかめてみると、日本語で「大丈夫大丈夫、ここからディスカウントするから」と言ってきます。そんなことを堂々と言っていいのか?と思ったのですが、とりあえず、はははと笑ってごまかし、お店を去りました。
なんだか、深夜特急の沢木耕太郎になったみたいな気分でした。
適当にマーケットを流し見した後、昼食を食べるために近くのお店に入りました。パブストリートというところがあって、文字通り、西洋風のパブやバー、レストランが並んでいます。客層も白人客が圧倒的に多いところです。クメールキッチンというレストランがガイドブックに載っていた上に、ホテルのスタッフにどこかいいレストランはないかな?と聞いたときにクメールキッチンにみんな行くよ、と言っていたので、そのお店に入りました。味はまずまずでした。でも料金は3ドル程度だったので、安上がりで助かりました。
その後は近くのバーでハッピータイムをやっていて、ドラフトビール、0.5ドルだったので、ビールを飲みながら本を読んで、のんびり過ごしました。持ってきた短編小説のファミリー・アフェアを、渡辺昇がバイクに乗って、そよ風と共にやってくるあたりから読みはじめました。
「カンボジアで読むべき本」の部門でブービー賞を取れるような内容でしたが、僕はこの短編をえらく気に入っているので、読みながら時々、笑いをこぼしてしまいました。
夏の日のキリギリスになったような気分でした。
今、バンコクのスワンナプーム空港にいて、今日の日記を書いています。
23:55発のルフトハンザ航空に乗って、これからアムステルダムまで行きます。
アムステルダムに着くのが明日の9:30(現地時間)なのですが、着いたときに元気であれば、一気にブリュッセルまで行ってしまおうと思っています。
2010年2月3日水曜日
Day6 トゥクトゥクで郊外へ
滞在しているホテルで、僕の世話をしてくれる(担当になっている)Asean(アシーン)というスタッフがて、なかなか親切でとてもいいやつです。
空港まで迎えに来てくれたのも彼だし、チェックインの手続きをしたり、貸し自転車を持ってきてくれたりしたのも彼です。チェックインの時には僕のシェムリアップ滞在予定を聞いてくれ、決まっていないというと、お節介なくらい丁寧に計画を練ってくれました。
今日はトゥクトゥクをチャーターして郊外にある遺跡を回ることにしていたのですが、トゥクトゥクを運転してくれたのも彼でした。
少し小さめの一人乗用のトゥクトゥクに乗って、街中を離れどんどん郊外へ行きます。
午前中に2つの遺跡を見学した後、次の目的の近くで昼食を食べました。親切にしてもらったので、彼の分も払ってあげました。僕はフライドチキンのレモングラス風味を彼はカンボジアスープを食べました。
食事をしながら彼といろいろ話していると、兄が2人いて、妹が2人いること、恋人はお金がないのでいないこと、朝と夜にプライベートスクールに通っていること、中国人が苦手だということなど、彼の人となりがだんだんわかってきました。
僕よりも4つも若く、21歳だというのに、大変しっかりしている男で、最初、僕と同じ年または一つか二つくらい上だと思っていました。
昼食の後はちょっとしたトレッキングをして、山の中にあるクバールスピアンという遺跡を見学しました。
そこは川の中に無数のサンガが埋めてあって、流れる水を神聖なものにしているそうです。
山から戻ってくると、トゥクトゥクで気持ちよさそうに寝ているAseanを起こして、来た道を引き返します。夕日が沈むのを見る絶景の場所に行く予定だったのですが、まだ時間が早かったため、途中、地雷博物館に寄りました。なかなか深刻な問題を抱えているみたいです。
夕日が沈むのを見て、今日の観光は終わりです。
ホテルに戻って、シャワーを浴びた後、近くのレストランまで歩き、一人で食事をして、アンコールビールを一本飲みました
実を言うと、今日はカンボジアの暗いところや、それに対する観光客のマナーの悪さなど、すこし気分の悪いものをいくつか見てしまいました。後進国に来ると、普段の生活では目にしないような残酷で気味が悪い現実を目にすることがあります。世界にはいろいろな人がいて、いろいろな問題を抱えながら暮らしているみたいです。まぁ日本には日本にしかない、残酷な現実があったりもするのですが。
明日がカンボジア滞在の最終日です。
明日の夜の飛行機で一気にアムステルダムに向かいます。
