2010年4月19日月曜日
Day80 わざわざ集まってくれて本当にありがとう。わざわざ集まってくれて
終に旅行が終わりました。
予定より少し早く、成田空港に13:50に到着しました。
空港まで迎えに来てくれた友人と合流して、まずは旅の疲れを流すために平和島にあるスーパー銭湯よりも一つ上のクラスのハイパー銭湯というところへ風呂に入りに行くことにしました。途中、立ち寄ったサービスエリアで天ぷら蕎麦を食べたのですが、染み入るような美味さでした。とりあえず今週は思う存分好きなものを食べてやろうと思いました。今、食べたいものは、吉野家の牛丼、寿司、ぺヤングソースやきそば、炭火焼さわやかのステーキ、鰻、ラーメンです。とりあえず明日は「SAVE THE 吉野家」キャンペーンで、吉野家の牛丼を食べに行こうと思います。
17:30頃まで風呂に入って、その後友人の家に車を置きに行き、そこから電車に乗って、僕と僕らの思い出の街、池袋へ向かいました。
今日は嬉しいことに、僕の大学時代の友人達が、なんと10人も!集まって僕の帰国パーティーを開いてくれました。
声を掛けてくれたのは、僕の旅行のベストパートナーの男でした。正直、彼にこんなに集客力があると思っていなかったので、びっくりでした。ありがとう。
僕としては、せっかくなので、旅行の話を皆にしたかったのですが、友人の中に一人、偏狭な性格の男がいて、そいつが「あいつに旅行の話を聞くと、調子にのってしまうから、みんななるべく聞かないでやってくれ」と言い出し、せっかくの帰国パーティーだったのに、大して旅行の話もせずに終わってしまいました。
それでも旧友と久しぶりに会うというのは、楽しいもので、あっという間に時間が過ぎてしまいました。まぁ最後の方は僕は時差ぼけで正直眠たくて仕方がなかったのですが…。
旧友というのは不思議なもので、何年経ってもみんな揃いも揃って相変わらずです。あいつら成長ってもんをしないんだなぁって思いました。
今日、寝る前に思い返したことがあって、それは、この80日間の旅行で何か得たものはあったんだろうか、ということです。80日間何一つ生産的なこともせず、毎日遊んで暮らしていたので、ミツバチのように真面目な僕としては、やっぱり世間様に申し訳ないような感覚と、周囲から置いてかれてしまっているんじゃないかっていうような不安感が入り混じったなんともいえない感覚を旅行中、何度も感じることがありました。こういう感覚って日本人的な感覚だなって思うんですが…。
80日間も旅行して何一つ得られるものがなかったでは、ちょっと情けないなって思っていたのですが、僕が世界一周旅行したことで旧友が集まる機会が生まれたので、それだけでも僕が旅行したことに意味があったんだなって嬉しく思いました。
とにかく、久しぶりに集まった旧友との食事は最高に楽しかったってことです。
集まってくれた皆、企画してくれたY君、ありがとう。
2010年4月17日土曜日
Day79 帰国します。
これから帰国します。
ハワイ時間では今、朝の7:07です。
日本時間14:10に成田空港第一ターミナルに到着予定です。
お出迎えよろしくお願いします。
帰国したら、友達が集まってくれて帰国パーティーが待っているみたいです。
お土産買ってあるから楽しみにしていてくれ。
Day77~Day78までの二日分の記事は書けませんでした。
飛行機の中で暇だったら書こうと思います。
それじゃあ、また。
ハワイ時間では今、朝の7:07です。
日本時間14:10に成田空港第一ターミナルに到着予定です。
お出迎えよろしくお願いします。
帰国したら、友達が集まってくれて帰国パーティーが待っているみたいです。
お土産買ってあるから楽しみにしていてくれ。
Day77~Day78までの二日分の記事は書けませんでした。
飛行機の中で暇だったら書こうと思います。
それじゃあ、また。
2010年4月16日金曜日
Day76 ハワイ島一日観光にて
朝4時に起きて、5時にホテルを出発し、7時過ぎの飛行機に乗って、ハワイ島へ行ってきました。
僕はパッケージツアーというものがそもそも好きじゃないし、こんなに朝早くから日帰りでハワイ島なんかに行きたくも無かったのですが、両家の家族全員が参加するということもあって、一応付いて行きました。
ハワイ州にはいくつかの島があって、一番有名なホノルルがある島がオアフ島です。他にも6つの島、ハワイ島、マウイ島、カウアイ島、モロカイ島、ラナイ島、ニイハウ島と100以上の小さな島(人が住んでいたり住んでいなかったり)があります。
この中で一番大きな島がハワイ島で、コナコーヒーやキラウェア活火山やマウナケア休火山などが有名です。今日の観光の目玉は溶岩ウォークと名づけられた、溶岩の上を歩くメニューだそうでした。
ハワイ島のコナ国際空港に到着するとH社の斡旋員が待っていて、僕らと他のお客が全員揃ったところで、現地の旅行会社のガイドさんに引き継ぎました。
この現地の旅行会社のガイドがなかなか変わった人で、マサさんという名前の男性だったのですが、かなり英語的感覚で日本語を話す方でした。それもかなり流暢に日本語を話す上に、顔は思いっきり日本人だったので、ちょっと悪い印象を受けました。
例えば、僕らの家族が4人、4人に分かれてバスの席を座っていた時には、「おたくら、一つのグループだけど、別々に座っちゃっていいの?」と聞いてきたり、他のお客が買い物したいと言い出した時には「そうなんだよな~、日本人みんなホノルルでブランド物ばっか買ってくからな。金持ってんな。でもハワイ島にはそんなもんは一つもないからな。覚えとくといいよ。」とか、かなりラフで乱暴な日本語で話しかけてきました。
言葉とは不思議なもので、彼のガイドが全て英語であれば、まったく違和感なく過ごせるように思うのですが、日本語であの慣れ慣れしさ、乱暴な物言いはかなり受け入れにくいものでした。
それと、客である日本人を少し小ばかにするような発言が何度もあって、やっぱり日本人の僕としては、確かに彼の言うことはわかるし、一部は的を射ているけれども、ちょっと感じ悪いなといった印象でした。日本人を相手に商売をしているんだから、思っていても言ってはいけないことってのがあるもんです。
でも確かに日本旅行者は比較的ツアー客であることが多いし、ツアー客の傾向として、やっぱりミーハー的な行動をし、バッジをつけて、お土産物を大量に購入し、観光名所だけを廻って写真を撮ってお終い、という観光行動をとってしまうものなのです。テレビで紹介されたり、ブームになっているところには本来のその土地の歴史やストーリなんか無視して、こぞってテレビで取り上げられたことだけを消費しようとする日本人観光客は、欧米人観光客と比べるとやっぱり多いように思います。この差はなんなんでしょうか?数年前にスピリチュアルの江原さんがハワイ島に来て溶岩が流れたあとに出来たトンネルで何かを感じたことがあったそうですが、そのテレビ番組が放映されるやいなや、一気にそのトンネルを訪れる日本人観光客が増えたそうです。それで、現地の旅行社の人達はバカにしてかどうかは定かではないですが、そのトンネルを江原トンネルと名づけたと言って笑っていました。
そして、旅行をしていて、改めて気づいたことなのですが、外国を旅行する日本人旅行者は日本人に見えないと言われると嬉しいらしいです。かく言う僕もやっぱりそうなんですが。カンクンで知り合った日本人旅行者達も、他の街で見かける日本人旅行者も、日本人に見られないような努力をしているように感じました。彼ら曰く、日本人に見られると何かと危険だから、という大義の元そういった努力をしていると言うのですが、僕個人的な感覚としては、日本人に見られないこと、というのはファッション的にカッコいい感覚に似ていると思います。
また、外国では日本人に会いたくないと考えている日本人も多いように思います。かく言う僕もやっぱりそうなんですが…。 フィレンツェで日本人ばかりだと、やっぱり気が滅入ります。モロッコまで行ったのに、土産物屋がこぞって日本語で接客してくると気が滅入ります。でもドミトリーでは日本人がいないかってついつい探してしまいます。日本人が居てくれると安心するというのもまたその通りなんですが…
ガイドのマサさんの両親は日本人なのですが、子供の頃にアメリカに渡って、今は完全にアメリカ国籍だそうです。彼のような人のことを冗談でバナナと言うそうです。バナナ!
話がだいぶ横道にそれましたが、僕らはH社のツアーでハワイ島観光に行き、ホノルルでは味わえないハワイの違う一面を見ることができました。どこがどうだという説明をするような場所はあまりないので、ウェブアルバムで写真を見てもらえればと思います。
◆ウェブアルバム Hawai2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Hawai2010
現地のハワイアン達は、みんな口をそろえて、ホノルルから出るんなら、マウイ島がいい、マウイ島がいいと言っていました。街とビーチリゾートの割合が絶妙でいいんだそうです。次はマウイ島に行ってみたいです。
2010年4月15日木曜日
Day75 ハワイアンゴルフ
父と兄と新婦の父親と4人でゴルフをしてきました。
コオリナというエリアにあるゴルフ場で、コース自体はなかなか良い所でした。
でも、僕は今日一日、ずぅーっと嫌な気分を我慢しながらプレーしました。
なんでかって言うと、今日はめちゃめちゃ調子が悪く、ものすごい数を叩いてしまったからです。
ゴルフはなかなか気持ちの良いスポーツなのですが、それは調子が良いときのみで、スコアが悪いと一気に気分が悪くなります。
たまにプロゴルファーでクラブを叩きつけたりする人がいますが、今日の僕も何度とクラブを地面に叩きつけたくなる衝動を抑えながらプレーをしました。しかも新婦の父親もいたので、あまり悪い顔もできず、ずっと心の中で我慢していました。
ドライバーは安定せず、右に大きくスライスカーブしたり、左に大きくフックカーブをしたり、得意だと思っていたアイアンも今日はなぜかフックしたり、ダフったり、もうとにかく調子が悪かったです。ゴルフってこんなにもつまらないスポーツなのかって思いました。本当にあれは糞みたいなスポーツです。
でも、中学の時に所属していたソフトテニス部の顧問の先生が「一番調子が悪いときのプレーがお前の本当の実力だ。」って言っていたので、今日のスコアが僕の本当の実力なんだと思います。そう思うともう二度とゴルフなんてするもんかって思います。
高いお金を払ってこんな嫌な気分になるなんて、本当にゴルフってくだらないスポーツだなって思いました。
もうこんなに嫌な気分になるなんて、これならの前のビーチでピニャ・コラーダでも飲みながら読書していれば良かったです。
畜生!ゴルフなんて糞喰らえだ!