暗いニュースを読み終えたニュースキャスターが、満面の笑顔に切り替えて、CMの後はスポーツニュースです。というように、次のフライトのあとはヨーロッパです!とスイッチを切り替えて行こうと思います。
◆スライドショー シェムリアップ2日目
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/SiemReap2#slideshow/
空港まで迎えに来てくれたのも彼だし、チェックインの手続きをしたり、貸し自転車を持ってきてくれたりしたのも彼です。チェックインの時には僕のシェムリアップ滞在予定を聞いてくれ、決まっていないというと、お節介なくらい丁寧に計画を練ってくれました。
今日はトゥクトゥクをチャーターして郊外にある遺跡を回ることにしていたのですが、トゥクトゥクを運転してくれたのも彼でした。
少し小さめの一人乗用のトゥクトゥクに乗って、街中を離れどんどん郊外へ行きます。
午前中に2つの遺跡を見学した後、次の目的の近くで昼食を食べました。親切にしてもらったので、彼の分も払ってあげました。僕はフライドチキンのレモングラス風味を彼はカンボジアスープを食べました。
食事をしながら彼といろいろ話していると、兄が2人いて、妹が2人いること、恋人はお金がないのでいないこと、朝と夜にプライベートスクールに通っていること、中国人が苦手だということなど、彼の人となりがだんだんわかってきました。
僕よりも4つも若く、21歳だというのに、大変しっかりしている男で、最初、僕と同じ年または一つか二つくらい上だと思っていました。
昼食の後はちょっとしたトレッキングをして、山の中にあるクバールスピアンという遺跡を見学しました。
そこは川の中に無数のサンガが埋めてあって、流れる水を神聖なものにしているそうです。
山から戻ってくると、トゥクトゥクで気持ちよさそうに寝ているAseanを起こして、来た道を引き返します。夕日が沈むのを見る絶景の場所に行く予定だったのですが、まだ時間が早かったため、途中、地雷博物館に寄りました。なかなか深刻な問題を抱えているみたいです。
夕日が沈むのを見て、今日の観光は終わりです。
ホテルに戻って、シャワーを浴びた後、近くのレストランまで歩き、一人で食事をして、アンコールビールを一本飲みました
実を言うと、今日はカンボジアの暗いところや、それに対する観光客のマナーの悪さなど、すこし気分の悪いものをいくつか見てしまいました。後進国に来ると、普段の生活では目にしないような残酷で気味が悪い現実を目にすることがあります。世界にはいろいろな人がいて、いろいろな問題を抱えながら暮らしているみたいです。まぁ日本には日本にしかない、残酷な現実があったりもするのですが。
明日がカンボジア滞在の最終日です。
明日の夜の飛行機で一気にアムステルダムに向かいます。
暗いニュースを読み終えたニュースキャスターが、満面の笑顔に切り替えて、CMの後はスポーツニュースです。というように、次のフライトのあとはヨーロッパです!とスイッチを切り替えて行こうと思います。
◆スライドショー シェムリアップ2日目
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/SiemReap2#slideshow/
2010年2月2日火曜日
Day5 アンコール・ワットへの道は思ったより遠い
香港で結構疲れが溜まったので、今朝はホテルのテラスで朝食を食べながらのんびり過ごしました。
主にインターネットをしていました。Googleニュースをチェックしたり、ブログを更新したり、いろいろやることがあります。
午後からレンタサイクルで観光に出かけました。
昨日、ホテルに到着したときに、受付をしてくれたスタッフが、シェムリアップではどんな予定で過ごすの?と聞くので、実は特に考えてないんだ。と言うと、そいつは普通じゃない、一緒に考えてあげるよ。と言って、どこに行かないといけないとか、どんな方法でどれくらいかかるかといったことを細かく教えてくれました。
今日は彼に言われたとおりに自転車を借りて、アンコール・ワット、アンコール・トム、タ・プロームの順に回ることにしました。
11時過ぎにホテルを出発して、国道6号線に出ると、いきなり、右に行けばいいのか、左に行けばいいのかわからなくなりました。ガイドブックの地図と時計に付いているコンパスを見ればすぐにわかるのですが、いちいちリュックの中からガイドブックを取り出すのが面倒だったので、道端でパンを売っているおばさんに聞いてみました。とりあえず左に行けばいいと言うので、そのまま国道を進んでいたのですが、行けども行けども寺院らしきものがありません。不安になってきたところで、また道端で果物を売っているおじさんに道を尋ねると、だいぶ戻らないといけないよと言われました。どうも一本目の交差点を左折だったみたいです。