2010年4月14日水曜日
Day74 今日は兄の結婚式
今日は兄の結婚式でした。
ハワイで結婚式を挙げるなんて、さすがはドラ息子です。
といっても300人くらいの招待客が来たわけではなく、新郎新婦とその両親と僕と、僕の家の祖母の合計8人だけの、かなりこじんまりした挙式でした。
朝の9時にホテルを出発し(ホテルについてはいずれ書きますが、モアナ・サーフライダーという高級ホテルに泊まっています)10時ごろにコオリナというところにある結婚式場に到着し、だいたい11時から20分くらいの式を挙げて、その後、写真を撮りながら昼食会場まで移動し、両家で結婚祝いの食事会をして、だいたい3時頃にはホテルに戻ってきました。
個人的には結婚式といえば定番のゴンドラに乗って天井から光臨するように登場してもらいたかったですが、全体的にシンプルで上品で良い結婚式でした。花嫁さんもとても綺麗な方で、感じも良く、ご両親もなかなか立派な方々でした。
僕はサンフランシスコからホノルルに向かう飛行機の中で、持ってきた村上春樹の短編小説、パン屋再襲撃の中に収められている「ファミリーアフェア」という小説を読んでいたので、結婚式の後の食事会でなんていう冗談を言ってやろうかずっと考えていたのですが、皆さんとても立派で上品な方々だったので、とてもそんな冗談を言える雰囲気ではなく、空気を読んで静かに良い子にしていました。
でも、何かを考えていたというのは本当で、乾杯の挨拶が廻ってくる可能性があったので、どこに出しても恥ずかしくないような乾杯のスピーチを飛行機の中で考えていました。結局、乾杯の挨拶は僕の父親がやったので、この挨拶は使わず終いだったのですが。
ところで身内の結婚というものは、なかなか不思議な思いをするものです。
僕と兄は昔から着かず離れずの関係だったので、兄が結婚しようがしまいが、そんなものはカレーライスに福神漬けが乗っているか乗っていないか程度の違いしかないと思っていたのですが、いざ結婚してみるとこれは意外と嬉しいもんです。まぁそれだけお嫁さんが良い人だったということだと思うのですが。ソフトボール部の主将みたいな人じゃなくてよかったです。
身内が結婚すると、家族親族に新しいメンバーが一人加わったような感じがします。まぁ実際に一人加わったわけなんですが…。ドラクエで倒したモンスターが起き上がって、仲間にしてくれという時に感じる嬉しさと程度は違いますが、種類は似ているとか似ていないとか。
とにかく結婚式は終始、幸せ一杯の空気に包まれていて、僕の母親はもう完全に泣いていたし、新婦の父親も目が潤んでいました。僕は小さい頃にわずらった病気の治療で涙腺を焼いてしまっているので、泣こうにも涙が出ず、こみ上げる感動をぐっと噛み締めておきました。
さて、これからは僕が両親に結婚のプレッシャーをかけられる番になります。
「僕は性格が偏狭なうえに靴下をあまり洗濯しなかったものだから、一緒に暮らしてもいいと思ってくれるような素敵な女の子と巡りあうことができなかったんだ。」と言ってかわそうと思います。
兎にも角にも、我が兄よ。おめでとう。
2010年4月11日日曜日
Day73 最後の目的地
73日目です。
あと、一週間になってしまいました。
あっという間です。
今日はこれから空港に行って、ホノルルへ飛びます。
現地時間の夕方にホノルルに着きます。
明日は兄の結婚式です。
もう行かなくちゃ。それじゃあ、また。
あと、一週間になってしまいました。
あっという間です。
今日はこれから空港に行って、ホノルルへ飛びます。
現地時間の夕方にホノルルに着きます。
明日は兄の結婚式です。
もう行かなくちゃ。それじゃあ、また。
2010年4月10日土曜日
Day72 -The Rock- "岩"と呼ばれる孤島
今日は午後からフェリーに乗ってアルカトラズ島へ行きました。
ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが出演している有名な映画「The Rock」の影響もあって、この島はサンフランシスコ観光には欠かせない目玉になっています。
フェリーのチケットも2日後のチケットしか買えないほどの混雑様で、僕は一昨日のウォーキングツアーの後に今日の14:50発のチケットを買いました。
アルカトラズ島はサンフランシスコからわずか2.4Kmの距離に位置する孤島です。アルカトラズ島は1847年までまったくの未開の島で、この島を訪れていたのは、オーローン族やミウォック族などの先住民だけでした。
その後、ゴールドラッシュによってサンフランシスコの人口が一気に増え、都市化が進むと、アルカトラズに砦が建設され、街の防衛拠点として重要な役割を担うようになります。1861年に南北戦争が起こると、アルカトラズには当時の最新の武器や砲台が調えられ、常時400人以上の兵士が常駐していました。戦争が終わると、アルカトラズの砦としての役割はなくなり、今度は刑務所として利用されるようになります。
1907年に要塞としての役割を解かれる以前からもアルカトラズには犯罪兵や国事犯の罪に問われた市民、南軍の兵士などが連行され、収容されていました。アルカトラズに収容されていた悪名高く有名な囚人には”スカーフェイス”アル・カポネや”バードマン”ロバート・ストラウドなどがいました。他の刑務所では受け入れられないような、脱走の危険がある囚人や他の囚人といざこざを起こす可能性の高い囚人など、アルカトラズにはより凶悪な犯罪者が集まるようになっていきました。
アルカトラズで企てられた脱走数は14件なのですが、この中で最も有名なのはフランク・モリスとジョン・アングリン、クラーレンス・アングリン兄弟の一件です。偽者の顔を作り、ベッドの中に変わり身を忍ばせ、13本のスプーンを使って、独房の壁に穴を開け、通気ダクトを抜けて海へと逃れました。3人の遺体は海から上がっておらず、行方はわからず終いになっているそうです。「アルカトラズからの脱獄」という映画にもなっていて、帰ったら見てみようと思います。
他にも脱獄をしようとして失敗し、看守8人を人質にとって2日間の篭城をし、最終的に軍によって殲滅させられた事件などもありました。
映画や小説からアルカトラズは厳しい刑務所としてのイメージが定着していますが、実際には刑務所内は清掃が行き届いていて、さらに食事も良かったと言われています。
そんなアルカトラズ刑務所も維持費と運営費の膨張のため、1963年に当時の司法長官ローバート・F・ケネディによって閉鎖され、その後はインディアン達に選挙されたり、宇宙開発をテーマにした遊園地にされそうになりながらも、1972年に国立公園として指定され、現在の観光地となりました。
というようなことが、より詳しく、物語風にまとめられているオーディオガイド(日本語もある)を無料で貸してくれ、オーディオガイドの案内に従って、刑務所内や島内を見学することが出来ます。ちょっとした冒険気分を味わうことが出来て、かなり楽しかったです。
オーディオガイドの中で「この狭い牢屋に入っていると、だんだん牢屋が自分の家になり、さらにしばらくすると自分そのものになんだ。」という一節があったのですが、これはなかなか意味深なセリフです。
学生のときに勉強していた言語学者の有名な言葉に「言葉の牢獄から抜け出すことは出来ない」というようなものがありました。全ての人間の活動は言葉と言葉の間に生まれる相対的な意味世界の中でのみ成立していて、言葉で表現できる以上のことを表現したり、考えたり、行ったりすることは出来ないといったような意味(だったと思う)なのですが、当時なるほどなと思ったことをアルカトラズの牢獄を見て、思い出しました。
日本という文化体系、言語体系の中で生活していると、いつの間にか日本的感覚が自分のホーム感覚になり、終いには日本的感覚が自分そのものになって、なんでもかんでも、その中で判断するようになります。それは見方によっては狭い価値観といったネガティブな見方にもなってしまうのですが、日本的感覚だけでも充分な量と質があると思いますし、他の言語体系がどうしても必要なわけでもないので、良いとか悪いという問題ではないです。日本で暮らすには日本語を話し、日本の文化体系の中に身を置かないといけないのですから。
ただ、たまにこうして旅行をしたり、外国の考え方や価値の体系、言語体系に触れることで、より自由に近づけるような気がするんです。
旅行とは普段、無意識のうちに閉じ込められている言葉の牢獄からの一時的な脱獄なのかも知れません。
↑ってちょっと格好良くないですか?笑
ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが出演している有名な映画「The Rock」の影響もあって、この島はサンフランシスコ観光には欠かせない目玉になっています。
フェリーのチケットも2日後のチケットしか買えないほどの混雑様で、僕は一昨日のウォーキングツアーの後に今日の14:50発のチケットを買いました。
アルカトラズ島はサンフランシスコからわずか2.4Kmの距離に位置する孤島です。アルカトラズ島は1847年までまったくの未開の島で、この島を訪れていたのは、オーローン族やミウォック族などの先住民だけでした。
その後、ゴールドラッシュによってサンフランシスコの人口が一気に増え、都市化が進むと、アルカトラズに砦が建設され、街の防衛拠点として重要な役割を担うようになります。1861年に南北戦争が起こると、アルカトラズには当時の最新の武器や砲台が調えられ、常時400人以上の兵士が常駐していました。戦争が終わると、アルカトラズの砦としての役割はなくなり、今度は刑務所として利用されるようになります。
1907年に要塞としての役割を解かれる以前からもアルカトラズには犯罪兵や国事犯の罪に問われた市民、南軍の兵士などが連行され、収容されていました。アルカトラズに収容されていた悪名高く有名な囚人には”スカーフェイス”アル・カポネや”バードマン”ロバート・ストラウドなどがいました。他の刑務所では受け入れられないような、脱走の危険がある囚人や他の囚人といざこざを起こす可能性の高い囚人など、アルカトラズにはより凶悪な犯罪者が集まるようになっていきました。
アルカトラズで企てられた脱走数は14件なのですが、この中で最も有名なのはフランク・モリスとジョン・アングリン、クラーレンス・アングリン兄弟の一件です。偽者の顔を作り、ベッドの中に変わり身を忍ばせ、13本のスプーンを使って、独房の壁に穴を開け、通気ダクトを抜けて海へと逃れました。3人の遺体は海から上がっておらず、行方はわからず終いになっているそうです。「アルカトラズからの脱獄」という映画にもなっていて、帰ったら見てみようと思います。
他にも脱獄をしようとして失敗し、看守8人を人質にとって2日間の篭城をし、最終的に軍によって殲滅させられた事件などもありました。
映画や小説からアルカトラズは厳しい刑務所としてのイメージが定着していますが、実際には刑務所内は清掃が行き届いていて、さらに食事も良かったと言われています。
そんなアルカトラズ刑務所も維持費と運営費の膨張のため、1963年に当時の司法長官ローバート・F・ケネディによって閉鎖され、その後はインディアン達に選挙されたり、宇宙開発をテーマにした遊園地にされそうになりながらも、1972年に国立公園として指定され、現在の観光地となりました。
というようなことが、より詳しく、物語風にまとめられているオーディオガイド(日本語もある)を無料で貸してくれ、オーディオガイドの案内に従って、刑務所内や島内を見学することが出来ます。ちょっとした冒険気分を味わうことが出来て、かなり楽しかったです。
オーディオガイドの中で「この狭い牢屋に入っていると、だんだん牢屋が自分の家になり、さらにしばらくすると自分そのものになんだ。」という一節があったのですが、これはなかなか意味深なセリフです。
学生のときに勉強していた言語学者の有名な言葉に「言葉の牢獄から抜け出すことは出来ない」というようなものがありました。全ての人間の活動は言葉と言葉の間に生まれる相対的な意味世界の中でのみ成立していて、言葉で表現できる以上のことを表現したり、考えたり、行ったりすることは出来ないといったような意味(だったと思う)なのですが、当時なるほどなと思ったことをアルカトラズの牢獄を見て、思い出しました。
日本という文化体系、言語体系の中で生活していると、いつの間にか日本的感覚が自分のホーム感覚になり、終いには日本的感覚が自分そのものになって、なんでもかんでも、その中で判断するようになります。それは見方によっては狭い価値観といったネガティブな見方にもなってしまうのですが、日本的感覚だけでも充分な量と質があると思いますし、他の言語体系がどうしても必要なわけでもないので、良いとか悪いという問題ではないです。日本で暮らすには日本語を話し、日本の文化体系の中に身を置かないといけないのですから。
ただ、たまにこうして旅行をしたり、外国の考え方や価値の体系、言語体系に触れることで、より自由に近づけるような気がするんです。
旅行とは普段、無意識のうちに閉じ込められている言葉の牢獄からの一時的な脱獄なのかも知れません。
↑ってちょっと格好良くないですか?笑
Day71 Something specialを求めて
今日はサンフランシスコの街に隠されていると言われる「something special」を探しに、ロベルトと一緒に街に出掛けました。でも、結論から言ってしまうと、残念ながら「something special」とまで呼べるものは見つけられませんでした。
それでもなお、サンフランシスコは僕の想像を上回る魅力を見せてくれました。
San Francisco Museam of Modarn Art(通称SFMOMA)に行ったのですが、やはりアメリカの最新のアート事情は凄まじいものでした。以前、キューバの美術館に行った時のことをブログに書き、「キューバのアーティス達は世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。」と言うようなことを書いたのですが、SFMOMAを見てしまった今となっては、キューバさんごめんなさいと言わざるを得ないようです。とても比較できないほどでした。もうなんていうかブットンデマス。
とはいえ、僕はモダンアートはあまり好きじゃないので(というより苦手。作品も見ても解釈できないので)2時間も見れば頭が痛くなってきて、最後のほうは足早にチラチラ見ながらフロアをどんどん通り過ぎてしまったのですが、そんな僕でもなんとなくSFMOMAはすごいなって感じさせられました。