がんばって自転車を漕いで、汗だくになりながら、なんとかその交差点まで行きます。今度は間違えるまいと思って、交差点にいた警察官に道を尋ねると、ここで正解のようでした。
あまりにも行き当たりばったりの行動に呆れてしまいました。
チケットブースでアンコール遺跡3日券を40USDで購入して、最初の目的地、アンコール・ワットへ行きました。
物売りを払いながら、自転車を停め、いよいよアンコール・ワットへ入ります。
アンコール・ワットは12世紀半ばジャヤヴァルマン2世(とその大工さん達)によってに作られたクメール王朝の寺院で、たった150年ほど前にフランス人考古学者によって発見されたそうです。
そう考えると、アトランティスやムー大陸の話もまんざら嘘ではないのかもしれません。
かなり広い寺院で、日本で言うと、伊勢神宮なみの規模ではないかと思います。
壁画や彫刻がいたるところにちりばめられていて、ちゃんと見ようと思えば一日中いてもまったく足りないんじゃないでしょうか。でもヒンドゥー教のストーリーはほとんど知らないので、適当に写真とりながら、とりあえず一週して出てきました。
遺跡の写真をどう撮ればいいのか、どんな構図で撮ると格好いい写真になるかがわからなかったので、とにかく沢山撮りました。
写真はWebアルバムに保存してあるので、よかったら見てください。
◆スライドショー シェムリアップ1日目
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/SiemReap20101#slideshow/
続いて、アンコール・トムに行きます。
アンコール・ワットから北上すること、約20分、林を抜けた先にアンコール・トムの南大門が見えてきます。
アンコール・トムは、アンコールの大きな町という意味で、日本で言うところの平城京のようなところだそうです。アンコール・トムは12世紀末にジャヤヴァルマン7世によって作られた城都です。アンコール・ワットはヒンドゥー教なのに対し、アンコール・トム内の中心を成している寺院、バイヨンは大乗仏教の寺院です。トム内にある他の寺院は仏教のものもあれば、ヒンドゥー教のものもあります。
もともとヒンドゥー教の前身的な宗教であった、バラモン教を否定する形で仏教が生まれた(と思う)はずなので、この辺りの関係がよくわからないところです。知らないことはしっかりと勉強しないといけません。
バイヨンに付いたところで、腹が減ったので、寺院の向かいにあるみやげ物屋に併設しているオープンエアレストラン(屋台)に入りました。食中毒などは心配でしたが、空腹には変えられず、ええい食べてしまえ、と思って、そこで野菜ヌードルを食べました。空腹に効いたのか、かなり美味しかったです。
お店の女の子がとても親切で、かわいらしく、いろいろ質問をしてきてくれるので、その子といろいろ話しながら、食事をしました。15歳から25歳くらい(年齢は本当に不詳です)の子で、一人で旅行している日本人はほとんど見たことがないと言って、面白がって旅行の話を聞いてくれました。
僕と彼女、どちらが人生を一生懸命生きているかわからないのに、僕と彼女の間には絶対的な格差があって、僕はそのことで少し申し訳ない気持ちになりました。
食事をしていると4、5才くらいの小さな男の子が、ポストカードを持って、もう少し年上の女の子が扇子とか、笛とかそういった民芸品を持って売りに来ました。
どちらもいらなかったので、ありがとう、でもいらないんだと言って断ると、女の子はがっかりした様子で離れていき、男の子は僕のテーブルの前の席に座り、僕と会話をしていた女の子の方を見上げていました。
どうやら家族でそこの土産物屋兼食堂をやっているみたいです。(他の寺院の前にも同じようなスタイルの土産物屋兼食堂があって、やはり家族で経営しているみたいでした)
女の子に、家族なの?と聞くと、弟だよと言うので、何も買ってあげなくてごめんねと言うと、それはいいのよ、と言ってくれました。
男の子に写真をとってもいいかな?と聞くと、照れくさそうに笑って、Yesと言います。カメラを向けると持っていたポストカードで顔を隠した後、頭の上にポストカードを乗せて、笑ってくれました。カンボジアの子供は本当に純粋です。