まぁどうすごいのかは残念なことに具体的に説明できないので、どうすごいのか気になる人は観に行けば良いと思います。
ただ、一つ感じたのは、着想の鋭さ、大胆さです。何かアイディアを得たいときにSFMOMAなどの最先端を進むモダンアートミュージアムに行くのは良い手だと思います。いろいろなひらめきが転がっています。
モダンアートミュージアムで僕が一番好きなところはミュージアムショップです。
第一に買い物が好きだということもあるのですが、モダンアートミュージアムのミュージアムショップには見たこともないようなデザインのアイテムが並べられています。これも一つ一つ取り上げて、あれがどう良かったとか、このデザインはどうだったと書くことも出来なくはないのですが、きっと書いてもつまらないし、それに何より今日はちょっと疲れてしまったので、ハショります。自分用にSFMOMA75周年記念のアーティストコラボTシャツを買ってしまいました。
明日はアルカトラズに潜入します。「something special」が見つかると言いのですが…
それでもなお、サンフランシスコは僕の想像を上回る魅力を見せてくれました。
San Francisco Museam of Modarn Art(通称SFMOMA)に行ったのですが、やはりアメリカの最新のアート事情は凄まじいものでした。以前、キューバの美術館に行った時のことをブログに書き、「キューバのアーティス達は世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。」と言うようなことを書いたのですが、SFMOMAを見てしまった今となっては、キューバさんごめんなさいと言わざるを得ないようです。とても比較できないほどでした。もうなんていうかブットンデマス。
とはいえ、僕はモダンアートはあまり好きじゃないので(というより苦手。作品も見ても解釈できないので)2時間も見れば頭が痛くなってきて、最後のほうは足早にチラチラ見ながらフロアをどんどん通り過ぎてしまったのですが、そんな僕でもなんとなくSFMOMAはすごいなって感じさせられました。
まぁどうすごいのかは残念なことに具体的に説明できないので、どうすごいのか気になる人は観に行けば良いと思います。
ただ、一つ感じたのは、着想の鋭さ、大胆さです。何かアイディアを得たいときにSFMOMAなどの最先端を進むモダンアートミュージアムに行くのは良い手だと思います。いろいろなひらめきが転がっています。
モダンアートミュージアムで僕が一番好きなところはミュージアムショップです。
第一に買い物が好きだということもあるのですが、モダンアートミュージアムのミュージアムショップには見たこともないようなデザインのアイテムが並べられています。これも一つ一つ取り上げて、あれがどう良かったとか、このデザインはどうだったと書くことも出来なくはないのですが、きっと書いてもつまらないし、それに何より今日はちょっと疲れてしまったので、ハショります。自分用にSFMOMA75周年記念のアーティストコラボTシャツを買ってしまいました。
明日はアルカトラズに潜入します。「something special」が見つかると言いのですが…
2010年4月9日金曜日
Day70 ゴールドラッシュ
ホステルで同室になったイタリア人と一緒に朝食を食べながら、今日はお互いにどんな予定で過ごすかという話をしました。ドミトリーに泊まっている単身旅行者達はとりあえず「一緒に朝食を食べに行こう。」と言って、その後、「今日はどんな予定か」ということを尋ねるのがパターンになっているようです。泊まっているホステル主催の無料のウォーキングツアーが11時からあるということで、とりあえずそのツアーに申し込んで、11時まではネットなどをしながらだらだら過ごしました。
11時にレセプションに行くと、僕らの他にすでに2人の参加者が待っていました。
ウェールズ出身のヒューという男とヘレンというイングランドの出身の女性、それに僕と同室のロベルトというイタリア人の男で、参加者は全員で4名でした。
ガイドをしてくれたのはアイルランド出身のケイトという女性でした。ケイトもどうやら同じホステルの宿泊者のようですが、彼女は世界中を旅行していて、サンフランシスコにやってきた時に「something special」を感じたそうで、もう2年もこの街に留まっているそうです。毎週水曜日にガイドツアーをして、ホステルの宿泊費をいくらかまけてもらったり、ツアー客からの寄付を貰っているそうです。他にもなにか良くわからないけど仕事をしているそうです。無料ツアーとは言ってもチップの国アメリカなので、最後にはみんな10ドルずつケイトに渡していました。でも彼女のツアーは10ドル以上の価値があったと思います。
まずサンフランシスコの町が見渡せる高台にある有名なホテル(名前は忘れた)の最上階に連れて行ってくれ、街を見渡しながら、サンフランシスコの歴史について説明してくれました。彼女の説明によるとサンフランシスコにおける歴史的に重要な事件は2つだそうです。一つ目は1849年から始まったゴールドラッシュでもう一つは1906年に起きたサンフランシスコ大地震だそうです。ゴールドラッシュによって一気に人口が増え、全米から金を求めて多くの有力者が集まり、この地に富が築かれていったそうです。その後、大陸横断鉄道が整備され、さらに大都市へと発展し、中国人や日本人などのアジア人を含む移民も一気に増えたのですが、1906年に大地震とその後3日続く大火災が起こり、それまでに築かれた街はほとんど倒壊したそうです。ケイトが言うには、その後、フリーメイソンの活躍により、サンフランシスコは急速な復興を果たしたそうです。フリーメイソン!マジすか?って思いましたが、いずれにしてもサンフランシスコは復興のシンボルにフェニックスを掲げ、まさに不死鳥のように蘇り、アメリカ有数の大都市に発展ました。
大西洋に向け開かれた港町であるニューヨークと、太平洋に向けて開かれた港町であるサンフランシスコ。この二つの大洋に向け開かれた地理的利点がアメリカの20世紀後半から現在にかけての絶対的強さの理由だそうです。
その後、サンフランシスコ名物のケーブルカーミュージアムや60年代のヒッピー文化の発祥のエリアを訪れ、有名なカフェ(名前は忘れた)で昼食をとり、コイトタワーがある高台まで歩いて、そこから東側の海岸まで降りて、約3時間のウォーキングツアーは終わりです。ケイトはホステルに帰ってしまったのですが、僕達4人はそのまま観光を続けることになりました。
フィッシャーマンズウォーフで自転車を借りて、ゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。
ところで、日本でも日本海側のいくつかの弱小県において、フィッシャーマンズウォーフなる施設が整備されたり、また時々、観光客誘致政策や地域振興策としてフィッシャーマンズウォーフを造るといった話がいろいろな地域で持ち上がることがありますが、個人的には日本におけるフィッシャーマンズウォーフ建設計画は「これだけは絶対にやってはいけない愚策」の中でもかなり高順位に位置すると考えています。「なんでもかんでも横文字にすればいいってもんじゃなんだぜ。」って言ってやりたいです。例えば若狭フィッシャーマンズワーフという施設がありますが、これは完全にギャグとしか思えません。どうみても古き良き日本の漁村なので、そのままの良さを尊重すればいいものを、おそらくこの地方の有力者にサンフランシスコ贔屓の人間がいたのでしょうか、ただの鮮魚センターをフィッシャーマンズワーフと名づけ、更にOBAMAまんじゅうなるお菓子を名物にしようとしています。この地域ぐるみのギャグには脱帽せざるを得ません。
でもそんな田舎者が憧れを抱いてしまうようなすばらしい魅力がサンフランシスコにはあるのです。
サンフランシスコのフィッシャーマンズウォーフの近くには表参道並みの高級ブランドショップがあり、横浜の赤煉瓦倉庫から山下公園に続くような素敵な公園があって、さらに田園調布にでもありそうな高級住宅街があって、リッチな人々が洋服を着たチワワを連れて優雅に歩き、お台場にあるビーチの5倍はある広々としたビーチもあって、ウィンドサーフィンを楽む人がいたり、カヌーを漕ぐ人もいます。。漁船が係留されている桟橋の次の桟橋はヨットハーバーになっていて、湾内のアルカトラズ島の近くには優雅にもヨットが漂っています。そして遠くにはサンフランシスコで最も有名な建造物である赤い橋、ゴールデンゲートブリッジが掛かっています。
そして何より、サンフランシスコの街の雰囲気がいいです。なんていうか、のびのびとしていて、それでいて優雅でお洒落です。今日は水曜日だったのですが、毎日、日曜日が続いているみたいな雰囲気です。
フィッシャーマンズウォーフを出発して、ゴールデンゲートブリッジを往復し、橋の近くで早めの夕食を食べ、19:30頃に沈む夕日を見ました。ゴールデンゲートブリッジ越しに太平洋に沈む夕日はとても綺麗でした。とても綺麗としか言えません。
サハラ砂漠に沈む夕日も素晴らしいものでしたが、ゴールデンブリッジ越しに眺める夕日も素晴らしいものでした。
サンフランシスコ、今まで完全にノーマークでしたが、かなり良い所みたいです。
11時にレセプションに行くと、僕らの他にすでに2人の参加者が待っていました。
ウェールズ出身のヒューという男とヘレンというイングランドの出身の女性、それに僕と同室のロベルトというイタリア人の男で、参加者は全員で4名でした。
ガイドをしてくれたのはアイルランド出身のケイトという女性でした。ケイトもどうやら同じホステルの宿泊者のようですが、彼女は世界中を旅行していて、サンフランシスコにやってきた時に「something special」を感じたそうで、もう2年もこの街に留まっているそうです。毎週水曜日にガイドツアーをして、ホステルの宿泊費をいくらかまけてもらったり、ツアー客からの寄付を貰っているそうです。他にもなにか良くわからないけど仕事をしているそうです。無料ツアーとは言ってもチップの国アメリカなので、最後にはみんな10ドルずつケイトに渡していました。でも彼女のツアーは10ドル以上の価値があったと思います。
まずサンフランシスコの町が見渡せる高台にある有名なホテル(名前は忘れた)の最上階に連れて行ってくれ、街を見渡しながら、サンフランシスコの歴史について説明してくれました。彼女の説明によるとサンフランシスコにおける歴史的に重要な事件は2つだそうです。一つ目は1849年から始まったゴールドラッシュでもう一つは1906年に起きたサンフランシスコ大地震だそうです。ゴールドラッシュによって一気に人口が増え、全米から金を求めて多くの有力者が集まり、この地に富が築かれていったそうです。その後、大陸横断鉄道が整備され、さらに大都市へと発展し、中国人や日本人などのアジア人を含む移民も一気に増えたのですが、1906年に大地震とその後3日続く大火災が起こり、それまでに築かれた街はほとんど倒壊したそうです。ケイトが言うには、その後、フリーメイソンの活躍により、サンフランシスコは急速な復興を果たしたそうです。フリーメイソン!マジすか?って思いましたが、いずれにしてもサンフランシスコは復興のシンボルにフェニックスを掲げ、まさに不死鳥のように蘇り、アメリカ有数の大都市に発展ました。
大西洋に向け開かれた港町であるニューヨークと、太平洋に向けて開かれた港町であるサンフランシスコ。この二つの大洋に向け開かれた地理的利点がアメリカの20世紀後半から現在にかけての絶対的強さの理由だそうです。
その後、サンフランシスコ名物のケーブルカーミュージアムや60年代のヒッピー文化の発祥のエリアを訪れ、有名なカフェ(名前は忘れた)で昼食をとり、コイトタワーがある高台まで歩いて、そこから東側の海岸まで降りて、約3時間のウォーキングツアーは終わりです。ケイトはホステルに帰ってしまったのですが、僕達4人はそのまま観光を続けることになりました。
フィッシャーマンズウォーフで自転車を借りて、ゴールデンゲートブリッジを渡ることにしました。
ところで、日本でも日本海側のいくつかの弱小県において、フィッシャーマンズウォーフなる施設が整備されたり、また時々、観光客誘致政策や地域振興策としてフィッシャーマンズウォーフを造るといった話がいろいろな地域で持ち上がることがありますが、個人的には日本におけるフィッシャーマンズウォーフ建設計画は「これだけは絶対にやってはいけない愚策」の中でもかなり高順位に位置すると考えています。「なんでもかんでも横文字にすればいいってもんじゃなんだぜ。」って言ってやりたいです。例えば若狭フィッシャーマンズワーフという施設がありますが、これは完全にギャグとしか思えません。どうみても古き良き日本の漁村なので、そのままの良さを尊重すればいいものを、おそらくこの地方の有力者にサンフランシスコ贔屓の人間がいたのでしょうか、ただの鮮魚センターをフィッシャーマンズワーフと名づけ、更にOBAMAまんじゅうなるお菓子を名物にしようとしています。この地域ぐるみのギャグには脱帽せざるを得ません。
でもそんな田舎者が憧れを抱いてしまうようなすばらしい魅力がサンフランシスコにはあるのです。
サンフランシスコのフィッシャーマンズウォーフの近くには表参道並みの高級ブランドショップがあり、横浜の赤煉瓦倉庫から山下公園に続くような素敵な公園があって、さらに田園調布にでもありそうな高級住宅街があって、リッチな人々が洋服を着たチワワを連れて優雅に歩き、お台場にあるビーチの5倍はある広々としたビーチもあって、ウィンドサーフィンを楽む人がいたり、カヌーを漕ぐ人もいます。。漁船が係留されている桟橋の次の桟橋はヨットハーバーになっていて、湾内のアルカトラズ島の近くには優雅にもヨットが漂っています。そして遠くにはサンフランシスコで最も有名な建造物である赤い橋、ゴールデンゲートブリッジが掛かっています。
そして何より、サンフランシスコの街の雰囲気がいいです。なんていうか、のびのびとしていて、それでいて優雅でお洒落です。今日は水曜日だったのですが、毎日、日曜日が続いているみたいな雰囲気です。
フィッシャーマンズウォーフを出発して、ゴールデンゲートブリッジを往復し、橋の近くで早めの夕食を食べ、19:30頃に沈む夕日を見ました。ゴールデンゲートブリッジ越しに太平洋に沈む夕日はとても綺麗でした。とても綺麗としか言えません。
サハラ砂漠に沈む夕日も素晴らしいものでしたが、ゴールデンブリッジ越しに眺める夕日も素晴らしいものでした。
サンフランシスコ、今まで完全にノーマークでしたが、かなり良い所みたいです。
Day69 F**king delay!!!