バイヨンは日本で言うところの須弥山で、古代インドの神々が住む神聖なところだそうです。
アンコール・ワットよりも朽ちていて、ところどころに修復中のため立ち入り禁止の表示が出ていました。
バイヨンの中心に向かって十字の回廊があり、そこを進んでいくと、現地の人が数人、僧侶の唱えるお経の前で合唱をしていました。白人の観光客が遠巻きに見ている中、少しだけ中に進むと、お祈りしていた人が、中に座りなさいと手招きするので、なんとなく断りづらく、空いているスペースに膝を着き、周りと同じように合唱をしました。
2メートル半四方くらいの狭い空間で、僧侶と僕を含めて8人くらいがそこにいました。僧侶の唱えるお経はカンボジアの言葉か梵語だったので、まったく何のことだかわからなかったのですが、ぱちぱちという線香と蝋燭の音と混ざって、妙に神聖な感じを受けました。区切りがついたところで、立ち上がり、手を合わせてお辞儀をして、その場を去りました。
バイヨンを見学し終わった後は、トムないの他の遺跡、像のテラスとか死者の門なんかを適当に見て、次の目的地のタ・プロームに向かいました。
最初に道を間違えたこともあって、この時点でかなり疲れていましたが、いまさら引き返せないので、がんばって自転車を漕ぎました。
タ・プロームはバイヨンよりもさらに劣化の激しい遺跡で、崩れた石材の山がいたるところにあります。さらに、木が遺跡を捕り込むように育ち、人工物と自然の妙な調和が神聖さを倍増させているように思えます。日本で言うところのワンピースの空島の世界です。
タ・プロームの前の土産物屋でコーラを買って、エネルギーを補給したら、あとはホテルに向けて帰るだけです。が、すでにかなり疲れていたことと、ここからホテルまでが一番遠いこともあって、帰り道は泣きそうになりながら、自転車を漕ぎ続けました。
自転車を漕いでいるうちに日も暮れ、暗くなった道を一人もくもくと進みました。
結局この日は、道を間違えたこともあって、少なくても60キロは走り巻いた。自転車のサドルがかなりボロかったため、お尻をかなり痛めました。
明日はトゥクトゥクをチャーターして、のんびり快適な旅行をしようと思います。
それでも今日はいろいろ貴重な体験ができた、いい一日でした。
主にインターネットをしていました。Googleニュースをチェックしたり、ブログを更新したり、いろいろやることがあります。
午後からレンタサイクルで観光に出かけました。
昨日、ホテルに到着したときに、受付をしてくれたスタッフが、シェムリアップではどんな予定で過ごすの?と聞くので、実は特に考えてないんだ。と言うと、そいつは普通じゃない、一緒に考えてあげるよ。と言って、どこに行かないといけないとか、どんな方法でどれくらいかかるかといったことを細かく教えてくれました。
今日は彼に言われたとおりに自転車を借りて、アンコール・ワット、アンコール・トム、タ・プロームの順に回ることにしました。
11時過ぎにホテルを出発して、国道6号線に出ると、いきなり、右に行けばいいのか、左に行けばいいのかわからなくなりました。ガイドブックの地図と時計に付いているコンパスを見ればすぐにわかるのですが、いちいちリュックの中からガイドブックを取り出すのが面倒だったので、道端でパンを売っているおばさんに聞いてみました。とりあえず左に行けばいいと言うので、そのまま国道を進んでいたのですが、行けども行けども寺院らしきものがありません。不安になってきたところで、また道端で果物を売っているおじさんに道を尋ねると、だいぶ戻らないといけないよと言われました。どうも一本目の交差点を左折だったみたいです。
がんばって自転車を漕いで、汗だくになりながら、なんとかその交差点まで行きます。今度は間違えるまいと思って、交差点にいた警察官に道を尋ねると、ここで正解のようでした。
あまりにも行き当たりばったりの行動に呆れてしまいました。
チケットブースでアンコール遺跡3日券を40USDで購入して、最初の目的地、アンコール・ワットへ行きました。
物売りを払いながら、自転車を停め、いよいよアンコール・ワットへ入ります。
アンコール・ワットは12世紀半ばジャヤヴァルマン2世(とその大工さん達)によってに作られたクメール王朝の寺院で、たった150年ほど前にフランス人考古学者によって発見されたそうです。
そう考えると、アトランティスやムー大陸の話もまんざら嘘ではないのかもしれません。
かなり広い寺院で、日本で言うと、伊勢神宮なみの規模ではないかと思います。
壁画や彫刻がいたるところにちりばめられていて、ちゃんと見ようと思えば一日中いてもまったく足りないんじゃないでしょうか。でもヒンドゥー教のストーリーはほとんど知らないので、適当に写真とりながら、とりあえず一週して出てきました。
遺跡の写真をどう撮ればいいのか、どんな構図で撮ると格好いい写真になるかがわからなかったので、とにかく沢山撮りました。
写真はWebアルバムに保存してあるので、よかったら見てください。
◆スライドショー シェムリアップ1日目
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/SiemReap20101#slideshow/
続いて、アンコール・トムに行きます。
アンコール・ワットから北上すること、約20分、林を抜けた先にアンコール・トムの南大門が見えてきます。
アンコール・トムは、アンコールの大きな町という意味で、日本で言うところの平城京のようなところだそうです。アンコール・トムは12世紀末にジャヤヴァルマン7世によって作られた城都です。アンコール・ワットはヒンドゥー教なのに対し、アンコール・トム内の中心を成している寺院、バイヨンは大乗仏教の寺院です。トム内にある他の寺院は仏教のものもあれば、ヒンドゥー教のものもあります。
もともとヒンドゥー教の前身的な宗教であった、バラモン教を否定する形で仏教が生まれた(と思う)はずなので、この辺りの関係がよくわからないところです。知らないことはしっかりと勉強しないといけません。
バイヨンに付いたところで、腹が減ったので、寺院の向かいにあるみやげ物屋に併設しているオープンエアレストラン(屋台)に入りました。食中毒などは心配でしたが、空腹には変えられず、ええい食べてしまえ、と思って、そこで野菜ヌードルを食べました。空腹に効いたのか、かなり美味しかったです。
お店の女の子がとても親切で、かわいらしく、いろいろ質問をしてきてくれるので、その子といろいろ話しながら、食事をしました。15歳から25歳くらい(年齢は本当に不詳です)の子で、一人で旅行している日本人はほとんど見たことがないと言って、面白がって旅行の話を聞いてくれました。
僕と彼女、どちらが人生を一生懸命生きているかわからないのに、僕と彼女の間には絶対的な格差があって、僕はそのことで少し申し訳ない気持ちになりました。
食事をしていると4、5才くらいの小さな男の子が、ポストカードを持って、もう少し年上の女の子が扇子とか、笛とかそういった民芸品を持って売りに来ました。
どちらもいらなかったので、ありがとう、でもいらないんだと言って断ると、女の子はがっかりした様子で離れていき、男の子は僕のテーブルの前の席に座り、僕と会話をしていた女の子の方を見上げていました。
どうやら家族でそこの土産物屋兼食堂をやっているみたいです。(他の寺院の前にも同じようなスタイルの土産物屋兼食堂があって、やはり家族で経営しているみたいでした)
女の子に、家族なの?と聞くと、弟だよと言うので、何も買ってあげなくてごめんねと言うと、それはいいのよ、と言ってくれました。
男の子に写真をとってもいいかな?と聞くと、照れくさそうに笑って、Yesと言います。カメラを向けると持っていたポストカードで顔を隠した後、頭の上にポストカードを乗せて、笑ってくれました。カンボジアの子供は本当に純粋です。
バイヨンは日本で言うところの須弥山で、古代インドの神々が住む神聖なところだそうです。
アンコール・ワットよりも朽ちていて、ところどころに修復中のため立ち入り禁止の表示が出ていました。
バイヨンの中心に向かって十字の回廊があり、そこを進んでいくと、現地の人が数人、僧侶の唱えるお経の前で合唱をしていました。白人の観光客が遠巻きに見ている中、少しだけ中に進むと、お祈りしていた人が、中に座りなさいと手招きするので、なんとなく断りづらく、空いているスペースに膝を着き、周りと同じように合唱をしました。
2メートル半四方くらいの狭い空間で、僧侶と僕を含めて8人くらいがそこにいました。僧侶の唱えるお経はカンボジアの言葉か梵語だったので、まったく何のことだかわからなかったのですが、ぱちぱちという線香と蝋燭の音と混ざって、妙に神聖な感じを受けました。区切りがついたところで、立ち上がり、手を合わせてお辞儀をして、その場を去りました。