ラスベガス空港を11:17に出発するはずが、(理由不明の)遅延の為、2:26に出発ししました。
9時には空港に着いていたので、5時間も待たなければなりませんでした。
空港でホットドックを買って昼食を食べ、その後スタバでコーヒーを買って、インターネットをしたり、手紙を書いたりして時間を過ごしました。
空港内にも(危険極まりない)スロットマシーンが設置されていて、さらに僕の大好きなSTARWARSのスロットマシーン(大好きなのは映画『STARWARS』で、『STARWARSのスロットマシン』ではない)があって、危うく100ドル没収されるところでしたが、ここはなんとかやりすごしました。
ラスベガス空港の素晴らしいところは、WiFiが無料で使えるというところです。
ネットサーファー暦15年の僕は打ち寄せる情報の波をネットブックと言うサーフボードで操りながら、もくもくと時間を潰していきました。WiFiが無料で使えるのって、水道の水がそのまま飲めるのと同じくらい素晴らしいことですね。
メールをチェックすると、坂元君からメールが届いていました。どうやらキューバからカンクンへ戻ってきたみたいです。
ハバナ以外の町に出掛けたそうですが、鼻血が出るくらい楽しかったみたいです。ハバナ以外の町ではみんな陽気でフレンドリーで、僕らが夢に描いていたキューバ人がそのまま暮らしているというようなことを言ってました。羨ましい限りですが、もう当面の間、キューバに行くことはないと思います。他にも行きたいところがあるので、「今行きたい国リスト」を作ってもキューバはたぶん20番目くらいだと思います。毎年どこかに出掛けたとしても20年後になります。
ところで、以前、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港とパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港、ローマ・レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港の名前の響きが格好良いとこのブログに書きましたが、今日、ネットサーフィン中にもう一つ格好良い名前の空港を発見しました。それはイギリス、マンチェスターにある国際空港です。
その名を「マンチェスター・ジョン・レノン国際空港」と言います。
これは格好いいと認めざるを得ないでしょう。伝説のロックバンド、ビートルズのボーカル・ギター、ジョン・レノンを冠につけるとは流石はマンチェスターです。
他にも格好良い名前の空港があったらコメント欄にて教えてください。
格好良い空港を投稿してくれた方にはもれなく素敵なお土産をお渡しします。
※まぁこのブログを定期的に読んでくれている物好きの暇人の方々(僕の予想では5人~7人)にはちゃんとお土産を用意しているのですが…
茨城空港もどうせなら「茨城・水戸光圀ちりめん空港」とでもすればよかったのにって思います。
茨城空港も先輩、富士山静岡空港と同じ道を辿るんだと思います。
ところで、茨城空港については僕がときどき参考にしている大前研一氏がずばり的を射た記事を書いています。
〔大前研一「ニュースの視点」〕
KON303 茨城空港も“必要のない空港”になるのか!?~需要予測を厳しくチェックし不幸な空港は作るべからず
サンフランシスコに着いたのですが、今日はなにもしていないのに、なぜか疲れてしまった為、ホステルで5ドルの夕食を食べ、早々に寝ることにします。
◆今日の一冊
「知の衰退」からいかに脱出するか? (単行本)
大前研一 (著)
9時には空港に着いていたので、5時間も待たなければなりませんでした。
空港でホットドックを買って昼食を食べ、その後スタバでコーヒーを買って、インターネットをしたり、手紙を書いたりして時間を過ごしました。
空港内にも(危険極まりない)スロットマシーンが設置されていて、さらに僕の大好きなSTARWARSのスロットマシーン(大好きなのは映画『STARWARS』で、『STARWARSのスロットマシン』ではない)があって、危うく100ドル没収されるところでしたが、ここはなんとかやりすごしました。
ラスベガス空港の素晴らしいところは、WiFiが無料で使えるというところです。
ネットサーファー暦15年の僕は打ち寄せる情報の波をネットブックと言うサーフボードで操りながら、もくもくと時間を潰していきました。WiFiが無料で使えるのって、水道の水がそのまま飲めるのと同じくらい素晴らしいことですね。
メールをチェックすると、坂元君からメールが届いていました。どうやらキューバからカンクンへ戻ってきたみたいです。
ハバナ以外の町に出掛けたそうですが、鼻血が出るくらい楽しかったみたいです。ハバナ以外の町ではみんな陽気でフレンドリーで、僕らが夢に描いていたキューバ人がそのまま暮らしているというようなことを言ってました。羨ましい限りですが、もう当面の間、キューバに行くことはないと思います。他にも行きたいところがあるので、「今行きたい国リスト」を作ってもキューバはたぶん20番目くらいだと思います。毎年どこかに出掛けたとしても20年後になります。
ところで、以前、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ国際空港とパリ・シャルル・ド・ゴール国際空港、ローマ・レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港の名前の響きが格好良いとこのブログに書きましたが、今日、ネットサーフィン中にもう一つ格好良い名前の空港を発見しました。それはイギリス、マンチェスターにある国際空港です。
その名を「マンチェスター・ジョン・レノン国際空港」と言います。
これは格好いいと認めざるを得ないでしょう。伝説のロックバンド、ビートルズのボーカル・ギター、ジョン・レノンを冠につけるとは流石はマンチェスターです。
他にも格好良い名前の空港があったらコメント欄にて教えてください。
格好良い空港を投稿してくれた方にはもれなく素敵なお土産をお渡しします。
※まぁこのブログを定期的に読んでくれている物好きの暇人の方々(僕の予想では5人~7人)にはちゃんとお土産を用意しているのですが…
茨城空港もどうせなら「茨城・水戸光圀ちりめん空港」とでもすればよかったのにって思います。
茨城空港も先輩、富士山静岡空港と同じ道を辿るんだと思います。
ところで、茨城空港については僕がときどき参考にしている大前研一氏がずばり的を射た記事を書いています。
〔大前研一「ニュースの視点」〕
KON303 茨城空港も“必要のない空港”になるのか!?~需要予測を厳しくチェックし不幸な空港は作るべからず
サンフランシスコに着いたのですが、今日はなにもしていないのに、なぜか疲れてしまった為、ホステルで5ドルの夕食を食べ、早々に寝ることにします。
◆今日の一冊
「知の衰退」からいかに脱出するか? (単行本)
大前研一 (著)
2010年4月8日木曜日
Day68 ラスベガスナイト
ラスベガスは危険な街です。
街のいたるところにスロットマシーンが設置されています。空港にもマクドナルドにもスロットマシーンが置かれています。
日本に自動販売機がやたら多いのと同じように、ラスベガスにはスロットマシーンがやたら多く設置されています。
僕は普段まったくもってギャンブラーではないのですが、そんな僕でもついついスロットマシーンに20ドル札を入れてしまいます。
20ドル札は2000クレジットに変わるのですが、この2000クレジットは大体15分でなくなります。ゆっくりやれば30分、45分と持たせられるかもしれませんが、ただスタートボタンを押して、ルーレットが廻って、コマが揃ったり、揃わなかったりの繰り返しで、何一つ面白くないので、一回の掛け金をそこそこ大きくして大体15分くらいで終わってしまいます。
スロットマシーンで20ドルなくなったら、次はルーレットです。ルーレットは赤とか黒とか数字の上にチップを置いて、ルーレットの目が当たれば倍率に応じてチップが増えるし、外れればかけたチップは没収されます。ここでも20ドルはだいたい15分くらいでなくなります。
ルーレットで20ドルなくなったら、次はブラックジャックです。ここでも20ドルを何枚かのチップに変えてそれを賭けながらディーラーと勝負します。ディーラーから渡されるトランプの目の数が21に近づくようにして、21以内でディーラーの手よりも高い数を作れればこちらの勝ちです。何回かやっていると勝ったり負けたりするのですが、ここでも30分も経てば全てなくなってしまいます。
まったくカジノなんてこの世からなくなってしまえばいいんだって思いました。
日本では名古屋でパチンコの違法性を指摘(パチンコはギャンブルだ)して国に対して損害賠償の訴訟を起こしている人がいるそうですが、個人的にはこの人が不慮の事故に遭わないことを祈っています。そして、がんばってもらいたいです。日本でパチンコだけ三点換金方式が通用するのは明らかにパチンコ利権を警察と政治家が握っているからだとしか思えません。今は反日政党なので今回の裁判で原告が勝つことはまずないと思いますが…。
こんな危険な街には長くいられないので、飛行機の便を変更して、明日、サンフランシスコへ行くことにしました。
注意:僕が負けまくったから、こんな日記を書いたわけではありません。
Day67 グレートスピリッツ
ブリティッシュコロンビア大学内にある、UBC人類学博物館に行ってきました。
UBC人類学博物館は主に北西アメリカのネイティブアメリカン研究とその人類学的資料の展示をしています。
いままで人類学というものにはさして興味がなかったのですが、メキシコの国立人類学博物館が意外と面白かったため、バンクーバーにも人類学博物館があると知って、行ってみることにしました。
人類学博物館の面白さは、その地域地域の土着の宗教観を垣間見ることができるところです。
今では世界中にキリスト教やイスラム教、仏教などの大宗教が広がっていて、特に今回僕が旅行している国々ではキリスト教徒が大多数を占め、政治も経済も生活もキリスト教的価値観に染まっているところが多いのですが、一口にキリスト教(とは言えその中にもカトリック、プロテスタント、英国教会などいろいろありますが)と言っても、それぞれの国々で微妙に信仰の仕方やその度合いが違っていました。
例えばイタリアやスペインは思いっきりカトリックで、やはりカトリック的価値観に基づいて人々は暮らしているように感じました。純カトリッククリスチャンです。流石はカトリックの総本山とその親戚の一族が長いこと支配していただけはあるなって感じです。
でもフィンランドは違いました。歴史的にキリスト教が入ってきたのが15世紀ごろと遅かったことと、カレワラというフィンランドに昔から伝わる土着の神話(シャーマニズム的なもの)や北欧神話など、以前からの宗教観が根強く残っていて、未だに人々の心のどこかにそういった宗教観が残っているんじゃないかとフィンランドでは感じました。どう感じたかはこのブログのフィンランド編を見てもらえればわかります。
今回の旅行では行きませんでしたが、韓国人のキリスト教も古くからの宗教である儒教の上にのっているため、目上の存在に対する忠誠心や忠義心といった感覚が他の国のキリスト教徒より強く、よりストイックな教徒が多いそうです。
僕達日本人も、一応仏教徒(僕もそうです)ですという人が多いと思いますが、やはりインドや東南アジアなどの仏教発祥の国々の仏教徒とは違って、僕ら日本人の感覚は仏教というよりも、神道である日本神話的な感覚、シャーマニズム的な自然を畏れ敬うといった感覚のほうが強いんじゃないかと思います。(あるいはその両方が混ざり合っている)
キリスト教やイスラム教(についてはあまり知りませんが…)、仏教というのはなんとなく、秩序やルールを便宜的に保つために皆が揃って着ている仕事用のスーツみたいなもので、その土地に元からあった土着の宗教観こそ、そこに住む人々の体そのものじゃないかって思います。
とは言ってもカナダのように移民ばかりで形成されている国は土着の宗教観が残りにくく、移民と一緒に入ってきたそれぞれの宗教観が混ざり合って、新しい価値観を作り出しているようですが…。UBC人類学博物館にまとめられている北西アメリカに住んでいたネイティブアメリカン達の宗教観は今ではかなり薄れてしまっていて、ほぼ絶滅してしまったような感じです。
ちなみに、北西アメリカにもともと住んでいた先住民達の宗教観は日本と似ているシャーマニズムでした。それも中央アメリカの先住民とは違い、石ではなく木を使った生活をしていて、自然を切り開いて都市を造るというような思考回路はなく、森の中で動物の命を尊いながら狩りをして、人間も大いなる自然の循環の中の一員という自覚を持ちながら暮らしていたそうです。
彼らが祭の時に使うレリーフも太陽や月といった絶対的な存在ではなく、ビーバーや狼、熊やコヨーテ、鷲やハチドリなど、彼らが狩りの対象としていた森の動物達でした。
この博物館では無料のガイドツアーを行っていて、僕らのガイドさんが「ネイティブアメリカン達は自然の循環の中に自分達も含まれているという自覚を持って暮らしていました。そのためむやみに動物を殺すことはしませんでした。たとえ動物を狩るときも、苦しませずに殺す手段を心得ていて、さらに殺す前と殺した後には必ず感謝の祈りを奉げていました。楽しみのために動物を狩ることは決してなく、自分と家族が生きていくためだけに動物を殺していました。人間は死後にグレートスピリッツと呼ばれる自然界の大きな流れの中に還るということが多くの部族の間で信じられていて、自然循環というものを何よりも大切にしていたそうです。このUBCでも環境に配慮した建物が10年以上も前から建設されるようになり、カナダは環境問題にいち早く取り組む国となっているのですが、そういったことも先住民達の文化をどこかで受け継いでいる結果なのかもしれません。」とまぁだいたいそんな感じのことを言っていました。
この後はあとラスベガスとサンフランシスコとハワイが残っています。
ハワイにも人類学博物館ってあるんでしょうか。もしあれば覗いてみようと思います。
◆今日の一冊
シャーマンキング 完全版 1(ジャンプコミックス)
武井 宏之 (著)
2010年4月7日水曜日
Day66 英語の訛り
カナダに住んでいる人達はやたら英語の「訛り」について話をしたがるようです。
今日はダウンダウンに遊びに行って、露天商や土産店の人、道端で声を掛けてきたおじさんやショーンの友達などと話す機会があったのですが、決まって「君の英語はイギリス訛りだね。」と言われました。そういえばショーンも空港で会ったときに同じことを言っていたし、ジュリーナにも同じことを言われました。
確かに僕はイギリス訛りで英語を話します。
なぜかって言うと、学生の時に1ヶ月ちょっとロンドンに語学留学(ほとんど旅行だったけど)していたことと、帰ってきてからトレインスポッティングというイギリス映画の音声をMP3プレーヤーに落として、主演のユワン・マクレガーの発音をトレースしてずっと練習していたからです。
それに加えて僕は何かにつけて「形から入る」性格なので、大学生になって改めて英語を勉強しようと思ったとき、まず発音から始めることにしたのでした。発音が良いだけで、実際よりも英語が話せるように思われますし、ちょっと格好つけることもできます。実際にはそんなに英語を話すことはできないのですが、発音のおかげで周りからこの人は英語が比較的上手だ、と思われているように思います。文法を間違えてたって、なんとなく英語っぽくすらすら言ってしまえば、だいたいはわからないのですから。
今日話をした露天商の人(中国系)は「Wow, you speak Queen's English.」って言ってたし、通りすがりのおじさん(たぶん中国系)は「Are u educated in some Western Country?」って言っていました。お土産屋のおばさん(たぶん中国系)は「Have you lived in England before?」って言っていたし、他のお土産物の店員さん(日本人女性)は「日本人訛がなかったから、最初日本人だって確証が持てなかったわ。」って言ってました。当時の僕の企みは見事に功を奏したみたいです。これは意外と嬉しいです。
それにカナダの人が「イギリス訛だね。」と言うとき、そこにはなんとなく「格好良い」とか「いいなぁ」と言う印象が含まれているように感じました。あとからショーンが言っていたのですが、カナダの女の子の間ではイギリス訛が人気があるようです。それにイギリス訛の方が賢そうに映るんだそうです。
たしかに、イギリス人のしゃべり方って(人によっては)スノッブで上から見下しているかのような感じがするので、賢そうに映るというのはその通りなんだなぁって思いました。
バンクーバーの人達が英語の訛を気にするのはきっと移民や外国人が多いからなんだと思います。
ニューヨークで英語の発音について何か言われたことは一度もなかったし、ロンドンでは当然そんなこと言われるはずもありませんでした。旅行をしていて、こんなに発音のことを言われたのはバンクーバーが初めてでした。でも良い気分です。笑
もし英語を勉強している方がいれば、イギリス英語を勉強されることをオススメします。
カナダに来たときにちょっとした優越感に浸れますよ。笑
◆今日の一冊
トレインスポッティング (スクリーンプレイ・シリーズ―名作映画完全セリフ集)
池下 裕次 (編集), ベス ポラード (編集), Beth Pollard (原著)
今日はダウンダウンに遊びに行って、露天商や土産店の人、道端で声を掛けてきたおじさんやショーンの友達などと話す機会があったのですが、決まって「君の英語はイギリス訛りだね。」と言われました。そういえばショーンも空港で会ったときに同じことを言っていたし、ジュリーナにも同じことを言われました。
確かに僕はイギリス訛りで英語を話します。
なぜかって言うと、学生の時に1ヶ月ちょっとロンドンに語学留学(ほとんど旅行だったけど)していたことと、帰ってきてからトレインスポッティングというイギリス映画の音声をMP3プレーヤーに落として、主演のユワン・マクレガーの発音をトレースしてずっと練習していたからです。
それに加えて僕は何かにつけて「形から入る」性格なので、大学生になって改めて英語を勉強しようと思ったとき、まず発音から始めることにしたのでした。発音が良いだけで、実際よりも英語が話せるように思われますし、ちょっと格好つけることもできます。実際にはそんなに英語を話すことはできないのですが、発音のおかげで周りからこの人は英語が比較的上手だ、と思われているように思います。文法を間違えてたって、なんとなく英語っぽくすらすら言ってしまえば、だいたいはわからないのですから。
今日話をした露天商の人(中国系)は「Wow, you speak Queen's English.」って言ってたし、通りすがりのおじさん(たぶん中国系)は「Are u educated in some Western Country?」って言っていました。お土産屋のおばさん(たぶん中国系)は「Have you lived in England before?」って言っていたし、他のお土産物の店員さん(日本人女性)は「日本人訛がなかったから、最初日本人だって確証が持てなかったわ。」って言ってました。当時の僕の企みは見事に功を奏したみたいです。これは意外と嬉しいです。
それにカナダの人が「イギリス訛だね。」と言うとき、そこにはなんとなく「格好良い」とか「いいなぁ」と言う印象が含まれているように感じました。あとからショーンが言っていたのですが、カナダの女の子の間ではイギリス訛が人気があるようです。それにイギリス訛の方が賢そうに映るんだそうです。
たしかに、イギリス人のしゃべり方って(人によっては)スノッブで上から見下しているかのような感じがするので、賢そうに映るというのはその通りなんだなぁって思いました。
バンクーバーの人達が英語の訛を気にするのはきっと移民や外国人が多いからなんだと思います。
ニューヨークで英語の発音について何か言われたことは一度もなかったし、ロンドンでは当然そんなこと言われるはずもありませんでした。旅行をしていて、こんなに発音のことを言われたのはバンクーバーが初めてでした。でも良い気分です。笑
もし英語を勉強している方がいれば、イギリス英語を勉強されることをオススメします。
カナダに来たときにちょっとした優越感に浸れますよ。笑
◆今日の一冊
トレインスポッティング (スクリーンプレイ・シリーズ―名作映画完全セリフ集)
池下 裕次 (編集), ベス ポラード (編集), Beth Pollard (原著)
Day65 多人種都市バンクーバーと日本人
バンクーバーに着いて、まず驚いたのが、アジア人の多さです。
今は英会話の先生であり友人のパトリックの親友のショーンという人の家に泊まらせてもらっているんだけど、ショーンは台湾系カナダ人で、奥さんのジュリーナは中国系カナダ人です。到着した日の夜にマクドナルドに行ったのですが、このときは客も店員も全てアジア系でした。
ショーンが言うには、バンクーバーには白人や白人と先住民との混血の人が全体の約50%、中国系アジア人が約30%、黒人が10%、残りは東南アジア系、フィリピン系の人がだいたい10%の割合で住んでいるとのことでした。ヨーロッパや日本とは比較にもなりませんが、アメリカやメキシコと比較しても、多人種・多文化都市だと感じました。
カナダはアメリカと比較して外国人に対してオープンな国で、日本人なら働くにも、とりあえずワーキングホリデービザで簡単に入国することができます。そのためワーキングホリデービザを利用してカナダに来ている日本人も多く、日系のお店も沢山あります。知り合った日本人の方が言っていたのですが、ここ2年ほどで、日本人のワーホリ入国者の数が一気に増えたそうです。不景気の影響なんだと思います。
今日は、兄の結婚式に向け髪を切りに日系の美容室に行き、その後、中国系の歯医者に行きました。昼食にはイオンみたいな大型ショッピングモールのフードコートに入っている「TERIYAKI」という日本食風のお店で「すき焼きそば」を食べました。薄めのすき焼き味のスープの中にうどんが入っているものなのですが、これが意外と美味しかったです。フードコートの中に入っているような巨大資本を投下しているフランチャイズのレストランはだいたい美味しいもんです。
夜はショーンの友人の家で夕食をご馳走になったのですが、ショーンの友人も中国系で、子供達ももちろん中国系でした。その家には中国人の女の子がホームステイしていて、今日一日、ほとんどアジア人コミュニティーの中で過ごしました。
アジア人コミュニティーの中で感じたのは、やっぱり居心地が良いということです。もちろんみんな英語で話をするし、生まれたときからカナダにいるので、性格もカナダ人なのですが、顔が似ているだけで、こんなにも居心地の良さを覚えるものかと再認識しました。
それに、これだけいろいろな人種が多く暮らしているせいか人種に対する偏見というものがかなり薄いように感じました。白人だろうと、黒人だろうと、先住民だろうと、アジア人だろうと、混血だろうとバンクーバーではみんな平等に扱われているような気がしました。
やっぱりヨーロッパはアジア人に対して、まだまだ偏見や差別があるし、日本だって外国人に対してすごく強い偏見と差別があります。日本ではマックやスタバで白人や黒人が働いているのを見たことがないし、白人や黒人の外国人は(よほどの技能がない限り)日本ではあまりハイレベルな職業に就けないような気がします。でもバンクーバーには人種が関係なく、それぞれ好きな職業を目指せる風土があるように感じました。ロンドンや東京と違って本当の意味でのコスモポリタンだと思います。
日系の美容室で、隣のお客さん(カナダに住んでる日本人女性)とその人の髪を切っていたスタイリスト(同じくカナダに住んでいる日本人女性)が「日本人って外国に出たがらないよね~。なんでだろうね~。」という話を(なんとなく自分達は違うけど的な感じで…笑)していて、それを聞いた僕の髪を切っているスタイリスト(カナダに住んでいる日本人男性)が「お兄さんは外国で暮らしたいって思わないんですか?」と僕に振ってきたので、僕は「えぇ外国で暮らすのは魅力的だと思いますけどね。でも浜松には5月になると浜松祭りっていう最高に楽しい祭りがあって、7月には隣町でap bank fesっていうミスチルが出る野外fesがあるし、美味しい鰻が食べれるし、それに友達も家族もみんな浜松にいるので、なかなか腰を上げられないですね。」と言っておきました。
外国で暮らすのは確かに面白いかもしれないけど、やっぱり住むなら日本がいいです。日本人のコミュニティーほど落ち着くものはありません。
注:僕は基本とてもネガティブな性格の人間なので、アジア人(の特に男)は世界で最も人気のない人種だという基本姿勢を持っています。
でも、もうすぐこの旅行が終わってしまうのはかなり、かなり、かなり寂しいです。
もう一周しようかな…。
2010年4月6日火曜日
Day64 さらばキューバ
結局、昨夜は一睡も出来ず、ホテルに戻ってシャワーを浴び、先に身支度を整え9時半にホテルを出発するまで、談話室のソファーで30分ほど仮眠しました。