バイヨンを見学し終わった後は、トムないの他の遺跡、像のテラスとか死者の門なんかを適当に見て、次の目的地のタ・プロームに向かいました。
最初に道を間違えたこともあって、この時点でかなり疲れていましたが、いまさら引き返せないので、がんばって自転車を漕ぎました。
タ・プロームはバイヨンよりもさらに劣化の激しい遺跡で、崩れた石材の山がいたるところにあります。さらに、木が遺跡を捕り込むように育ち、人工物と自然の妙な調和が神聖さを倍増させているように思えます。日本で言うところのワンピースの空島の世界です。
タ・プロームの前の土産物屋でコーラを買って、エネルギーを補給したら、あとはホテルに向けて帰るだけです。が、すでにかなり疲れていたことと、ここからホテルまでが一番遠いこともあって、帰り道は泣きそうになりながら、自転車を漕ぎ続けました。
自転車を漕いでいるうちに日も暮れ、暗くなった道を一人もくもくと進みました。
結局この日は、道を間違えたこともあって、少なくても60キロは走り巻いた。自転車のサドルがかなりボロかったため、お尻をかなり痛めました。
明日はトゥクトゥクをチャーターして、のんびり快適な旅行をしようと思います。
それでも今日はいろいろ貴重な体験ができた、いい一日でした。
2010年2月1日月曜日
Day 3&4 マカオの誘惑、そしてカンボジアへ
旅行の3日目と4日目の日記を書いていなかったので、一応書いておこうと思います。
3日目はマカオに行きました。
香港島からターボジェットで約1時間、1500円程度でマカオへ入国できます。
マカオは品性ない誘惑に満ち溢れた楽園のような島です。
いたるところにカジノとサウナ(売春場)があります。
リスボアホテルという老舗ホテルの地下には堂々と娼婦が徘徊しています。
彼女たちは見た目の美しさと廊下を徘徊している様子から、海の中を悠々と泳ぐ回遊魚に喩えられ、「リスボア回遊魚」と呼ばれています。下世話な世界にあって、ここだけ妙に詩的です。
沢木耕太郎の深夜特急みたいに、「ええい、どうにでもなれ!」と言って、数日の滞在のつもりで寄った香港・マカオでカジノに溺れ、数ヶ月滞在するわけにはいかないので、早々に立ち去り、マカオの闇の部分を後にします。
マカオはカジノのほかに、世界遺産観光でも有名です。
セナド広場から聖ドミニコ協会と通り、セントポール天主堂跡に向かう王道コースを行きました。
ここだけ、オランダの面影が色濃く残り、東洋とは思えない、景色を作っています。
でも一歩裏道に入ると、思いっきり中国になっている、そのコントラストが非常に興味深いところでもあります。この日は土曜日だったこともあり、かなりの観光客で賑っていました。
4日目は昨日の疲れがかなり残っていたので、朝はホテルでゆっくりし、昼食食べながら空港に向かいました。香港は街中にある香港駅でエアラインのチェックインができるので、早々にチェックインを済ませ、手ぶらで空港に向かいました。とても便利です。
香港の空港で一緒だった友人と別れると、いよいよ一人旅が始まります。(といってもつかの間ですが)
香港から日本へ帰る友人を後に、バンコク行きの飛行機へ向かうと、突如として不安になります。
いったい僕はこの旅行でどれほどの不安を感じればいいんだと、自分の事ながら嘲笑してしまいました。
バンコク行きの飛行機の中で隣に座った韓国人の女性と話すきっかけがあって、同級生ということもあり、親近感を持ってもらえたのか、メールアドレスを交換しようということになりました。 彼女は医学生で、大学の教授達と一緒にミャンマーへメディカルサービスを提供しに行くと言っていました。見上げたものです。引き換え僕は、仕事を辞め、80日間も旅行に行くのですから、ここでも人生に対する不安に遭ってしまいます。
シェムリアップに着くと、ホテルから送迎の方が迎えに来てくれていました。1泊350円程度の安ホテルなので、今になって思えば確かにその通りなのですが、車で迎えに来ると予想していたところ、トゥクトゥクで迎えに来ました。そいつはいいね!と思ってトゥクトゥクに乗り込むと、Let's goといって、出発です。少し蒸し暑いシェムリアップの街をトゥクトゥクで進むと、生暖かい風が気持ちよく、ところどころで感じていた不安が少しずつ期待に変わっていきました。
昨日はゆっくりと休み、今日の午前中もホテルでのんびり過ごしたので、これから自転車を借りて、アンコールワットとアンコールトムに行ってみようと思います。