昨夜は不運だったし、昨日も一昨日も僕が事前に聞いていたキューバらしいキューバには出会えなかったけど、それらを抜きにしてもなお、キューバは魅力的なところでした。何より良かったのが、CASA de Aniaという僕が滞在したお宅です。Hostelbookers.comのハバナの欄で圧倒的な評価を得ており、その評価のほとんどが、Aniaさんの人柄によるところでした。とにかく親切で、宿泊者のことを気遣ってくれ、また時にはジョークを言って楽しませ、みんなの雰囲気を和ませてくれる、そんな感じの人でした。そんなAnia氏のおかげで、ここでも何人かの友人ができました。
その中に一人、オーストリア出身のマックス(年齢は不詳だが、僕と同じか少し上だと思う)という男がいたのですが、彼の旅行の始め方が実に面白いと思いました。どうやら彼も仕事を辞め(俺も辞めた!俺も辞めた!と仕事を辞めた同士には何か絆のようなものが芽生えます。世界中ニートだらけなのかもしれません。)これから半年ほど旅行をするそうですが、最初の4ヶ月は中南米を旅行するそうです。中南米では英語はあまり通じず、代わりにスペイン語(またはポルトガル語)が主に話されています。マックスはオーストリア人なので、母国語はドイツ語で、また英語もかなり上手に話すのですが、スペイン語はまったくだそうです。それで、ハバナでまず2週間、スペイン語を勉強してから中南米を旅行すると言って、僕が滞在していた間、彼は毎日学校に通っていました。授業料は2週間で200ユーロだと言っていました。結構安いなと思います。当然、スペイン語が話せればより深く現地の人達と関わることができるし、たとえ、いわゆる観光旅行をするにしたって、断然便利です。でもそんなことって考えたこともありませんでした。僕にとっては外国語は英語だけでもう一杯一杯だし、それだって、中学校から勉強を始めて、ようやく日常会話が話せる程度になったというようなものなので、旅行を始める前(または始めてから)その土地の言葉を覚えようなんて、そんなアイディアは僕の中にはまるでありませんでした。でも確かに、簡単な言葉を覚えるだけなら2週間みっちり勉強すれば最低限なんとかなるのかもしれません。僕も話せるというレベルではないですが、イタリア語文法といくつかの単語を知っているので、まったく英語や日本語が話せないイタリア人ともなんとか(と言っても本当に「なんとか」ですが)コミュニケーションをとることができます。ちゃんと話せなくても、相手が何を言いたいのか、自分が言いたいことをそのときの言葉で少しでも表現できるか、それともまったく出来ないかでは大きく違います。
まぁドイツ語と英語とスペイン語は、日本語と比べると幾分か近い言語なので、僕が思っている以上に気軽に外国語を学ぶ文化があるんだと思います。文字もほとんど一緒ですし、数の数え方も、挨拶も似てます。それにしてもマックスは非常に勉強熱心で、朝僕が起きると、もうテーブルの上で勉強しているし、夜だって夕食を食べて談話室に戻ると、また勉強していました。「えらいね。信じられないよ。」と言うと、「僕も信じられない。」と言って笑っていました。
彼は中南米を旅行した後、8月か9月に日本に来てアジアを旅行してから帰国すると言っていました。別れ際は「日本に行くときは連絡するから日本の綺麗な田舎に連れてってくれ。」と言っていたので、また日本で会うかもしれません。来たら日本語の学校を紹介してあげようと思います。
僕も学生の時、イタリアの友達の家に3週間ずつ、2年続けて滞在させてもらっていたので、このときにペルージャ外国人大学のイタリア語コースを受けておけば良かったって、今になって後悔していますが、後悔先に立たずというやつです。
今、カナダのバンクーバーの友達の友達の家に泊まらせてもらっています。
バンクーバーに来るまでの飛行機の中でぐっすり眠ろうと思っていたのですが、隣に座っていたおばさんが一週間はシャワーを浴びていないんじゃないかという、鼻につく臭いを発していて、マジで一睡も出来ませんでした。しかも飛行機はオーバーブッキングで次の便に回ってもらうボランティアを募集しているほどだったので、他に空席があるわけもなく、また、臭いから何とかしてくれなんてとても言えるわけもなく、ただただ耐えしのぐのみでした。天井のランプの脇に付いているエアの噴出孔を全開にて僕の鼻に向けて新鮮な空気を送り続け、エアカーテンを作って何とかしのいでいましたが、それでもなお辛かったです。マジで一睡も出来ませんでした。目からは涙が出てきました。
旅行の最初の頃に、バンコクからフランクフルトに飛ぶ飛行機の中で、ずっと咳をしていて、さらに僕の肘掛に侵略してきたドイツ人のおっさんがいたけれど、それと比べても比較にならないほど辛かったです。
僕は毎日シャワーを浴びているし、シャンプーもしているし、下着もシャツも1週間に1回くらいのペースでちゃんと洗濯しているので、臭くないとは思いますが、長いこと旅行していると、服も顔もだんだん汚れてきます。たぶん大丈夫だと思いますが、自分の体臭って本人はあまり気づかないものなので、、日本に帰ったときに、「ちょっと臭いんですけど、勘弁してもらえません?」と言われないように気をつけたいと思いました。
2010年4月5日月曜日
Day63 真実のキューバ
キューバの真の姿を見たくなった僕は、昨日までと打って変わって積極的に攻勢に転じることにしました。実は昨夜、カンクンで知り合った「世界の国からコンニチワ」ブログの作者の坂元君が合流し、今日は二人で市内観光をすることにしました。坂元君はいわゆる観光地にはあまり興味がないらしく、より本物のキューバを感じたいとのことでした。昨日、僕が感じたキューバの違和感について彼に話をしたら、彼のテンションは一気に下がり、深く落ち込むと共に、そんなはずはない、ちゃんと自分の目で確かめるんだと言って、僕達は今日一日、日本人的感性を脱ぎ捨て積極的にキューバ人と関わりあうことを誓い合いました。
まずは広場で短距離走の測定をしていたキューバ人中学生の集団にアタックです。
先生と思われる男性に向かって「Hola!」と言うと、向こうも気さくに「Hola!」と返してくれます。ここまでは普通です。その後、生徒達に「Hola! Soy japonés.」と言って、空手の型みたいなことをすると、盛り上がりました。ここぞとばかりに、ジェスチャーで「俺も走りたい。競争しよう。」というようなことを伝えると、なんと先生が快く応じてくれました。少し大きな黒人の男の子と小さな黒人の男の子が一緒に走りたいといって、3人で勝負しました。結果、僕はスタートのタイミングがわからず遅れてしまったため、大きな黒人の男の子(男の子といっても高校生並みの体格)には勝てず、2着でした。その後、生徒達と少しだけ打ち解けて、最後に皆で写真を撮りました。ほとんどの子供は純粋で良い子だったのですが、数名の男子生徒は「金をくれ」とせびってきました。「ごめんね。」と言ってお金はあげなかったのですが、結構打ち解けたと思った後だったので、すこしショックでした。やはり子供たちも飢えているのかなと思わされました。それにメキシコ人と比較すると、メキシコ人の方が無邪気で可愛げがあります。
その後、道端でキューバ人男性が声を掛けてきました。でも向こうから声を掛けてくるキューバ人男性は決まって「コヒーバ(というキューバ製の葉巻)はいらないか?安く売ってあげるよ。」という偽葉巻売りか、そうでなくて、いろいろキューバのことを話してくれたり、日本に行きたいとか、日本に友達がいるというような世間話をしたとしても、必ず最後には「食べるためのお金をくれないか?」と言ってきます。食べ物は配給を受けていて不足してないんじゃないの?と思いながら「申し訳ないけど、お金はあげられない。」と断り続けました。
道を歩いていたキューバ人女性に声を掛けてみようということになり、映画トレインスポッティングのワンシーンでレントンがディスコの前でダイアンをナンパするときのようなテンションで通りすがりのキューバ人女性に声を掛けてみました。最初、道を聞いて「よかったら一緒に行かない?」と言ってみたのですが「それは、ちょっと…。仕事があるから。」とあっさり断られました。笑 まったくキューバまで来て何をしてるんだか…。それもこれも真のキューバを見たいという純粋な探究心からでた行動なのですが。結局、写真を一緒に撮ったのですが、やっぱりメキシコ人やアメリカ人と比べると少し控えめな感じでした。いわゆるラテンのノリというやつは感じられませんでした。ここでも昨日感じた男女の仲保守的説が再び浮上しました。
その後、道行く人や店員さんと少し会話をしたのですが、やはりぎこちなさがありました。キューバ人のほとんどが英語を話さず、僕達もスペイン語をほとんど話せないので、上手くコミュニケーションが取れないということもあるのですが、やはりメキシコ人と比較して、あらゆる面で保守的でした。
カナダ人の友人や浜松在住のキューバ人男性が言っていた「道端やカフェで声を掛けたら、みんな快く応じてくれるよ。」というのはどうやら間違いであったと思わざるを得ないようです。
ただ、旧市街の中心部にある公園で野球談義をしているおっさん達だけは違いました。彼らが醸し出していた空気こそきっと本当のキューバの空気だと感じました。
ご存知の通り、キューバでは野球が大変人気で盛んなのですが、僕が滞在していた期間にはちょうど野球リーグのチャンピョンシップの試合が行われていました。キューバ野球のチャンピョンシップは日本のプロ野球の日本シリーズと同じような仕組みで、先に4勝をあげたチームが優勝となります。今年はハバナのチームとサンタクララのチームが争っていたのですが、この日までの試合結果は3対3でした。なので今夜がキューバ野球にとって、そしてハバナチームのファンにとって最も重要な日だったわけです。そんなわけで公園には大の大人達が集まって、ものすごい形相で野球談義をしていました。きっとどっちのチームが勝つとか、あいつは昨日良いプレーをしたとかしなかったとか、そういったことを話していたんだと思いますが、あまりの白熱ぶりに、最初、喧嘩でもしてるんじゃないかと思ったほどでした。でもすぐにみんな笑顔になって肩を抱き合いながら、はっはっはと笑い合っては、また喧嘩でもしているような真剣な談義が始まります。これの繰り返しでした。この野球談義だけは、ラテンの情熱を感じさせてくれるものでした。
結局この日もキューバ人に対する僕の印象は昨日とあまり変わらず、観光を終えて、ホテルへ戻りました。
ホテルに戻るとオーナーのアニアが談話室にいたので、彼と少し話すことにしました。
僕がこの2日間で感じたことを話したのですが、僕が予想していた、キューバ人は観光客と積極的に関わってはいけないのではという説は間違っているようでした。彼らがあまりフレンドリーでないのは、まず英語が話せないことと、ハバナは大都会だから人々は他人をあまり気にせず暮らしているというようなことを言っていました。昔ながらのキューバ人とは少し違うとのことです。うーんと、少し納得し難い答えでしたが、キューバ人はもともとそれほどオープンじゃないんだということにしておこうと思いました。
配給制度についても少し教えてもらいました。例えば米や野菜は充分な量をもらえるそうですが、肉や魚は足りないそうです。配給で食べていくことはできるけど、満足ではないと言っていました。
居住制限や旅行制限なども教えてもらったのですが、やはり資本主義の国の人々と違って、制限があり、貧乏な生活をしているようで、そのことに不満を感じているキューバ人も多いそうです。「キューバはこのまま社会主義を続けていけるのか?」という質問には「それはわからない。でも少しずつ変わっている。」と言っていました。
昨夜、一緒に食事をしたドイツ人夫婦が「この国が10年後どうなるのか興味深い。」と言っていたのですが、僕もそう思いました。10年も経てばもしかすると政策転換が起きているかもしれません。
ホテルに戻って一休みしていると、もう一人、カンクンの宿で出会った陽平君がもう一日遅れてやってきました。3人で外で夕食を食べ、ホテルに戻って談話室のテレビでその野球チャンピョンシップの中継を見ました。キューバの野球は夜8時から始まって、なんと深夜2時まで続きます。同じホテルに滞在していたオーストリア人のマックスとブラジル人のガブリエル、ホテルのオーナーも混ざって、みんなで観戦しました。ゲームの進行がかなり遅いペースで、いらいらするのですが、それでもチャンピョンシップだけあって、かなり白熱した試合になりました。ハバナのチームが点を取ると、外ではどこからともなく歓声があがります。「今日ハバナが勝ったらみんなでパーティーだ。外に飲みに出掛けよう。」と言い合いながら試合を観戦しました。結果は10回の裏のサンタクララの攻撃を0点で押さえ、見事ハバナのチームが優勝しました。このときはもうハバナの町が何かから開放されたかのように盛り上がり、喜びで街中が溢れかえっていました。僕達もようやくキューバ人の本当の姿を目にすることができる!と思って、通りに飛び出し、キューバ人達と肩を抱き合って、チャンピョンになったことを祝いました。みんなで勝利の雄たけびを上げ、車のクラクションを鳴らし、街中のいたるところで踊りました。
このとき僕らはキューバ人がようやく心を開いてくれたことと、すこし酔っ払っていたこともあって、かなり気が緩んでいました。
そして、事件は起きたのです…。
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それでは。
まずは広場で短距離走の測定をしていたキューバ人中学生の集団にアタックです。
先生と思われる男性に向かって「Hola!」と言うと、向こうも気さくに「Hola!」と返してくれます。ここまでは普通です。その後、生徒達に「Hola! Soy japonés.」と言って、空手の型みたいなことをすると、盛り上がりました。ここぞとばかりに、ジェスチャーで「俺も走りたい。競争しよう。」というようなことを伝えると、なんと先生が快く応じてくれました。少し大きな黒人の男の子と小さな黒人の男の子が一緒に走りたいといって、3人で勝負しました。結果、僕はスタートのタイミングがわからず遅れてしまったため、大きな黒人の男の子(男の子といっても高校生並みの体格)には勝てず、2着でした。その後、生徒達と少しだけ打ち解けて、最後に皆で写真を撮りました。ほとんどの子供は純粋で良い子だったのですが、数名の男子生徒は「金をくれ」とせびってきました。「ごめんね。」と言ってお金はあげなかったのですが、結構打ち解けたと思った後だったので、すこしショックでした。やはり子供たちも飢えているのかなと思わされました。それにメキシコ人と比較すると、メキシコ人の方が無邪気で可愛げがあります。
その後、道端でキューバ人男性が声を掛けてきました。でも向こうから声を掛けてくるキューバ人男性は決まって「コヒーバ(というキューバ製の葉巻)はいらないか?安く売ってあげるよ。」という偽葉巻売りか、そうでなくて、いろいろキューバのことを話してくれたり、日本に行きたいとか、日本に友達がいるというような世間話をしたとしても、必ず最後には「食べるためのお金をくれないか?」と言ってきます。食べ物は配給を受けていて不足してないんじゃないの?と思いながら「申し訳ないけど、お金はあげられない。」と断り続けました。
道を歩いていたキューバ人女性に声を掛けてみようということになり、映画トレインスポッティングのワンシーンでレントンがディスコの前でダイアンをナンパするときのようなテンションで通りすがりのキューバ人女性に声を掛けてみました。最初、道を聞いて「よかったら一緒に行かない?」と言ってみたのですが「それは、ちょっと…。仕事があるから。」とあっさり断られました。笑 まったくキューバまで来て何をしてるんだか…。それもこれも真のキューバを見たいという純粋な探究心からでた行動なのですが。結局、写真を一緒に撮ったのですが、やっぱりメキシコ人やアメリカ人と比べると少し控えめな感じでした。いわゆるラテンのノリというやつは感じられませんでした。ここでも昨日感じた男女の仲保守的説が再び浮上しました。
その後、道行く人や店員さんと少し会話をしたのですが、やはりぎこちなさがありました。キューバ人のほとんどが英語を話さず、僕達もスペイン語をほとんど話せないので、上手くコミュニケーションが取れないということもあるのですが、やはりメキシコ人と比較して、あらゆる面で保守的でした。
カナダ人の友人や浜松在住のキューバ人男性が言っていた「道端やカフェで声を掛けたら、みんな快く応じてくれるよ。」というのはどうやら間違いであったと思わざるを得ないようです。
ただ、旧市街の中心部にある公園で野球談義をしているおっさん達だけは違いました。彼らが醸し出していた空気こそきっと本当のキューバの空気だと感じました。
ご存知の通り、キューバでは野球が大変人気で盛んなのですが、僕が滞在していた期間にはちょうど野球リーグのチャンピョンシップの試合が行われていました。キューバ野球のチャンピョンシップは日本のプロ野球の日本シリーズと同じような仕組みで、先に4勝をあげたチームが優勝となります。今年はハバナのチームとサンタクララのチームが争っていたのですが、この日までの試合結果は3対3でした。なので今夜がキューバ野球にとって、そしてハバナチームのファンにとって最も重要な日だったわけです。そんなわけで公園には大の大人達が集まって、ものすごい形相で野球談義をしていました。きっとどっちのチームが勝つとか、あいつは昨日良いプレーをしたとかしなかったとか、そういったことを話していたんだと思いますが、あまりの白熱ぶりに、最初、喧嘩でもしてるんじゃないかと思ったほどでした。でもすぐにみんな笑顔になって肩を抱き合いながら、はっはっはと笑い合っては、また喧嘩でもしているような真剣な談義が始まります。これの繰り返しでした。この野球談義だけは、ラテンの情熱を感じさせてくれるものでした。
結局この日もキューバ人に対する僕の印象は昨日とあまり変わらず、観光を終えて、ホテルへ戻りました。
ホテルに戻るとオーナーのアニアが談話室にいたので、彼と少し話すことにしました。
僕がこの2日間で感じたことを話したのですが、僕が予想していた、キューバ人は観光客と積極的に関わってはいけないのではという説は間違っているようでした。彼らがあまりフレンドリーでないのは、まず英語が話せないことと、ハバナは大都会だから人々は他人をあまり気にせず暮らしているというようなことを言っていました。昔ながらのキューバ人とは少し違うとのことです。うーんと、少し納得し難い答えでしたが、キューバ人はもともとそれほどオープンじゃないんだということにしておこうと思いました。
配給制度についても少し教えてもらいました。例えば米や野菜は充分な量をもらえるそうですが、肉や魚は足りないそうです。配給で食べていくことはできるけど、満足ではないと言っていました。
居住制限や旅行制限なども教えてもらったのですが、やはり資本主義の国の人々と違って、制限があり、貧乏な生活をしているようで、そのことに不満を感じているキューバ人も多いそうです。「キューバはこのまま社会主義を続けていけるのか?」という質問には「それはわからない。でも少しずつ変わっている。」と言っていました。
昨夜、一緒に食事をしたドイツ人夫婦が「この国が10年後どうなるのか興味深い。」と言っていたのですが、僕もそう思いました。10年も経てばもしかすると政策転換が起きているかもしれません。
ホテルに戻って一休みしていると、もう一人、カンクンの宿で出会った陽平君がもう一日遅れてやってきました。3人で外で夕食を食べ、ホテルに戻って談話室のテレビでその野球チャンピョンシップの中継を見ました。キューバの野球は夜8時から始まって、なんと深夜2時まで続きます。同じホテルに滞在していたオーストリア人のマックスとブラジル人のガブリエル、ホテルのオーナーも混ざって、みんなで観戦しました。ゲームの進行がかなり遅いペースで、いらいらするのですが、それでもチャンピョンシップだけあって、かなり白熱した試合になりました。ハバナのチームが点を取ると、外ではどこからともなく歓声があがります。「今日ハバナが勝ったらみんなでパーティーだ。外に飲みに出掛けよう。」と言い合いながら試合を観戦しました。結果は10回の裏のサンタクララの攻撃を0点で押さえ、見事ハバナのチームが優勝しました。このときはもうハバナの町が何かから開放されたかのように盛り上がり、喜びで街中が溢れかえっていました。僕達もようやくキューバ人の本当の姿を目にすることができる!と思って、通りに飛び出し、キューバ人達と肩を抱き合って、チャンピョンになったことを祝いました。みんなで勝利の雄たけびを上げ、車のクラクションを鳴らし、街中のいたるところで踊りました。
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2010年4月4日日曜日
Day62 理想と現実の間
僕が事前に仕入れていたキューバ情報はどうやら8割方間違っていたようでした。
情報の仕入れ先は①テレビや雑誌、②カナダ人の友人、③キューバに行ったことのある元同僚、④浜松在住のキューバ人、⑤カンクンのホテルで出会った日本人旅行者でした。
まず、①テレビや雑誌などのマスメディアから仕入れた情報では、1959年にチェ・ゲバラが活躍した革命以降、キューバは北中南米に誕生した唯一の社会主義国家となり、そのためアメリカ合衆国から敵対され、さらにキューバ危機という鮮烈な印象の言葉が広く出回っているため、(アメリカ寄りの)日本ではキューバと聞くと「危険な国」や「独裁国家」と言った印象を無闇に思い浮かべてしまうが、実はそうではなく、キューバは社会主義国家を辿った国の中でも最も成功している国の一つで、例えば医療・教育水準は北欧にも引けを取らない高水準を誇っており、識字率はほぼ100%だし、小学校から大学までの学費は全て無料で、ハバナ大学医学部の学費は外国人も無料となっている。人々は年収わずか1万円ながらも社会主義国家ならではの配給制度があるため、贅沢ではなくても充分な暮らしを送ることができ、治安も周辺諸国と比べて非常に良く、安心して観光することができる。また、キューバ人は陽気で人柄が良く、野球といったスポーツやキューバJAZZが有名で、街角を歩けば陽気なキューバ人が野球談義をしていたり、路上でJAZZの演奏をしている光景を目にすることが出来る。とまぁこんな感じでした。
そして、僕の熱心な英会話教師の②カナダ人の友人が言うには、「キューバは今僕が最も興味のある国だ。街には50年代のクラシックカーが走っていて、建物はどれも古く情緒があって、さらにキューバ人はみんな陽気でフレンドリーなんだって。日本やアメリカ、カナダみたいに資本主義じゃないから、人々はもっとのんびりしていて、社会主義ならではのリラックスした空気が流れてるんだよ。」他にも「キューバ人女性は非常にオープンでカフェで声を掛ければ気軽に応じてくれ、日本やカナダとは大違い。ラテンの人達なんだ。是非行くべきだよ。」と強くキューバ旅行を勧めてくれました。
僕の友人であり③キューバに行ったことのある元同僚の話では「キューバには絶対に行くべきだな。マクドナルドもコカコーラもないんだぜ。街には広告なんて一つも出てないんだ。そんな風景見たことあるか?」「めちゃめちゃ古いアメリカの車とかフォルクスワーゲンビートルが走ってるし、キューバ人の女性はケツを振りながら陽気に通りを歩いてて、日本では想像も出来ないような世界だよ。」と言ってました。ただ彼は同時に「キューバに4泊もしたら、やることが無くて廃人になる。2泊3日で充分だ。」とも言っていました。
そして、カナダ人の友人の紹介で会った④浜松在住のキューバ人は「確かにキューバ人は陽気でフレンドリーだよ。日本人とは比較できないほどにね。キューバを旅行するなら少なくとも10日はいるな。ハバナだけでも少なくても5日は欲しい。見所も沢山あるからね。」「キューバ人の女性?みんなフレンドリーでボニータだよ。道端で声を掛けても全然問題ないよ。Eres muy bonita(綺麗ですね)!って言えばみんな喜ぶよ。」と教えてくれました。
キューバに行く直前に滞在していた⑤カンクンの日本人宿で出会った日本人旅行者達も口をそろえて「キューバめっちゃ楽しみ。」とか「キューバに行ってたんだけど、すごく良い所だったよ。何もないんだけどね、でもその何もないところがまた素敵だった。」と言っていました。
ここまでみんなが揃ってキューバのことを良く言うので、僕の胸は期待で膨れ上がっていました。
しかし、キューバに着いた翌日、ハバナ市内を一日観光して感じたのは「大きな違和感」でした。
僕が感じた違和感を簡潔に表現するのなら「僕達旅行者は動物園の檻の外からキューバ社会を眺めることはできるが、決して彼らの社会の一員として受け入れてはもらえない。」といった感じです。