3日目はマカオに行きました。
香港島からターボジェットで約1時間、1500円程度でマカオへ入国できます。
マカオは品性ない誘惑に満ち溢れた楽園のような島です。
いたるところにカジノとサウナ(売春場)があります。
リスボアホテルという老舗ホテルの地下には堂々と娼婦が徘徊しています。
彼女たちは見た目の美しさと廊下を徘徊している様子から、海の中を悠々と泳ぐ回遊魚に喩えられ、「リスボア回遊魚」と呼ばれています。下世話な世界にあって、ここだけ妙に詩的です。
沢木耕太郎の深夜特急みたいに、「ええい、どうにでもなれ!」と言って、数日の滞在のつもりで寄った香港・マカオでカジノに溺れ、数ヶ月滞在するわけにはいかないので、早々に立ち去り、マカオの闇の部分を後にします。
マカオはカジノのほかに、世界遺産観光でも有名です。
セナド広場から聖ドミニコ協会と通り、セントポール天主堂跡に向かう王道コースを行きました。
ここだけ、オランダの面影が色濃く残り、東洋とは思えない、景色を作っています。
でも一歩裏道に入ると、思いっきり中国になっている、そのコントラストが非常に興味深いところでもあります。この日は土曜日だったこともあり、かなりの観光客で賑っていました。
4日目は昨日の疲れがかなり残っていたので、朝はホテルでゆっくりし、昼食食べながら空港に向かいました。香港は街中にある香港駅でエアラインのチェックインができるので、早々にチェックインを済ませ、手ぶらで空港に向かいました。とても便利です。
香港の空港で一緒だった友人と別れると、いよいよ一人旅が始まります。(といってもつかの間ですが)
香港から日本へ帰る友人を後に、バンコク行きの飛行機へ向かうと、突如として不安になります。
いったい僕はこの旅行でどれほどの不安を感じればいいんだと、自分の事ながら嘲笑してしまいました。
バンコク行きの飛行機の中で隣に座った韓国人の女性と話すきっかけがあって、同級生ということもあり、親近感を持ってもらえたのか、メールアドレスを交換しようということになりました。 彼女は医学生で、大学の教授達と一緒にミャンマーへメディカルサービスを提供しに行くと言っていました。見上げたものです。引き換え僕は、仕事を辞め、80日間も旅行に行くのですから、ここでも人生に対する不安に遭ってしまいます。
シェムリアップに着くと、ホテルから送迎の方が迎えに来てくれていました。1泊350円程度の安ホテルなので、今になって思えば確かにその通りなのですが、車で迎えに来ると予想していたところ、トゥクトゥクで迎えに来ました。そいつはいいね!と思ってトゥクトゥクに乗り込むと、Let's goといって、出発です。少し蒸し暑いシェムリアップの街をトゥクトゥクで進むと、生暖かい風が気持ちよく、ところどころで感じていた不安が少しずつ期待に変わっていきました。
昨日はゆっくりと休み、今日の午前中もホテルでのんびり過ごしたので、これから自転車を借りて、アンコールワットとアンコールトムに行ってみようと思います。
写真【香港・マカオ】
香港とマカオで撮った写真をアップします。
◆スライドショー【香港】
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/HongKong2010#slideshow/
※写真右下の×をクリックすると写真一覧に移ります。
◆スライドショー【マカオ】
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Macau2010#slideshow/
※写真右下の×をクリックすると写真一覧に移ります。
なかなか写真を撮るのが億劫なのですが、やはり写真はどんどん撮るべきだと思います。
◆スライドショー【香港】
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/HongKong2010#slideshow/
※写真右下の×をクリックすると写真一覧に移ります。
◆スライドショー【マカオ】
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Macau2010#slideshow/
※写真右下の×をクリックすると写真一覧に移ります。
なかなか写真を撮るのが億劫なのですが、やはり写真はどんどん撮るべきだと思います。
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