まず、キューバの物価は、おそらく中南米でも一、二を争う高さだと思います。キューバにはCUPと呼ばれるキューバ国民の為の人民ペソとCUCと呼ばれる観光客の為の観光ペソの2種類があります。1CUPはだいたい4円くらいで、1CUCはだいたい100円くらいです。僕達観光客が買い物をするにはCUCという外国人向けのお金を使わないといけなく、このCUCで買い物をすると、なんでも高くなります。例えば道端で売っているアイスクリームが2CUC(約200円)だったり、モヒートというキューバ発祥のカクテルは大体3.5~4.5CUC、食事は場所にも寄りますが安くても5CUCから高くて15、20CUC、ガイドブックに紹介されている市内のホテルは最安値でも1泊60CUC~です。ドミトリーは法律で禁止されているそうです。キューバでは年収が1万円程度なのに対し、観光客は1日で1万円使わざるを得ないといった感じです。実際にはホテルには宿泊せず、ネットで調べた個人宅の部屋貸し(政府認可)を利用したので、宿泊費は20CUC程度でした。僕が宿泊したCASA de Ania(Aniaの家)というところは非常に良い所でした。
ところで、もし僕達外国人と現地人が一緒に食事に行ったらどちらのお金を使うことになるんでしょうか?気になるところです。ただ、通貨が違う時点で僕達観光客がキューバ社会の中に入ることが一つ難しくなるのです。
ハバナ市内には大勢の観光客で賑っていて、かなり観光地化していました。
ソビエトの崩壊後、キューバ政府は外貨獲得のために観光政策を取り入れたのですが、どうやらそれが実を結んでいるようです。キューバの人達は観光客から稼いだ外貨で暮らしているように思えました。
またキューバの人々からは僕らと積極的にかかわりを持ちたくなさそうな印象を受けました。メキシコでは子供達が大勢でやってきたり、女の子達が一緒に写真に写ってくれと歩み寄ってきたりするのですが、キューバの人々は決してそんなことはしてきません。通りでJAZZを演奏している人は一人もいませんでした。(公園で野球談義をしている人達はいましたが)こちらから声を掛ければ、人によっては笑顔で応じてくれたり、話をする人もいたのですが、半分以上の人達は笑いを浮かべた後、はっとしたようにその笑いを引っ込め、どうもと軽く挨拶をしてすぐに去って行きます。最初、人前で堂々と観光客とコミュニケーションを取ってはいけない何かがあるのかと思ったほどでした。
男女の関係も他の国と比較して保守的で例えば路上でキスをしていたり、いちゃいちゃしているカップルは一組も目にしませんでした。メキシコではカップルはこれでもかってくらいにイチャついていたので、それと比べると雲泥の差です。日本よりも保守的じゃないかって思ったくらいです。
人々は陽気というよりも、何かを我慢しているように見受けられました。滞在二日目の夜にホテルの下の食堂で一緒に夕食を食べたドイツ人夫婦が「キューバの人達は自分達が一年かけて稼ぐお金と同じ額のお金を欧米亜の旅行者が使うのを見たり、最新のカメラや携帯電話を持っているのを見て、何も感じないわけがない。社会主義はいずれ滅びる。」と言っていました。確かにその通りです。僕は無知にもキューバ政府が充分な配給を国民に与えているため多くの国民はキューバでの生活に満足していて、のんびり暮らしているということを信じていました。でも、老人でもない限り、少しでも上の生活をしたいと思うのは当たり前で、外国人が持っているクールなアイテムを見て、羨ましくないはずがなかったのです。ドイツ人夫婦と食事をしている席の隣の席には、外国人の初老の男性とキューバ人の子連れの家族が食事をしていて、この外国人の男性(おそらく親戚のおじさんか何か)がキューバ人の子供にプレイステーションポータブルをプレゼントしていたのですが、この子供は他の国の子供がPSPをプレゼントしてもらった時と同じように、文字通り飛び上がって喜んでいました。資本主義だろうと社会主義だろうと、友達が持っていないアイテムを手に入れたい、他人が消費できない記号を消費したいという願望は変わらないんです。
でも不思議なことに、僕が最新のデジカメをで写真を撮っていても、iPhoneを使っていても、誰も見せてくれと寄って来ないのです。この点もメキシコとは違いました。欲望を押さえているように感じました。
国立美術館に行ったのですが、僕が感じた違和感はここで一気に膨れ上がりました。
街には50年代の車が走っていて、建物はどれも古く、時代が止まってしまったかのような印象を受けるのに対し、キューバのアートは確実に最先端を進んでいました。それもキューバ独自のアートとしてガラパゴス諸島のように進化したというわけではなく、世界のモダンアートの流れをちゃんと汲んでいて、それでいてキューバ独自のテーマを取り入れ、新しいものや更なる高みを求めているように感じられました。なぜこのことが僕に違和感を与えたのかと言うと、通常、一般人の生活や感覚はアーティストと呼ばれる感受性の高い人々の生活や感覚を追いかけるように育ち、変化していくからです。ですが、キューバに関してはアートは他の世界と変わらないレベルに達しているのに、一般人の生活は止まったままになっているんです。アート作品からはアーティスト達が新しいものやさらなる高みを目指す「欲求」が感じられるのに、人々からあるはずの「欲求」が感じるのはやっぱり変だと思います。隠しているとしか思えませんでした。
なんだかキューバは濃い霧で覆われていて、その全容を見透かすことは簡単ではないようです。明日こそはもう少しキューバ社会の中に潜入して、本当のキューバの姿を暴いてやりたいと思います。
Day61 実はキューバに行けなかった
更新がかなり遅れました。
予想していた通り、キューバではインターネットは自由に使えませんでした。宿泊した宿にはインターネットが使えるパソコンが1台だけあったのですが、日本語に対応していず、また宿泊者全員でシェアしないといけないので、ブログを更新する時間はなく、また、理由はわからないのですが、インターネットは夜の8時から朝の9時までしか使えませんでした。それも物理的に接続できないのではなく、接続すると何か良くないことがあるから、接続しないといった感じで使えませんでした。規制?みたいな感じでした。宿の人も「キューバではインターネットをするのは難しい」と言っていました。やはり社会主義の国は少し怪しいところがあります。
今はバンクーバーの友人の家におじゃましています。
キューバの分のブログをまとめていくつかアップしようと思います。
まずは、Day61 実はキューバに行けなかった からです。
意気揚々とカンクンの日本人宿を後にし、2日遅れでキューバにやってくる坂元君らに「一足先にキューバに行くよ。悪いね。笑 まぁゆっくり遊びにおいでよ。」と嫌味の一つをさらっと言って、空港に向かったのですが、不運にも僕が乗る予定の飛行機がフライトキャンセルになってしまい、結局この日はキューバに行くことが出来ませんでした。日頃の悪行が廻りまわって戻ってきたみたいです。
空港で散々待たされた挙句、機体の整備不良だということで、翌日のフライトに乗ることになりました。この日のホテル代は航空会社が負担して、さらに空港内の免税店で使える300ペソの金券をくれたのですが、失われた1日はお金では買えません。かなりショックでした。これで4泊の滞在予定が3泊になってしまい、僕のキューバ滞在スケジュールは大きくずれることになりました。1日ってなんて大きいんだろうって思い知らされました。1日あれば本を読みなさい、1年あれば種を蒔きなさい、1生あれば家を建てなさいと良く言われるのですが、1日なくなってしまったので、持ってきたヘミングウェイの短編集を読むのは辞めにします。と言っても持っているのは「われらの時代/男だけの世界」というヘミングウェイ短編集全3巻の第1巻目で、まだ若い頃の作品なので、キューバとはまったく関係ないんですが…
大きなショックを受けて、ホテルに戻り、近くのコインランドリーで溜まっていた洗濯をして、ホテルで不貞寝してやりました。
空港の免税店で待っている間にかなり格好いいサングラスを見つけてしまい、翌日、航空会社からもらった金券を使って、そのサングラスを買ってしまいました。アルマーニ社のもので、僕の好きなカーブのきついタイプのものです。でもこれは世紀の無駄遣いです。お前の人生においてそんなに沢山のサングラスは必要なのか?って思います。そのうちトニー滝谷の奥さんみたいになってしまうかもしれません。まんまと航空会社の策略にはまってしまいました。まぁ1900ペソ-300ペソ(約11,200円)で買えたので、かなりお買い得でした、ということにして無駄遣いを正当化することにします。
ようやく待ちに待ったキューバに到着しました。
どんなハプニングがあるのか、楽しみでなりません。
※ウェブアルバムはすでに更新済みです。良かったら見てください。
◆ウェブアルバム Havana2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Habana2010#
◆今日の一冊
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)
アーネスト ヘミングウェイ (著), Ernest Hemingway (原著), 高見 浩 (翻訳)
予想していた通り、キューバではインターネットは自由に使えませんでした。宿泊した宿にはインターネットが使えるパソコンが1台だけあったのですが、日本語に対応していず、また宿泊者全員でシェアしないといけないので、ブログを更新する時間はなく、また、理由はわからないのですが、インターネットは夜の8時から朝の9時までしか使えませんでした。それも物理的に接続できないのではなく、接続すると何か良くないことがあるから、接続しないといった感じで使えませんでした。規制?みたいな感じでした。宿の人も「キューバではインターネットをするのは難しい」と言っていました。やはり社会主義の国は少し怪しいところがあります。
今はバンクーバーの友人の家におじゃましています。
キューバの分のブログをまとめていくつかアップしようと思います。
まずは、Day61 実はキューバに行けなかった からです。
意気揚々とカンクンの日本人宿を後にし、2日遅れでキューバにやってくる坂元君らに「一足先にキューバに行くよ。悪いね。笑 まぁゆっくり遊びにおいでよ。」と嫌味の一つをさらっと言って、空港に向かったのですが、不運にも僕が乗る予定の飛行機がフライトキャンセルになってしまい、結局この日はキューバに行くことが出来ませんでした。日頃の悪行が廻りまわって戻ってきたみたいです。
空港で散々待たされた挙句、機体の整備不良だということで、翌日のフライトに乗ることになりました。この日のホテル代は航空会社が負担して、さらに空港内の免税店で使える300ペソの金券をくれたのですが、失われた1日はお金では買えません。かなりショックでした。これで4泊の滞在予定が3泊になってしまい、僕のキューバ滞在スケジュールは大きくずれることになりました。1日ってなんて大きいんだろうって思い知らされました。1日あれば本を読みなさい、1年あれば種を蒔きなさい、1生あれば家を建てなさいと良く言われるのですが、1日なくなってしまったので、持ってきたヘミングウェイの短編集を読むのは辞めにします。と言っても持っているのは「われらの時代/男だけの世界」というヘミングウェイ短編集全3巻の第1巻目で、まだ若い頃の作品なので、キューバとはまったく関係ないんですが…
大きなショックを受けて、ホテルに戻り、近くのコインランドリーで溜まっていた洗濯をして、ホテルで不貞寝してやりました。
空港の免税店で待っている間にかなり格好いいサングラスを見つけてしまい、翌日、航空会社からもらった金券を使って、そのサングラスを買ってしまいました。アルマーニ社のもので、僕の好きなカーブのきついタイプのものです。でもこれは世紀の無駄遣いです。お前の人生においてそんなに沢山のサングラスは必要なのか?って思います。そのうちトニー滝谷の奥さんみたいになってしまうかもしれません。まんまと航空会社の策略にはまってしまいました。まぁ1900ペソ-300ペソ(約11,200円)で買えたので、かなりお買い得でした、ということにして無駄遣いを正当化することにします。
ようやく待ちに待ったキューバに到着しました。
どんなハプニングがあるのか、楽しみでなりません。
※ウェブアルバムはすでに更新済みです。良かったら見てください。
◆ウェブアルバム Havana2010
http://picasaweb.google.com/satoshimaejima/Habana2010#
◆今日の一冊
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)
アーネスト ヘミングウェイ (著), Ernest Hemingway (原著), 高見 浩 (翻訳)
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